韓国人から見た日本の空手②
結構、韓国人の反日感情から琉球は日本に支配されているという同情的なニュアンスが見られるのが面白いです。
帝国時代の日本に対する否定的な感情が強すぎて、間違ってる記述も多いと思うので、日本の有識者の皆様からツッコミお待ちしています。
日本の琉球支配と武器術の変化
16世紀に琉球王国の住民が薩摩藩の侵攻と武器禁止に対抗して唐手が始まったと言われているが、実際にはすでに尚氏王朝時に内戦を恐れて、全国民の武器所持を禁止し、さらに軍人でさえ武器は王宮に武器を取付けておいて携帯をしていなかった。そのための戦いを発したり、獣などの攻撃を受けたときに生身で戦うしかなかった。琉球人は護身のために、さらに空手修練に熱心だった。
薩摩藩が琉球を占領した時期にも、一切の武器を禁止したため、護身と共に薩摩から独立しようとする為の武術として修練されていた事が知られている。日本(薩摩藩)はすぐに集団的な空手修練も禁止させた為、日本武士の目を避ける理由で密かに多くの流派が家ごとに異なって伝授された。これは琉球王国が正式に日本帝国に併合された後も同様であった。併合後、武器禁止は解除されたが、団体で集まって武術を磨く行為はまだ反乱の前兆として規定された。
そのせいか、空手には、元の武器術も一部含まれており、その武器がほとんど武器のように見えないものがほとんどと特徴がある。代表的な武器として棒や、トンファー、ヌンチャクのように普段なら農機具の一部として見えやすいもの。さらに鎌を武器として使用しているところもある。また、伝統的な空手修練で非常に重要視される型修練の場合も型動作が元の武器を持って修練することを念頭に置いた動作であるか、武器術に源した場合が多い。つまり、素手で形をしても、実際には武器を持っていると仮定して訓練しているとすれば理解しやすい。代表的なもの平安二段で、もともとは棒術に起因する形だ。
日本上陸
1879年、日本の正式領土に編入されるまで、沖縄人たちへの差別は深刻であり、空手についても弾圧が激しかった。しかし、偶然にも1900年代から、日本が軍事政権化され剣道と柔道以外の武道の研究が開始されたが、この時、沖縄の空手も注目を受けて、日本に上陸することになる。
※ この辺りは完全に反日感情が先走ってますね……。
日本に空手を伝えた人は、船越義珍(1868 - 1957)だったが、子供の頃体が弱く、親が熱心に運動をして体を鍛えるための師匠を見つけたとされている。師匠と船越の家は、距離が20里だったが、修練が禁止されており、夜にこっそり修練するための弟子は夜中に10里を走って行って、師匠も10里を走って来てちょうど中間の共同墓地で会って修練した。もし一日でも抜ければ、相手が10里を無駄に走ってきたことになる為、雨や台風がきても弟子は師匠のために、師匠は弟子のために一日も修練を欠かさなかったという感動な話が伝えられてくる。
船越は、日本本土から沖縄人の武術が認められ空手を日本に広めることになり、1916年から本土に進出した。この時、盛んに中国との戦争を経ていたので、「唐」の字を抜いて 1929年の名前を空手に変えることになる。そして当時の日本の国民スポーツだった柔道講道館道場で修練の時間のほか、研究会が初めて認められている。この過程で、昇級システムや道着など、柔道の影響を強く受ける。
その後空手はずっと発展し、日本で剣道、柔道に次ぐ主流武術の一つとなった。現在では、日本の代表的な打撃系格闘技として知られているが、元のは、ある程度柔術の技法が存在した。代表的な技に背負い投げの後に顔面に正拳突きとか。事実、東西を問わず、ほとんどの武道の原型は、打撃格闘技と柔術が混合された形態であった。日本の武道の場合、基本的には、武器を持った状態を想定し、蹴りで遠距離攻撃を補助した。また、近接状態ではパンチではなく、柔術技で相手を倒す形であった。今は柔術に代表される柔道の場合も、現在の柔道に定立される以前には、拳と足の技術があり、さらには相撲でさえ、過去には、打撃格闘技と柔術などの総合武術に近い形であった。実際にはほとんどの武道は生まれに沿ってさかのぼると、すべての武器+柔術+打撃が混在した形で始まった。そして、戦乱の時代が終わり、それぞれが一つの種目に位置し、スポーツ化され、他の武道との差別化のために、あるいはスポーツ化のために打撃や柔術側のみ発達にされたものである。空手の手の技術よりも足の技術がはるかに多く、形に柔術が想定した動作が多く残っているのは、このような生まれな背景があったからだ。
