カウンターカルチャーとしての演劇

「仮名手本忠臣蔵」仮名手本?

いろはにほへと
ちりぬるをわか
よたれそつねな
らむうゐのおく
やまけふこえて
あさきゆめみし
ゑひもせす

一番右を立てよみすると、「咎なくて死す」

時代を室町に設定し、登場人物の名前を微妙にかえ、赤穂事件(1703年)の翌年には、台本として書かれ、様々なバリエーションがあり、人形浄瑠璃「仮名手本忠臣蔵」(1748年)になりました。

そもそも仇討ち物語であることや幕府への抵抗としての側面、批判判官贔屓、団体戦、散りゆく者の美学、献身、勧善懲悪。

ようは、「いじめられてた君主の敵討ちで、武士としちゃほめられたもんじゃねーか?なんで、切腹なんだよ!!」

ここカウンター。さらにエンタメ♪ もう大ヒット♪

歌舞伎の元祖は、「お国」という女性が創始した「かぶき踊」エロティックなシチュエーションを含んだもの

遊女歌舞伎、若衆歌舞伎、一般に男色を生業としていたことからも分かるように好色性を持ったものであった

こうした遊女や若衆をめぐって武士同士の取り合いによる喧嘩や刃傷沙汰が絶えなかったため、遊女歌舞伎や若衆歌舞伎は、幕府により禁止される

それでも、歌舞伎は残る。

「野郎歌舞伎」確立は元禄

にあたるとするのが定説である。歌舞伎研究では寛文・延宝頃を最盛期とする歌舞伎を「野郎歌舞伎」と呼称し、この時代の狂言台本は伝わっていないものの、役柄の形成や演技類型の成立、続き狂言の創始や引幕の発生、野郎評判記の出版など、演劇としての飛躍が見られた時代と位置づけられている。この頃には「演劇」といってはばかりのないものになっていた。

『楼門五三桐』(さんもん ごさんの きり)石川五右衛門→豊臣秀吉

「勧進帳」 義経→鎌倉幕府 ひいては幕府批判

能は?1881年(明治14年)に能楽社の設立を機として猿楽を能楽と改称したため、能楽の能を指す語となったものであり、能楽のうち超自然的なものを題材とした歌舞劇のことで、比較的高尚な内容である

実世界に題材を求めた世俗的な科白劇が狂言である

教養として支配階級にまもられていた。収入が興行ではない

シテ役は一生シテ役。ワキは一生ワキ 地謡(じうたい)その道のプロ

演じる時は、1回の軽い打ち合わせ。あとはセッション。一期一会。

もっとも 新作能として、日清戦争、日露戦争、第二次世界大戦を題材とした新作能もある→カウンターだよね。

最近だと、アマビエ 攻殻機動隊 紅天女 マクベス

カウンターカルチャーとしての演劇


古代ギリシャ→もちろんギリシャに限らず他の古代文明も
韻文で文芸作品(ムーシケー)を作り、
それに節をつけて歌ったり、劇として演じるといった営みが
まず、当たり前だったので、
「詩」という概念が(文芸・歌謡・演劇を含む)
今日よりもはるかに広い範囲に適用されていた。


→文献に残る最古のドラマ理論 アリストテレスの「詩学」
→原題の「ペリ・ポイエーティケース」は、
直訳すると「創作術について」、
意訳すると「詩作(ポイエーシス)の技術について」といった程度の意味

師匠のプラトンは批判。
弁論、論争術、詭弁や絵画みたいに、対象の真実についての
知識や技術を持ち合わせないままそれを、
感覚・感情・快楽を刺激するように
誇張的に真似して、人々の魂を誘導し、
対象の真実から遠ざけていってしまうものだ。
詩人(作家)の中にも、知りもしないことを知っていると
思い込んでいる傲慢な者が少なからずいるとして、批判的に扱っている。

アリストテレスは、それを肯定的に捉え
「模倣」(再現)を行い、「模倣」(再現)によって学び
、また「模倣」(再現)されたものを見て悦ぶというのは、
人間の本性に根ざした自然な事
詩作をそうした「人間の営為」の「模倣」(再現))として捉え、
その性質の完成という目的に向けた発展過程として、
詩作はある。
残ってる文献は悲劇を取り上げてるが、喜劇もあって、もしかしたら

そっちはもっとスゲーって言ってたかも♪


中世
キリスト教が欧州に広まって以降、
演劇の内包する批判性・娯楽性が、教会による弾圧
500年 劇場で上演されることがなくなった。
演劇は、旅芸人の出し物や大衆芸能の一つとして語り継がれていった

