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The Jazz Bones ジャズ・ボーンズについて知ってることすべて

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それは早春2月の気持ちの良い日曜日、荒川土手を走っていた時だった。家から土手までの市街地を走る間は、車の危険があるのでイヤフォンは着けない。土手の上の歩行者専用の道を走る間だけ大きな音で音楽を聴きながら走る。フリッパーズ・ギターのファーストアルバム(こんなにも土手の上が似合う音楽を僕は他に知らない)を聴き終えて、次は・・。そうだ、あの頃のムードに浸るならジャズ・ボーンズのライブを聴こう。1988年に観たライブを自分のテレコで録音した音源が手元に残っている。ゆったりした裏打ちのビートに印象的なホーンのイントロが絡み、やがて気持ちの良いギターのカッティングにのって張りのあるハイトーンのヴォーカルが。女性?と思ってしまうほどの繊細さと、ソウルフルな力強さが同居した不思議な歌。Don’t pass me by.という曲の間奏部分で、ギターだけの演奏になり裏打ちのカッティングが8小節分繰り返される。そのリバーブの残響を聴いたとき、唐突にふっと「祈り」みたいなものを感じた。あれ?こんなに良かったか?なんかすごいな、これ。

3月末に下北沢の書店B&Bで「日本のZINEについて知ってることすべて」というトークイベントの開催が控えていた。ゲストには1980年代後半の日本のロックシーンに大きな影響を与えたといわれる伝説のミニコミ誌「英国音楽」を主催していた小出亜佐子さんが登壇するという。フリッパーズ・ギターのファンであれば、英国音楽の名を知らない人はいないだろう。メジャーからのデビュー前、まだロリポップ・ソニックと名乗っていた彼らの音をフレキシの形で冊子に添えていち早く紹介したのが英国音楽なのだ。当時の英米の音楽シーン、日本のライブハウスシーンなども広範に取り上げて号を重ねていた冊子だから、このトークイベントの話題はフリッパーだけにとどまるわけもなく、80年代後半の、あの熱に浮かされたようなライブハウスシーンについてどんな話が聞けるのだろうかとワクワクしていたのだ。

僕が大学に入学したのが1986年。細々とではあるけれど自分でもバンド活動を行っていたので、当時はあちこちのライブハウスに頻繁に出入りしていた。旧来からの、音を観客に投げつけるようなパンクやアングラテイストのバンドも沢山いたが、もっと洗練されていて、ポップ・ロックの破壊を試みたパンクの行為までも全部ひっくるめてポップミュージックの歴史として俯瞰するような、そんな広い視野を感じさせるバンドがあちこちに出現しつつあった。ダン・ヒックスとナット・キング・コールのカバーを聴かせるオリジナル・ラブ。ニック・ロウとバカラックを歌うミスター・クリスマス。「渋谷系」を通過した21世紀から眺めれば、むしろ可愛らしいチョイスに見えるかもしれない。でも1980年代にこれは最高にクールな選曲だった。オリジナル・ラブのライブに足繁く通うようになって、そんな新しい時代の到来を期待させるたくさんの対バンと出会った。グランドファザーズ、BL-WALTZ、カーネーション、メトロファルス、ナーヴ・カッツェ、ソフト・バレエ、ロリポップ・ソニック、そしてジャズ・ボーンズ!

1988年7月31日Lamama。オリジナル・ラブは初のアルバム発売記念ライブを開催した。超満員の会場には結局肝心のアルバムは届かなかった(製作が間に合わなかった。翌週には販売開始)が、歴史に残るような素晴らしいライブだった。その時の対バンがジャズ・ボーンズ。先行して1時間弱のステージだっだと思う。ステージを観たのはこの一度だけ。最初に連続して演奏された何曲かを聴いた後、オリジナル・ラブ目当てで用意していたカセットレコーダーのスイッチを慌てて押した記憶がある。単純に上手かったと思うし、何か感じるものがあったのかもしれない。5曲分の演奏が手元に残っている。正直なことを言うと、当時は何回か再生しただけでたいして気にもせずにしまい込んでしまっていた。数年前からSNS上で若いころの音楽体験の話をすることが多くなり、当時の資料を整理しているうちに発見して聴き返すようになったという次第。

