日本人とテコンドーと名古屋五輪

 時々「日本人なら空手とか柔道をやる筈でテコンドーはやらない」という謎理論で在日韓国人扱いされる私ですが、残念ながら普通に日本国籍ですし、日本人がテコンドーをやる事に疑問を持たれる方も少なくないので、そういった方へ向けた弁明をコチラでは書いていきたいと思います。

そもそも何で日本にテコンドーが入って来たのか?

 もちろん民団(韓国系の在日コリアンの団体)や総連(北朝鮮系の在日コリアンの団体)などの在日コリアン系団体から流入してきたテコンドーもあるのですが、それとは全く別ルートで日本に流入してきた神奈川県のイーグル会という団体について紹介したいと思います。

幻の名古屋五輪

 テコンドーがオリンピックの公開種目になったのは1988年のソウル五輪の事でした。完全に政治色の強い公開種目入りだったのですが、この1988年のオリンピックでソウルと最後まで争ったのが日本の名古屋でした。もし、名古屋五輪になっていたら、テコンドーはオリンピック種目にはならず日本の空手がオリンピック種目となっていた事でしょう。

 そんな「名古屋か? ソウルか? 空手か? テコンドーか?」という時代、韓国はまだまだゴリゴリの軍事独裁政権下でした。今でこそ韓国の反日が問題視されてますが、民間レベルでの文化交流すらなかった当時の韓国人の反日感情は今の比じゃありません。戒厳令下で日本人は危な過ぎて誰も行けなかった時代です。そんな韓国に1人の空手家が足を踏み入れます。

 塩谷巌。田中角栄のボディガードであり、当時日本武道振興のために活動していた財団法人東興協会の理事長を務める程の人物でした。東興協会について塩谷氏は「皇室だよ、わかりやすく言えば。昭和天皇の従兄弟の東久邇宮 稔彦さん(終戦後初の首相)が創設されたんだ。初めは柔、剣道、女子にはお華、お茶など、武道と情操教育を奨励するのを目的として創られたんだよ」と語っています。

 命がけの韓国渡航。その目的は空手の指導でした。名古屋五輪になれば空手が公開種目になります。そうなった時の為に、韓国軍事政権から依頼を受けて韓国に渡ったのでした。

 しかし、1981年のIOC総会で結果は名古屋の敗北。1988年にソウル五輪が開かれる事となります。同時にテコンドーが五輪の種目となってしまいました。そこで塩谷氏はそのまま韓国に残ってテコンドーを修行し、日本に持ち帰ってきます。オリンピックという国際舞台で日本が勝つ為に。

 その後、塩谷氏はイーグル会という道場を始め、二人の弟子をソウル五輪に送り込みます。そして、二人の弟子が興した神奈川県テコンドー協会へとつながっていきます。