ウマ娘について

ウマ娘の起源

 人間とウマ娘は古来より共存してきた。しかしその起源には大きく差がある。人間はアフリカが起源であるという説が主流だが、ウマ娘の起源はトルコ→イギリスを生きたウマ娘説、北アフリカ→フランスを生きたウマ娘説、ハンガリー→イギリスを生きたウマ娘説が提唱されている。1番目のウマ娘がダーレーアラビアン、2番目のウマ娘がゴドルフィンアラビアン(ゴドルフィンバルブ)、3番目のウマ娘がバイアリータークと呼ばれている。当初ウマ娘たちには言語がなく「マ」や「ムマ」といった言葉ばかりを発していた。そのため「ウマ」→「ウマ娘」と変化していったようである。また人間がいなければ繁殖ができないため、人間が世界に進出した後、つまり人間よりも後に生まれたのではないかという説が主流となっている。ただし昔はウマ息子も存在していたが滅んだという説もある。なお、ウマ女やウマ男と呼称しないのは彼女らが短命な種族だったからであり、ウマ娘という呼称が定着した頃はまさに娘の間しか生きられなかったためだが、この時代は人間とウマ娘の寿命はまだ大差なかったようである。

ウマソウル

 ウマ娘はウマソウルを持って生まれてくる、というのは現在定説であるが、この説の起源は古代ギリシアに遡る。この時代には既にウマ娘は存在しており、競技場で覇を争っていた記録がある。プラトンは『パイドロス』の中で人間とウマ娘の魂の差について述べている。人間の魂は御者と二頭のウシに喩えられているが、ウマ娘の魂は2人のウマゾネスが御者を運ぶと喩えられている。このウマゾネスの魂を継いだ存在がウマ娘であり、その勇猛さなどがウマ娘にも引き継がれているとする。また、この時代にウマ娘と人間の寿命の差が次第に明らかになってきたようである。
 この説は中世以降も何度か手を加えられてながら伝えられてきたが、近代に入ると物的一元論の観点から否定する人々も現れた。しかし物的一元論の観点からは人間とウマ娘の明確な違いが説明ができないという強い矛盾が、現在でもウマソウルという説を主流にしている一つの要因である。

古代ウマ娘

 ウマ娘は当初、広く人間たちに受け入れられていた。しかし次第にその強さを利用して資源の奪い合いが始まり、戦争にはウマ娘が多用された。ウマ娘たちは他種族に指示されながら同種族で殺し合いすることに胸を痛め、次第に独立した共同体を築くことになる。その共同体のことをウマヤドと呼ぶ。しかし自分たちだけでは子孫を残せないうえに短命であるウマ娘たちは自らの種を絶やすか、人間に屈するかの二択を迫られる。そこでウマ娘たちは年に一度人間のいる集落へ赴いて強引に子種を奪ってウマヤドへと戻り、生まれた子がウマ娘なら育て、男なら人間の集落へと送っていた。この時のウマ娘の悲しみが記された文書が今でも僅かながら残っている。
 その後、人間は武器を携えてウマヤドを侵攻した。この争いは、多くの場所で双方に大きな被害を齎した。皮肉にも人間同士の戦争に嫌気がさしたウマ娘の集落が、ウマ娘を奪うという目的で人間を一致団結させたのであった。

戦国時代

 戦国時代のウマ娘の活躍としては武田のウマ娘隊などが有名である。彼女らは再び戦争へと駆り出された。しかし今度はある程度の地位を確保したこと、人間も出陣すること、の2つを行うことでウマ娘の反乱を抑えた。また、この時代にはウマ娘を増やすことのできる男が頭首になるのではなく、ウマ娘自体が頭首となることも増えていた。男とウマ娘は出陣が、人間の女は乳母を務めることが戦時の主だった役割であった。特にウマ娘は短命であったため、人間が乳母を務めたのは合理的な考えに基づいてなされていた。人間とウマ娘が協力する体制は主にこの時代から作られたものである。ウマ娘の歴史にとって大きな転換点とも言えるであろう。

江戸ウマ娘

 江戸時代には武士階級のウマ娘も多かったが、その身体能力を活かして飛脚や旅籠、駕籠舁き(かごかき)などを生業とするウマ娘も多かった。一方で農民階級のウマ娘は少なく、食べる量は多いにも関わらず食べ物を自分たちで作らないことは人間側の不満も齎した。士農工商とはそのルサンチマンから生まれた言葉である。
 飢饉においてウマ娘は特に数を減らしたものの、無理矢理食糧を奪ったり、人間が食べられない葉っぱを食べることで飢えを凌いだりしたという記録もある。

近代ウマ娘

 近代に入ると、ウマ娘たちは再び戦争へと向かう。しかし近代兵器が用いられた戦争はウマ娘の身体能力をもってしても多少の有利を齎すにすぎず、兵糧の減りが激しいウマ娘たちは次第に人間の女と同じように後方へ下げられて家庭を守る役目に徹するようになっていった。対外的にウマ娘の戦力が活躍することは減少していった一方、米騒動などでは大きく活躍したようである。
 ウマ娘たちの戦争での活躍は衰えていった一方で、1925年の普通選挙法などでは男子と同条件での参政権が認められていることから、それがこれまでの活躍に対する褒賞的なものか、それとも反乱を防ぐための施策に過ぎないのかはさておき、扱いは男性と対等であったことがうかがえる。
 また1932年には第1回東京優駿大競走が開催されており、スポーツウーマンとしての活躍が国民の楽しみとなっていった。この年に勝利したウマ娘はワカタカである。戦後は1954年にトレセン学園が開校し、多くのウマ娘が大志を抱いて入学した。1912年のストックホルム大会から参加したオリンピックを発端に、20世紀からウマ娘たちがスポーツウーマンとして活躍し始めたのである。

 以上、ウマ娘世界の妄想でした。

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