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曺寧柱 - Wikipedia風

曺寧柱(そうねいちゅう、韓国名: 曺 寧柱〈チョ・ニョンジュ、朝: 조영주(조녕주? 소나이추?)〉漢字表記は他にも曹寧柱、趙寧柱、者寧柱、曽寧柱とも、1908-1996[1])は、朝鮮半島出身の思想家、空手家、僧侶。国際空手道連盟総裁・極真会館創始者、大山倍達の師匠の一人として知られる。[15]
在日本大韓民国民団の設立に関わり、後に民団中央本部団長[2]も務めた。空手バカ一代で大山に十八手を教えた曹七大師のモデル。空手道九段[11]。石原莞爾平和思想研究会顧問。

若き日の曺寧柱

経歴

 曹寧柱は慶尚北道醴泉で裕福な地主の家に生まれた[1]。生年にはついては諸説あり、1908年2月13日生(戸籍上は1911年生)という説と1913年生と2つの説がある。また、没年にも1995年没、2001年没という説がある。
 伝統的な書堂教育を受け、公立普通学校に通った。当時の思想について「いつしか横暴な日本と不遇な朝鮮との関係が感情的に意識されはじめた」と回顧している。1923年の関東大震災に際して、10銭の寄付に行き、朝鮮人の無差別虐殺を知る。京城高等普通学校入学後、独立思想から共産主義革命による朝鮮独立を意図し、マルクス主義に傾倒していく。1929年に日本統治時代の朝鮮の光州で起こった光州学生独立・光州学生運動(광주학생운동)に参加し、京城府内所在中学校を歴訪し、一斉同盟休校の敢行を扇動した[2]。その後、京城高等普通学校を退学。
 1931年に渡って大阪の浪速高校を卒業[14]後、1933年に京都帝国大学に入学。日本共産党の外郭団体「日本赤色救援会」に加入し、当時は重量挙げやボクシングで身体を鍛え、筋骨隆々であった事から街頭運動の実戦部隊として活動する。1933年10月の京大滝川事件の後に自主退学(本事件へ大きく関与したという形跡はない)。その後、1934年に立命館大学予科を経て同大学法経学部に再入学。同大学では空手道部に所属し、山口剛玄・宮城長順から剛柔流空手を学び、同空手部の助手を務めるまでになる。この時期になると、日本国内でのマルクス主義への弾圧が強まり、所属していた「日本赤色救援会」が活動停止に陥り、共産主義革命による朝鮮半島の独立が実現不可能である事を自覚し「思想的空白」を感じている。

 1938年ごろから曹は立命館大学柔道部の指導者だった福島清三郎が主宰する武道道場である義方会に出入りし、師範に登用されている。福島は東亜連盟論者であり、満州建国大学の武道顧問として毎年渡満していた。また、1938年に民族協和思想を学ぶ「協和塾(東亜各民族学生の寮)」を「義方会」に隣接して設けると、曺は塾頭となった。また、1939年1月には福島の手引きで石原莞爾と出会っている。ただし、当初は石原の言動に疑念を抱いており、義方会会員の中で東亜連盟運動への加入は最後の1人となった。

 1939年、曺寧柱は釜山で東亜連盟運動の講演を行っている。この講演会で大山倍達(崔永宣)と知り合う。大山の密航後は彼を協和塾の寮に置き、剛柔流空手の指導を行い、翌年、大山倍達が「山梨航空技術専門学校」に入学する際には保証人となっている[3]。