下北沢でのトークイベントに向けて、当時の気持ちを蘇らせたいとあれこれ聴いているうちに、意外にもむくむくと大きな存在感になってきたのがジャズ・ボーンズだった。手元にある5曲のライブテープは、聴けば聴くほど演奏・曲ともに素晴らしく、さらに音源をと探し始めた。ところがこれが見つからない。YouTube上には皆無だし、レコード・CDの検索もまったくヒットしない。期待薄な気持ちでTwitterで呟いてみると、それほど多いわけでもない僕のアカウントのフォロワーさんの中に二人もライブ体験者が!会話を重ねてゆくと、バンドが武蔵野美術大学の学生を中心に結成されたことなど、少しづつ当時のバンドの姿が浮かび上がってきた。それらの手掛かりを元にネット上を渉猟したところ次々と驚愕の事実が。まず驚いたのは、バンドの後期のドラマーが元オリジナル・ラブの秋山幸広さんだったこと。ジャズ・ボーンズには89年の後半から90年初頭まで参加していたようだ。当時の様子を秋山さんがご自身のブログで詳しく語っている。「代々木八幡DAYS」と銘打たれたレッド・カーテン~オリジナル・ラブ時代の様子を書き綴った4回連続のブログ記事には、ジャズ・ボーンズについての記述もあり、そこには、ジャズ・ボーンズの前身のバンド名がメロディー・ベース(Melody base)であり、あのテイ・トウワさん!も関りがあったこと、中心人物の久野恒(ひさのこう Vo.)さんがミュート・ビートの児玉和文さんに私淑していたこと、ギターの佐々木育真(ささきいくま)さん、ホーンの春野高広さんはその後リトル・テンポに参加したこと、ベースの小池太郎さんはカリスマ整体師としてご活躍であることなどが書かれていた。

ここで、オクダケンゴ(奥田懸吾)氏が2001年に開設したradiodAze(http://www.geocities.jp/radiodaze76/)というサイト内の記事「渋谷百景」でのジャズ・ボーンズについての記述を引用させていただこう。

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<ジャズボーンズ JAZZ BONES>
久野恒(Vo.) / 佐々木育真(G.) / 小池太郎(B.) / 秋山幸広(Dr.) / 長尾知己(P.) / 春野高広(Sax)
1987年秋頃、佐々木と、メロディベースなどで活動していた久野を中心に4人組ブルース・バンドとして活動開始。トランペット奏者を加え渋谷ラ・ママを中心に活動を続けるも、1989年3月に解散。ロリポップ・ソニックのメンバーの要請に応えるかたちで、一回限りの予定で1989年6月27日の六本木インクスティックにてのロリポップ・ソニックのライヴに上記6人のメンバー構成で出演。それをきっかけにジャズボーンズは再結成、1989年9月13日の渋谷ラ・ママでのライヴから正式に活動を再開。1990年2月リリースになった『アドヴェンチャーズ・イン・ターン・トゥ・ポップ』に2曲で参加。秋山はレッド・カーテンのオリジナル・メンバーでもあり、1990年までオリジナル・ラブに参加。1989年、佐々木と春野は別動ユニットとして、レゲエ・バンドのDREAD BEAT AN' BLOODを結成。佐々木は1992年に結成されたリトル・テンポに活動初期から参加。春野は1991年にはサイレント・ポエツを結成し2000年に脱退、そののち1999年よりサポートで参加していたリトル・テンポに加入。
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なるほど。ここで紹介されている6人編成のラインナップは、1989年6月の再集結時のメンバー構成だろう。3月に解散したものの、ロリポップ・ソニックの要請で再度舞台に上がることになったとある。どんな主旨の要請だったのだろう?すごく気になる。

これまでの情報を整理して時系列で辿ってみよう(敬称略)。

1985年頃 久野恒と鄭東和(TEI TOHWA テイ・トウワ)がエルビス・ホリディというバンドを結成。テープを使ったライブを始める。

久野のアコースティックなロックンロールバンドをという要求に応える形で武蔵野美術大学在籍者と共にプッチーニ・ロックスを結成。

1986年 プッチーニ・ロックスのメンバーが整理されメロディー・ベースへと発展。

1986年 メロディー・ベースが、第1回SMB(サンチェーン・ミュージック・バトルロワイヤル:CSV渋谷が運営に関わっていた音楽コンテスト)で2000曲を越える応募作品の中から見事SMB大賞、サウンドデザイン賞を受賞。審査の細野晴臣は「プロもびっくり」とコメント。牧村憲一も審査員。
(残されたカセット音源「Deepest Heart」~1988年7~10月に制作~のクレジットによれば、メンバーは久野Vo.・佐々木G.・小池B.・来間ナオキTp.。ドラムはリズムマシンを使用)