10世紀頃になると、ローマ・カトリック教会が布教のため、演劇的様式を取り入れ始めた。
聖書の内容を解説するための演劇が、教会によって行われた。これらは聖書の視覚化
布教のため。
宗教劇は民衆に受け入れられ、
民衆自身の手で聖史サイクル劇や神秘劇へと発展していった。

→聖書の復活の場面とかを芝居でやる
→道徳劇 宗教に基づいた道徳観を提示し、民衆に教化することが主眼だったが
宗教の影響下から抜け出し世俗の芸術に移行していった

その過程で娯楽化が進み、再び教会にとって好ましくないものとなっていった。

宗教劇は、ヨーロッパ各地で執り行われる祭りの一部に、今も痕跡を残している。

15世紀頃には、綿々と受け継がれていた大衆芸能の流れを受け、
寓話的な喜劇である道徳劇がイギリスを中心に成立し、ルネサンス期以降、欧州に広まっていった。

③ルネサンス期
ルターの宗教改革以降、
人間の世俗的な姿を描く演劇が現れ始めた。→ルネッサンスは人間ばんざーい運動だから。
アリストテレスの『詩学』が翻訳され、
劇、戯曲の理論化が進んでいった。

建築技術も発展し、現代的な意味での
「劇場」や「舞台美術」の原型が形作られ始めた。

イタリア 15世紀に歌劇やオペラが生まれる
イギリス 16世紀ロンドンの劇場では一般の民衆も貴族も同時に見るから
     あらゆる階層の人に受け入れられるような戯曲を書く必要→シェークスピア
フランス 17世紀喜劇コメディ・フランセーズが結成、今も活動してます→ウィットに富んだ奴

ただし、この発展は、国営の劇団、パトロンが貴族だったりするのね。
これが、18世紀にフランス革命で変わる

④ 啓蒙思想
  理性による思考の普遍性と不変性を主張する思想。
  その主義性を強調して啓蒙主義
  原義は「光で照らされること」である。自然の光を
  自ら用いて超自然的な偏見を取り払い、
  人間本来の理性の自立を促すという意味である。

  18世紀は俳優の時代とも言われる。演劇は主に俳優を中心に考えて作られ上演された。
  時には古典劇の戯曲が、演じやすいように、あるいは俳優の好みに合うように書き換えられることもあった。
  また、演劇のメインストリームが、王侯貴族によって保護された芸術としての演劇から、
  中産階級を主な観客とする日常の娯楽としての演劇へと、徐々にシフトし始めた時代でもあった。


フランス革命期(1789-1799)のパリの演劇状況

劇団や役者たちは王権の庇護を受け,特権を享受していた。

1789 年から,政治の激変につれ,そのような演劇と王権の関係は
瓦解していく。
特権の廃止が決議
8 月 26 日の人権宣言から 4 か月後の 12 月 24 日,
それまで認められていなかった俳優への公民権を国民議会が認め,あらゆる
公職へ応募することが許された。

9 月 11 日,国王付きの俳優が王族からから受け取っていた年金の廃止

1791 年 1 月 13 日の「劇場の自由に関する法」制定

劇場の自由に関する法
第 1 条 いかなる市民も,劇場の建設に先んじて現地当局に申請すれば,
公共の劇場を建てることができ,またあらゆるジャンルの芝居を
上演する権利を有する

内容 
劇団創設の自由
王立劇団が有していた旧作の上演権がすべての劇団に開放
戯曲の作者が自分の作品を自由に譲渡できる権利

国王にその権利があった劇場設立が,
すべての市民に開放されたのである。

1793 年から演劇の民主化の動きは,政府による演劇の管理の動きへと
変化する
→演劇は時代のカウンター。

1793 年 1 月 2 日,国民劇場で初演された劇『法の友人』
革命自体は支持しながらも,革命の行き過ぎを批判する側面
を持ち,ロベスピエール(恐怖政治、(ギロチン)やマラーを揶揄しているとみなされ
,革命政府によって上演が禁じられ

9 月 3 日,戯曲『パメラ』Paméla が革命政府の批判をしているとして,公安委員会は作品の
上演禁止ばかりでなく,上演した国民劇場の閉鎖と,作者および俳優たちの逮捕を命じた

そして,演劇が国民の教化のための手段として明確な役割を担わされたのが,
1793 年 12 月 9日の「ブキエ法」による教育改革である。
ブキエの教育案の特徴は,学校ばかりでなく,政治集会・演劇・祭典を公教育の一環とし,
「共同体全体による愛国的道徳教育」を目指したことで
ある。劇場が大衆にとって,道徳教育のための学校。