 1941年頃には東亜連盟運動内で朝鮮人で唯一の参与会員となっていた[1]が、1942年3月18日に「東亜連盟運動を利用して朝鮮独立運動を行った」として、治安維持法違反で検挙・投獄される。これは、特高・憲兵による東亜連盟運動への抑圧の側面が大きいと見られる。この時の裁判資料には石島寧柱の名前が記載されており、創氏改名の影響が伺える。
 獄中で曹は日蓮教に帰依し、「法華経」や「日蓮」に関する様々な本を読み漁っている。日蓮教信仰の篤かった石原はこれを喜び、大きな信頼を寄せる様になった。この頃の曹は終局的に天皇を盟主とした「東亜連盟」のもとで、日本人と朝鮮人の一体化・平等化が実現する事を理想としていたとされ、戦後、在日朝鮮人運動主流が曹や東亜連盟運動に対して抱くイメージに大きく影を落とすことになった。判決は1943年末に下され、懲役2年執行猶予2年となり、1944年1月には判決が確定して釈放された。釈放後は上京し、東亜連盟運動に更に挺身していく。東亜連盟運動の別働組織である日蓮教精華会で活動。また朝鮮人の戦時動員に際しては神奈川県の工場で朝鮮人徴用工の監督として指揮にあたる。曺が指揮をとる工場からは脱走者、脱落者が1人も出なかったため、当時の朝日新聞社説で称賛されている[3]。
1944 年、曺寧柱は小磯国昭内閣の発表した朝鮮人、台湾人への限定的参政権付与などのいわゆる「処遇改善」の方針に対し、民族処遇ニ就テハ非常ニ好感ガモテタ」という感想を漏らしてもいる[18]。

 1945年8月に広島への原爆投下を知ると群馬へ疎開し敗戦を迎え、GHQの解散指定を受けたことで東亜連盟としての活動は幕を下ろした。
 戦後、武田邦太郎の誘いを受けて「西山農場」の開墾に携わる。
 1949年8月に石原が死去すると告別式の式長を務める[4]。以降、石原主義普及の為、協和会、石原莞爾平和思想研究会の先達として 後進の指導、育成にあたる。

 戦後、共産主義者が主導で在日本朝鮮人連盟が結成される。当時の在日朝鮮人の9割がこの在日本朝鮮人連盟に参加していたが、曹は共産主義への不信からこれに不参加だった。曺寧柱は朝連との対立について、「共産主義者が内部を固めて」おり、自分た ちは「親日家だ、売国奴だといわれてつるしあげ叩かれた」と述べている[16]。
 当時の朝連の見解として、 曺寧柱は在日コリアン社会における「売国奴」と位置付けられていた。これについて、在日コリアン問題についての研究家である閔智焄氏は「曺寧柱は日本に対する認識が肯定的であったので、日本の植民地支配を否定していた朝連との摩擦は当然であった」と述べている[17]。

1979 年の曹寧柱のインタビュー内容
「日本の総督政治も考えてみれば肯定面もあってですね。(中略)イギリスのインド統治をみるとインド人にはなるべく教育などは受けさせないで、労働力だけはフルに利用した。知るは憂うのもとな りで、なるべくなら牛か馬みたいに無知文盲にさせておこう、就学には高税をかけるという、植民地経営の一つのパターンがあるわけです。そのくせ、国民会議派の独立演説会などは見てみないふ りをする。ところが日本はむしろ同化をやろうとしてみたりする」[17]

 同郷で京城普通高校の10年先輩にあたる朴烈が出所し親日派・民族主義者を結集した右派陣営として新朝鮮建設同盟を結成すると、曹は企画委員として参加。後に朴烈が在日本大韓民国居留民団(略称は民団。後の在日本大韓民国民団)を結成すると、民団企画室長、韓国駐日代表部諮問委員会政治部常任委員、大韓青年団長などを経て1960年7月から1961年5月まで民団団長も務めた。その後は1976年から1979年に再度民団団長を務めている。
 1950年に朝鮮戦争が勃発すると、「民団」の志願兵指導本部の副本部長に就任する。[13]
 在日朝鮮人の北朝鮮への帰国事業が始まると北送反対闘争を主導し、1959年の断食闘争では代表を務めた。

 最初に民団団長を務めた1960年7月から1961年5月までの間に統一問題研究委員会を民団内に設置し、主体的な統一運動に意欲を示した。また、『統一朝鮮新聞』1961 年 1 月 25 日号 1 面に「統一朝鮮新聞へ寄せる」を掲載し、同紙を「民団の一部では朝総聯の手先のように勘違いしているが、この新聞の役割は実に大きい」と述べ、『統一朝鮮新聞』を通じて総聯と民団の首脳会談を呼びかけ、1961 年 2~3 月、韓徳銖総聯議長と 2 度の会談を実現したが、共通の統一法案を作るには至らなかった。権逸は二度目の民団団長に就任し、『統一朝鮮新聞』を敵性団体に指定したが、これに対して敵性解除運動を仲介した。さらに1971 年11月28日、東京で民主祖国統一会議が結成されると『統一朝鮮新聞』の李栄根ほか5名と共に代表委員に就任した。行動綱領では「民族の自主性を確立して平和的な方法で民主祖国への統一実現に努める」とされたが、それは言葉を換えれば、「金日成徒党の武力赤化統一に対抗」する反共的立場を固守しようとするものだった。[19]

