テコンドーを作った人達② 尹快炳(ユンケビョン)

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 韓国ヤクルト初代社長。ソウル大学校獣医科大学教授。建国大学校畜産大学副学長・研究所長。ソウル特別区獣医会長。大韓獣医会会長。アジア獣医社会連盟(Federation of Asian Veterinary Association)副会長。他多数。

 韓国獣医人物辞典の「윤쾌병(尹快炳、ユン・ケビョン)」の項目には、ここには書ききれないほど多くの肩書が残されています。その輝かしい経歴の中から「テコンドー」の文字は抹消されています。では、この偉大な獣医学者であり経営者でもある人物がどのようにテコンドーの設立と関わっていったのかを紹介していきたいと思います。

日本留学時代

 1923年9月20日、忠清南道姫で生まれた尹快炳は若くして日本に渡ると、大阪で高等小学校と中学校(茨城県という説があり、現在の茨城県立竜ケ崎高校出身とも)を卒業しました。その後、上京し東京獣医畜産大学(現:日本大学獣医学科)を1945年に卒業すると、1949年まで母校で助手を務めた後に韓国に帰国した事が記録として残されています。当時は日本名として尼山曦炳(あまやまぎへい)、もしくは尹曦炳(いん ぎへい)と名乗っていました。

 尹快炳は実業家としての顔や研究者としての顔以外にも、空手家としての顔も持っていました。高等小学校・中学校時代は糸東流空手を学び(摩文仁賢和から学んだという説も)、大学進学後には遠山寛賢の修道館に入門して空手の修練を続けました。戦後、GHQが武道を禁止すると、遠山寛賢の高弟らがGHQの監視を逃れて空手の稽古や普及を行うために韓武舘を立ち上げ、尹はその館長に就任します。

 当時は武道禁止令に伴って余った剣道の防具が多数あり、これを着用したのフルコンタクトでの組手(現在の防具空手に繋がる)が韓武館における自由組手の稽古法だったようです。また、極真空手の創始者である大山倍達(崔倍達)やその師匠で剛柔流の使い手だった曺寧柱なども出入りしていました。

 尹について当時の後輩だった空手家の金城裕は「(館長に就任したのは)韓国籍で、当時第三国人として特権階級に属していたからである。若い事業欲ある才人であり、彼が空手界にかかわった年月は短いけれど、残した業績は大きい。このように書いても空手界の人はすぐには納得しないと思う」と述べています。

空手家としての尹快炳

 韓武舘は尹の帰国後に練武館となり、防具空手のメッカとして今日まで続いていく事になるのですが、ここでの尹の経験がWTテコンドーのキョルギのルール制定に大きく影響を与えていく事になります。

 尹快炳とは韓国へ帰国した後、ソウル大学の教員となるのですが、同時に朝鮮研武館空手道部の田祥燮館長に雇われて師範となります。研武館での稽古は田祥燮が拓殖大学で学んだ松濤館流が主流だった事が記録として残されており、尹快炳も自身の空手流派とは別に松濤館流の空手を指導していた様です。間もなくして朝鮮戦争がはじまると、行方不明となった田祥燮に代わって館長に就任し、道場名を『智道館(ジドクァン)』と改めます。

 また、この頃に大韓空手道協会創設に参画するのですが、大韓唐手道協会と分裂してしまいます。

 50年代の後半から60年代の前半にかけての尹快炳はソウル大学の教員を務めており、空手を指導する学生達を連れて日本の防具空手の大会にも参戦していた事が記録されています。記録されている範囲では60年には栃木大学との交流し、61年には韓日唐手道大会を開いて日本の空手家を招待しました。

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弟子達との対立

 1959年に大韓テコンドー協会が設立されて、韓国の空手界が統合されると、尹快炳は自身が学んできた空手をテコンドー(跆拳道)という名称に変更される事に強い拒絶を示した。形式上は大韓テコンドー協会の初代副会長となるも、空手家としての活動を続けた。(テコンドーという名称については尹だけではなく空手界から強い反発があった為、折衷案として「テスドー(跆手道)」という名称が一時的に採用され、大韓テコンドー協会は大韓テスドー協会となるなど混迷を極めた)

 しかし、戦後に空手を学んだ世代の指導者達は新しい民族武術としてテコンドーを創りたいという想いを持っていました。結果、韓国の「空手」の方向性について若い世代の指導者たちとの意見の不一致が高まり、最終的に智道館は分裂してしまいます。片腕だった李鍾佑が多くの弟子たちを連れてテコンドー側へと合流。尹快炳は武徳館の館長だった黄埼や僅かな弟子と共にかつて日本で館長を務めた練武館(旧・韓武館)が設立したアジア空手道協会に参加します。しかし、国技化したテコンドー協会の切り崩しやロビー活動によって弟子達は皆去っていき、1969年に韓国ヤクルトの社長に就任すると、尹快炳は武道界から姿を消しました。

尹快炳の残した物

 テコンドーは大きく分けてWTテコンドーとITFテコンドーという二つの流派があり、その組手競技のルールは全く異なります。

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 テコンドーの創始者として知られる崔泓熙将軍が韓国の空手界を統合して大韓テコンドー協会を立ち上げた時、多くの空手家達は抵抗を示しました。その結果が「大韓テスドー協会」という協会名であり、その第一回の全国大会のルールを主導したのは防具空手の智道館でした。一方、崔泓熙将軍や一部のテコンドー元老達は実戦的実用性を強調し、競技化が実戦性を損なうものとして反対しており(『テコンドー教本(1960)』)、ITFテコンドーの方では大韓テコンドー協会(現在のWTテコンドー)とは全く別の方向で組手競技の制定を進めていく事になります。

 WTテコンドーの防具付きフルコンタクトルールのルーツは尹快炳が作った智道館であり、更にそのルーツとなるのは練武館(韓武館)へと続く遠山寛賢の修道館空手である事が分かります。現在のオリンピックテコンドーを観るに、尹快炳がテコンドー界に残した物は決して小さくはないでしょう。

 余談。テコンドーは一言で「松濤館空手の分派(酷い言い方をするとパクリ)」みたいな書き方をされる事が多いのですが、少なくとも現在のオリンピック競技のWTテコンドーのルール制定において大きな影響を与えたのは松濤館空手とは別の流派なのです。このノートを協会のホームページ担当者の方が読んでくれて、下のいい加減な文章を訂正してくれることを切に願います。