⑤19世紀
→リアリズム演劇
1887年フランス・パリで自由劇場 (演劇運動)がリアリズム演劇運動の先駆である。
わざとらしい演技を排し、作り物でない演劇、個人と社会の矛盾などを描き、真の人生に迫る演劇を目指した。
「近代劇の父」といわれるイプセンをはじめ、ハウプトマン、チェーホフなどの作品がリアリズム演劇とされる。
スタニスラフスキー・システムはリアリズム演劇の実践論とされる
(時折誤解されるが、リアリズム演劇は日常の生活や会話をそのまま再現することではない)。

日本の新劇運動(小山内薫の自由劇場など)や中国の話劇運動も、
イプセンら西洋近代劇の翻訳劇を上演することから始まり、当初からリアリズム演劇を志向していた。


→レーゼドラマ(Lesedrama)は、上演を目的とせず、読まれる[注釈 1]ことを目的に書かれた、脚本形式の文学作品のこと。
ブーフドラマ(Buchdrama)とも言う。戯曲の一種とされる。対義語はビューネンドラマ(Bühnendrama)。
いずれもドイツ語で、レーゼは「読む」、ブーフは「本」、ビューネンは「舞台の」という意味である。
なお、英語におけるクローゼット・ドラマ(Closet drama)は、ほぼ同義の概念である。また、「書斎劇」という漢字語も存在する

→ロマン主義演劇 古典主義や啓蒙主義に異議を唱え、理性に対する感情の優越を主張する
 メロドラマ 〈被害者意識〉が軸の物語でもある誇張の大きいモノ


→ロシア演劇 スタニスラフスキー登場♪

⑥20世紀
1932年には共産党中央委員会の”文学・芸術組織の改編についての決議”で
社会主義リアリズムを基準に芸術評価をすることが決議され、
すべての芝居を上演前に複数の委員会から承認を得なければならなくなる。
そして1934年ソ連のスターリンにより、社会主義リアリズムが唯一公認の芸術様式となる。
そしてスタニスラフスキー・システムがそれを体現する訓練法として、
政府公認のものとなる。1917年の十月革命は演劇の革命として、
メイエルホリドはロシア・アヴァンギャルドの芸術運動の中心になったものの
社会主義リアリズムに反するとして、粛清された。
→カウンター

表現主義演劇
シュールレアリズム演劇

ベルトルト・ブレヒトの叙事的演劇
→ブレヒトは政治やマルクス主義との関わりから、
役への感情移入を基礎とする従来の演劇を否定し、
出来事を客観的・批判的に見ることを観客に促す「叙事的演劇」を提唱した。
その方法として、見慣れたものに対して奇異の念を抱かせる「異化効果」を始めとする
さまざまな演劇理論を生み出し、戦後の演劇界に大きな影響力を与えた。
「劇的演劇」を現実から目を背ける「美食的」なものだとして批判した。

不条理演劇
実験演劇
即興劇
ミュージカル
ワークショップ
ドラマ・リーディング


一般に俳優・観客・劇場を三大要素というが,
これに〈演じられるもの〉としての戯曲や
劇作術(ドラマトゥルギー)を加えることもある。
時代と地域によってこれらの要素間の関係が変化し,
それがそれぞれの文化における演劇史といえる。
「台本・演出・役者」
観客・脚本・役者」


『演劇入門 生きることは演じること』(集英社新書)という本を書きました。
コロナ禍でなければ絶対に生まれることのなかった本ですが、
自分の演劇観を再確認できたし、書いてよかったと思いますよ。

 この本の中では、人とのコミュニケーション、
シンパシーとエンパシーについても書いています。
シンパシーとは相手に同情する気持ち。絆や優しさ、思いやりを指し、
「自分が嫌なことを人にするな」もシンパシーです。
つまり、日本の教育はシンパシー中心でした。
一方、エンパシーは共感する能力。「自分は嫌だけど相手は好きかもしれない」
「自分は好きだけど相手は嫌かもしれない」と考えられるのがエンパシーで、
この能力を伸ばすために演劇的な手法はとても大切なんです。

 だって、役柄を演ずるということは、
自分とは全く違う人間の気持ちを考えて、
その人を生きるわけですよね。
演劇はまさにエンパシーを磨くことにつながるんです。
その意味で、演劇を大事にしてくれた早稲田大学は、
教育に演劇が大事だということを分かってくれていた気がする。
教育現場は、もっと演劇の知恵を使うといいと思います






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