 1977年3月28日、平和統一促進本部を設置した。[11]

 1977年8月13日に民団の傘下団体である韓国青年会と国際勝共連合の約300人が「海外韓国人民主運動代表者会議」の妨害を試みて日本機動隊が事態収拾の為に出動するまで2時間にわたる暴行を働き、76名が拘束される事件(「8.13事態」)が発生すると、8月15日には曹は「海外韓国人民主運動代表者会議」を主催した韓民統に対して「外国籍を持っていながら韓国人を名乗ることで金日成の走狗であることを隠している」と批判した(当時は朴正煕大統領による独裁政権下で海外の「韓国人(ここでは国籍問わず韓民族全般を指す)」による韓国民主化運動が盛んにおこなわれていた)。[9]
 これらの曹の業績は韓国国内では「日本内で平和統一のための諸活動を展開する一方在日本朝鮮人総連合会と日本内の反韓勢力の破壊工作粉砕にも積極努力した」と評価されている。[11]

 1979年、海外同胞母国訪問を積極的に展開。また、大韓民国政府から1等級無窮花章を授章。[11]

 1988年、石原莞爾の墓地移転問題が発生した際には墓地と顕彰碑の新規建立に取り組み、丸々5年の歳月を経て墓所を建立し竣工記念式典を挙げた。

 2001年逝去。江戸川区の国柱会を会場に合同葬が行われた。

86歳ごろの写真

武道家として

 朝鮮半島時代には重量挙げ(ウエイト・トレーニング)とボクシングで身体を鍛え[5]、京都大学入学後に柔道を学びはじめ、ボクシング部に所属。1934年に立命館大学再入学後に山口剛玄から剛柔流空手を学び、師範代となる。山口の師である宮城長順が立命館大学空手部へ直接指導を行うようになったのは1936年からとされており、この時期に曹も宮城長順から学んだと考えられる。また、このころ立命館大学では防具付きの組手(手組)が考案される。晩年に曹が受けたインタビューによれば、当初は銃剣道の胴を付けて剣道の面を付け、グローブをはめて組手を行っていたが、素足で防具を蹴るのは痛みが伴い、それによって蹴りが使われなかった為にホッケーの脛当てを付ける様になった。しかし、今度はその脛当ての蹴りを受けるのが困難になり肘まである小手を付けるようになった。全身に防具を装備しているので筋力・体力のあるものしか手組を行えず、全ての部員が行っている訳では無かった。との事である。
 
 立命館空手部では主にスパーリングに加えてサンチンと転掌の練習をしていたが、スパーリングでは入部当初からボクシングの経験やウェイトトレーニングで鍛えた屈強な身体を活かして他の部員を圧倒していた。ただし、先輩の岡村光康(のちの剛柔流拳心館館長)には初めて見た下半身や足への蹴りで苦戦した。[14]

 1939年に石原完爾の命を受けた山口剛玄が特務により満州に渡ると、立命館大学空手部(唐手研究会)の指揮を取る様になる。また、柔道家、福島清三郎が主宰する義方会では剛柔流空手師範を務めた。朝鮮より密航し義方会に隣接する協和塾の寮で一時期暮らしていた大山倍達に剛柔流空手の指導を行っている。東亜連盟の活動に従事するようになってからは石原莞爾のボディガードを務めた。
 ハリー・クック著の「Shotokan Karate: A Precise History」によれば、東京の松濤館との交流試合の際に船越義豪(船越義珍の三男)と試合を行い、小柄な船越を持ち上げて壁に叩きつけたが、松濤館側はそのような行為は規則違反であると訴えたとされている。