1987年秋~89年初頭 ジャズ・ボーンズとして活動。渋谷ラ・ママ、新宿ACB、原宿クロコダイルなどでライブ多数。メンバーはおそらく上記メロディー・ベースの4人に浅野コウジロウDr.を加えた編成。カセット音源「The Jazz Bones」があった。

1989年3月 いったん解散するも、6月には再集結。9月に本格的に活動再開。メンバーは久野Vo.・佐々木G.・小池B.・秋山Dr.・長尾知己P.・春野高広Sax.。他にも田鹿健太perc.の参加時期もあった。

1990年2月 スイッチコーポレーションが製作したコンピレーションアルバム「アドヴェンチャーズ・イン・ターン・トゥ・ポップ」(雑誌POP iND’S編集長岩本氏が監修)にジャズ・ボーンズとして2曲収録。

1990年7月 ポップ・インズ・レーベル(販売元VIVID SOUND)からリリース予定だった4曲入りCDが直前で発売中止となる。

その後 佐々木と春野は別動ユニットとして、レゲエ・バンドのDREAD BEAT AN' BLOODを結成。佐々木は1992年に結成されたリトル・テンポに活動初期から参加。春野は1991年にはサイレント・ポエツを結成。後にリトル・テンポに参加。

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嬉しいことに、その後B.の小池太郎さん、Dr.の秋山幸広さんと直接Twitter上でお話させていただく機会に恵まれ、当時の様子をたくさん教えていただき、残された音源についてもある程度触れることが出来た。僕の所有するライブテープ中で久野さんがアナウンスしていなかった曲についてもタイトルが判明し、大まかではあるけれど歌詞の内容についてもある程度理解することができた。

Melody base名義で残されたカセットアルバム「Deepest heart」には、各曲の詳細なクレジットと久野さんの一編の詩が添えられている。まず全ての作詞・作曲とヴォーカルをこなしていた久野さんの才能、成熟度に驚かされる。彼のアパートで録音されたという音源は、アレンジ面含めてあらゆる意味で完成度が高く、現在でもこのままの形で販売できるのではと思うほどのクオリティ。そして日本語詞の楽曲を聴くうちに、彼らの音楽の中には「信仰」という大きなテーマがあるのではないかと感じるようになった。特定の宗教的なワードが登場するわけではなくて、それはあくまでも心の深い所に秘めた信仰心。バンドの代表曲であっただろうCheck it out.という曲の歌いだしはこんな一節だ。

「光は少しづつ その色を鮮やかに変えてゆく
 信じるものを持たない者は その中に立ち尽くす」

リズムとしてはレゲエ・スカだと思うが、ヴォーカルスタイルや歌の世界感は「featuring strong devotion」と歌ったデキシーズ・ミッドナイト・ランナーズやヴァン・モリソンを思い起こさせる。佐々木さんのギターも素晴らしい。ライブでのカッティング、随所に挿入されるオブリガートのセンスはさすがの一言。僕が観たライブではキーボードは不在だったが、グルーヴを大切にしつつも楽曲をカラフルに彩る演奏を聴かせている。まるでギターが二人いるかのようだ。

当時のジャズ・ボーンズは、ロリポップ・ソニック、オリジナル・ラブとまったく遜色ない素晴らしい音楽を生み出していたと思う。それも独創的で新しい音楽を。久野さんはもっともっと広く知られるべき才能だった。たくさんの対バン、密接に関係したミュージシャンたちが、その後何らかの形で光の当たる場所へと歩んでいったことを考えると残念でならない。手に入れることができる可能性のある音源は、先述したコンピレーションアルバムに収録された2曲だけ。しかもオリジナルは一曲のみ。でもそのCheck it out.だけでもぜひ聴いてみてほしい。十分な条件下で録音されたとは到底思えないやや窮屈そうなバンドの演奏だが、それでもジャズ・ボーンズの持っていた魅力は存分に感じ取ることができるだろう。30年が経過した今でもまったく輝きを失っていない素晴らしい楽曲たちに、なんとか光が当たる日が来ることを切に願っている。

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