空手の柔術を見ることができる映像で、平安四段という形の動作を応用した技術である。伝統流派の代表と呼ばれる松濤館唐手でも基本として仕込まれている形であり、柔術技を完全禁止した極真空手でも型の中で動作自体は教えている。だけでなく、義珍が著した空手教範も柔術技の項目が収録されているほどだ。
型の中の空手の動きの姿が現代の総合格闘技と他の柔術技の武道の姿と似ていることがわかります。もちろん映像に例示として登場するすべての選手が空手の技術を詠唱していると判断してはいけないだろうが、既存の沖縄手の実戦性や柔術技の割合を計ることができるビデオである。
事実、太平洋戦争以前に日本国内で空手のイメージが非常に良くなかった。柔道が相手の力を利用して制圧する紳士的な伝統武道というイメージがあるが、空手はギャングや修練する戦いと先入観が強かった。
60年代に作られた空手映画でもタイトルを武道としての空手ではなく、単に素手打撃と呼ぶほどだった。したがって、空手家は日本を離れ、米国、ロシア、ブラジルなどの海外に行く場合も多かった。空手が完全に日本の武道に受け入れられるようになった背景の一つには、このような海外功学習者のおかげで「外国で有名な日本の武道」のイメージが生じたためでもある。
フルコンタクト空手
空手の実戦性は決定的な限界があったが、すぐに安全上の理由から、剣術の寸止めルールを適用させて自由対練中の相手を実際に価格ないものだった。ただし真剣を使用する為に寸止めが仕方なかった剣術とは異なり、拳は当たっていたとしても無条件に倒せるとは限らないので、完全な打撃までしたい人は着実に現れた。
戦後日本でも寸止めルールだけでは試合の公正性等に問題があると考える流派があり、その中には、独自の学習者同士実際打撃をしてみながら修練する道場がいくつかあった。そんな流派の影響を受けた大山倍達が実際に空手大会で優勝した後、全国を回ってブロック割り、牛との戦いなどを行って有名になった後、米国に格闘技旅に出て以来、世界に空手の名前を知らしめるになる。実際には、米国での空手が認知されている事は完全に大山倍達の活躍のためだという主張もある。その旅行を終えて帰ってきた大山倍達は最初に「大山道場」という名前でジムを開いたが、様々な出来事に巻き込ま道場を畳んだ後、後で再び「極真会館」という名前の団体を作って極真空手を作成し、実戦空手を主張する。
今、伝統空手は修煉者の数字が多いが、極真会館をはじめとするフルコンタクト空手系も無視できない影響力を持っている。ただし最近になって手厚い指導者、過度に厳格な道場の雰囲気や敷居の高さから、極真空手空手の人気はますます落ちている。さらに、UFCなどで伝統空手学習者が結果を残しており、極真空手は実戦的な側面からも疑いを受けている。
単一組織として最も規模が巨大なのは、メディアをうまく利用した極真空会館であった。伝統流派の中で最も規模が大きい松濤館が何百万人前後だった時極真会館は、単一の団体として1300万人まで大きくなる気炎を吐いている。しかし、本番流派は極真会館が絶対多数を占める中、正道会館以外の流派がほとんどないが、単一の流派は、長い歴史を経て小流派が無数の関係で流派全体の大きさで言えば、まだ伝統流派空手の学習者が極真系より数倍多いと予想される。
ちなみにテコンドーでは分派が珍しくて、単一の集団に近く、学習者数は世界的に数千万人レベルで集計される。
日本のアイドルグループAKB48のメンバー武藤オリンは小学生の頃、全日本フルコンタクト空手準優勝したことがある。
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