1939年(昭和13年)後列、左から一人目が曹。

 1945年9月、大山倍達と共に建青(在日朝鮮建国促進青年同盟)中央青年訓練所内に永和空手道研究所を設立する。また、首里手の糸洲安恒の直系、遠山寛賢の高弟の一人で韓国籍の尹曦炳が館長を務めていた韓武館に大山倍達(当時は崔猛虎名義)と共に出入りしていたことも記録されている(曹は名誉師範、大山は師範を務めた)。

 1947年には圓心倶楽部(曹の京都時代の知人が開いたとされる)主催の体育大会の空手競技(銃剣術の防具(胴)と剣道の面を着けて実施)では山口剛玄の代わりに審判を務めた。また、この大会では大山倍達も試合をしている。

 この頃、朝鮮研部会拳法部(のちの智道館)で師範を務めていた田祥燮から依頼を受け、ソウルにて空手の指導を行っていた事が記録されている[20]

 1950年に勃発した朝鮮戦争により、臨時首都であった釜山において避難生活をしていた空手人士達が協会設立に合意。大韓空手道協会創設。初代会長を務める。ただし、大韓空手道協会創設後、1ヶ月もしないうちに、武徳館館長の黄琦、青濤館館長の孫徳成が中央審査委員の資格がもらえない事を理由に脱退したため統合は果たせなかった。また、曹が会長を務めた時期は不明だが1953年には国会議員の閔寛植が推薦した李重宰が会長となっている。
 黄琦はその後、大韓唐手道協会を設立。1959年に崔泓熙がこれらを統合して大韓テコンドー協会を設立する。

 1972年、全日本空手道剛柔会が全日本空手道連盟剛柔会と改組される際に与儀實英・上原優希徳(三郎)と共に副理事長を務めている[7]。1978年に韓国武道正道術の大会に招かれた際には範士九段と紹介されている[8]。

エピソード

 大山倍達と最初に知り合った釜山での講演会では、筋骨隆々な曹の姿に見惚れた大山倍達から曹に話しかけたという。この時、曹は大山に空手を見せたとされており「突きはボクシングのパンチとは違った。その蹴りは、背丈以上の高さに達した」とある。ただし、ヘソより高い蹴りを実際に使う事については否定的だったという。

 インタビューでは韓武館館長の尹快炳(のちの韓国建国大学副学長、韓国ヤクルト社長)が帰国する際に韓国建国大学への口利きを行ったと述べている。

 義方会では牛島辰熊が柔道を教えており、曺も牛島には鍛えられたと述懐している。また、義方会に柔道と空手で高段位を持っているという道場破りが来た際には曹が代表して立ち合い「ちょっと触れただけで相手が気絶してしまった」という。何が起きたかその場にいた誰もが分からず、大山が曹に「皆で色々と研究したところでは金玉をしゃくって額で鼻のところを突いたのだろうということになったのですが、それでいいですか?」と聞くと「瞬間的にやったことなんだから判らんよ」と答えたという。また、この場には柔道家の木村政彦もおり、木村は柔道に併修して剛柔流空手を学んでいた。曹は巻き藁による鍛錬を木村に指導した[10]

 稲葉秀三は「曺さんというのはすげえんだよ。喧嘩になってね、あいつは空手で僕を殺そうとしたんだから」と振り返っている。酒の席で曹と喧嘩になった稲葉は「君の拳骨というのは俺たちの合口に似たようなものだ。俺は素手なのにお前はちゃんと合口持って俺を殺すんだろう。不公平だ。こういう果たし合いはいかん」と注文つけた。すると曺は「うん、そうか」とだけ言ってさっさと向こうへ行ってしまったという。[10]

 1945年8月7日、石原六郎から広島に新型爆弾が投下された情報を受けた権逸と共に疎開する。この時の事を権逸は「この新型爆弾が原子爆弾であることは間違いなく、これで戦争は終わるのだと判断した。その三日後の九日には長崎にも原子爆弾が落とされた。次は東京だという噂も出た。私たちはこのまま東京にいて犬死にすることはないと、曹寧柱君といっしょに急いで東京を抜け出し、家族がいる湯宿に向かった」と『権逸回顧録』に残している。

 1947年、石原莞爾が東京裁判の山形県酒田出張法廷に証人として出廷したとき、病床の石原をリヤカーに乗せて引っ張ったのが大山倍達と曺寧柱だった。

 町井久之こと鄭建永が「大アジア主義」の思想を信奉するきっかけとなった。町井は、1947年(昭和22年)に東京・銀座で町井一家を母体として「東洋の声に耳を傾ける」と云う理念のもとに東声会を結成し、在日朝鮮人連盟(現・朝鮮総連)を牽制した。

 大山倍達の有名なエピソードである山籠もりは建青の訓練所時代に剣道師範が大山の素行について「彼は精神を鍛錬しなければいつか殺されるかダメになってしまう」と曹を諫めた事がきっかけである。また、山籠もりの際に大山が片眉剃り落としたエピソードに出てくる助言の手紙を書いたのは曹と言われている。
 また、大山は1958年に出版した著書「What is Karate?」の中で曹を「同郷の先輩であり、思想家、空手の達人。個性と自信に満ちた稀有な人物」と評し山籠もりの切っ掛けとなった曹の助言について「日蓮宗の信者でもあった曹は私に、武道と宗教は切り離せないものであると説き、彼の宗派の経典(熱くなった鉄は冷めないうちに焼き戻し、偉大な男になりたければ年をとる前に自制心を鍛えなさい)を教えてくれました」「これまでの無益な行いを反省し、曹さんのアドバイスに従い、千葉県の清澄山で山籠もりすることにしました」と書き残している。[15]

 朴正煕大統領とは同郷で兄・朴相熙とは同郷だったため親友同士だった。[12]大山の二重国籍を手配できたのは朴正煕の手引きによるものである[要出展]。

 韓国で力道山(朝鮮出身のプロレスラー。日本のプロレス界を作った人物)の映画を作った際に「力道山と普段親交のあった人物の証言」として、曺寧柱が紹介されている。実際に力道山と大山倍達の間でトラブルが発生した時(腕相撲事件)には町井久之と共に仲裁に入っている。

 鹿島神流第十八代宗家、国井善弥(戦後GHQとの日本武道の名誉をかけた一戦に実戦名人として選ばれ、海兵隊銃剣術教官を破った武道家)との他流試合では跳び蹴りに竹刀による一撃を合されて敗れた。また、この際、国井に「何度も他流試合をやったがこんなことは初めてだ」と言ったとされる(国井氏談)。

 大山倍達は自身の経歴から曹の名前を消しており、ある時期から曹と袂を分かっている。

 日韓仏教福祉協会会長、柿沼洗心は「独立運動を通じて東亜連盟運動に身を投げた曺寧柱先生に影響を受けた」と回顧している。

著書・作品

1949年「入信の動機」(Ⅰ・Ⅱ)『王道文化』10巻2・4号に掲載[11]

1988年「石原莞爾の人と思想」永久平和への道―いま、なぜ石原莞爾か(石原莞爾生誕百年祭実行委員会 )に掲載[11]

出典

1.松田利彦「曺寧柱と京都における東亜連盟運動-東亜連盟運動と朝鮮・朝鮮人(二・完)」世界人権問題研究センター

2.「北送」60年で資料館が企画展…民団の反対闘争、朝総連とマスコミの喧伝. 2023年1月10日閲覧。

3.塚本佳子、小島一志「大山倍達正伝」新潮社

4.石原莞爾将軍墓所.2023年1月11日閲覧。

5.記憶をくすぐる大人のメディア「ミドルエッジ」極真分裂.01 後継者の資格.2023年1月11日閲覧。

6.みんなが寝静まった頃に .2023年1月10日閲覧

7.KARATE GOJU RYU.2023年1月10日閲覧

8.圓和道錬武館.2023年1月10日閲覧

9.趙 基銀(2014).民団系在日朝鮮人の韓国民主化運動

10.石原莞爾平和思想研究会コミュの石原莞爾将軍との出会いと忘れ得ぬ人々(中).2023年1月12日閲覧

11.조영주 - 세계한민족문화대전.2023年1月12日閲覧

12.パク・ジョンヒと彼の時代(1) - 満州から帰る(1).2023年1月12日閲覧

13.在日の従北との闘争史~6.25戦争と在日~⑤.2023年1月13日閲覧

14.The Most Important Japanese Goju-ryu Master You've Never Heard Of.2023年1月17日閲覧

15.大山倍達『What is Karate?』日貿出版社、1958年(昭和33年)

16.曹寧柱、長坂覚「韓国人と日本人―曹寧柱氏に聞く―」『中央公論』94 券、8 号、1979 年、pp.287 ~ 288。

17.閔智焄「李承晩政権との関係からみる民団の韓国志向の変遷過程」コリア研究 巻 8, p. 45-62, 発行日 2017

18.金太基(2014)、p.95。松田利彦(2015)pp.105 ~ 142。

19.松田利彦『1950 年代末~1960 年代における在日韓国人の民族統一運動 ―『統一朝鮮新聞』の分析を軸に―』(2016)

20.신사 전상섭 - 지도관(조선연무관).2024年7月31日閲覧

編集後記

 あまりにもその足跡が不確か過ぎてWikipediaに個別記事が存在しない大物中の大物である曺寧柱氏をウィキペディアの記事にするならば? というテーマで雑文を書いてみました。多分、間違いも多くあるので、このままでは個別記事化は無理そうですが、できる限り頑張ってみました。

 とはいえ、彼が活躍した場所は空手界に留まらず朝鮮独立運動、民団設立や東亜連盟、日蓮宗など多岐に渡っています。しかも、伝説的な人物になっている事から実像がつかみにくい所が多々ありました。
 例えば、戦中戦後の剣豪、国井善弥との立ち合いの場面。果たして本当に曹は跳び蹴りを選んだのでしょうか? 曹自身が腰より高い蹴りは実戦では使えない旨の発言を遺していたり、他の立ち合いの様子を見ていても疑わしい試合内容だと思われます。これについては検討が必要です。
 他にも、調べていて出てきた珍説の中には「実力的に非常に優れていたため宮城長順から後継者として指名されたが朝鮮人であったために却下された」[14]というものすらありました。これは反日プロパガンダ的な意味合いが強い様に思えますが、大山倍達・木村政彦など当代随一の格闘家にたいして空手を指導しており、かなりの実力者であった事は確かなようです。
 小柄で筋骨隆々。柔道を学び、ボクシングを学び、ウェイトトレーニングを学んだ空手家。今でいうMMAファイターの走りの様なファイターだったのでしょう。海外のサイトを読んでいて出てきた「The powerful So simply picked up the smaller Funakoshi and threw him against a wall, injuring not only his body but his dignity.」という一文。
 蹴りの名手であり天才とも称された船越義豪と真っ向から打ち合う事を困難と見るや組合いに持ち込んで壁に向かって叩きつけるという選択肢を選ぶ所に現代のMMAファイター的なクレーバーさを感じます(同時に空手の組手中に相手を持ち上げて壁にぶん投げる辺りにクレージーさも感じますが、当時は未だルールなど未整備の時代)。

 また、大山倍達はある一時期から曹を経歴から抹消しています。これは朝鮮人である自分の出自を隠す目的が強いと見られていましたが、果たして本当でしょうか? 晩年の大山は自身が韓国人である事を一切隠して居ません。にも拘らず、曹の名前は隠したままです。曹は町井を通じて児玉誉士夫との繋がりがありました。一方の大山は実業家であり政財界のフィクサーと呼ばれた田中清玄の庇護を受けていました。この事から、二人は田中清玄銃撃事件(1963年11月に東声会の組員による田中に対する殺人未遂事件。田中は「K(実行犯の組員)は児玉誉士夫からの差し金で、金をもらってやった」と自身の自伝に書いている)を契機に絶縁状態となったとも考えられるのではないでしょうか?

 分からない事が多すぎて憶測で幾らでも書けてしまう曹寧柱。小説の主人公としてはもってこいな気がします(ただし、登場する各方面が悉くセンシティブなので日本では取り扱いが極めて難しい人物だと思います)。