歴史的仮名遣いについて

古文の授業で初めて習う人もいようが口語的仮名遣い(以下「新かな」)との対概念である。古文の演習でやるだろうが「~を歴史的仮名遣い(以下「旧かな」)に直しなさい」でたとえば「こういう」を「かういふ」に直すなどの問題をやることがある。歴史的仮名遣いを「正かな」といって日本語の文章をすべて「正かな」で書くことを主張する人もいる。どう考えればいいのだろう。
少なくとも読めねば話にならないと思う。戦前の作品はみんな旧かなで書いてあるし、戦後であっても丸谷才一など旧かなで押し通す人もいる。そういう資料にアクセス困難になってしまう(正確には戦前/戦後に旧かな/新かなが完全に対応するわけではないが。たとえば、日本国憲法は戦後のものだが、旧かなである。)。それと文語文ならば旧かなで表記すべきである。ここで詳述はできないが、文語文を新かなで書こうとすると、文法規則などメタメタになってしまうからだ。僕には、戦前の判決文で「わかりやすくしました!」というメールがまわってきてみたら、カタカナ部分を平仮名に直して句読点を挿入したのは便利だと思ったが、戦前の判決文は文語文なのにすべて新かなにしてあって殺意を感じた記憶がある。
でも文語文を書くのでない限り、書く場合は新かなでいいと思う。旧かなでも駄文は駄文だし、新かなでも名文は名文だからだ(僕がここで真っ先に思いつくのは三島由紀夫だが、誰でもいい。)。
それと歴史的仮名遣いが徹底されていなくともそこまで目くじらを立てなくてよいと思う。たしかに「誤り」は散見されるが「誤り」を探すことに夢中になって少年時代の古畑任三郎になってしまうと、肝心の話の筋が追えなくなるし、江戸時代の文学作品との連続性を保つために、あえて「誤り」を犯しているかもしれないからだ(例:「どうする」は「どふする」にして洒落っ気を現す。)。それに漢字の旧かなをすべて覚えようとすると負担が過大だ(例:「轡虫」は「くつはむし」でなく旧かなでも「くつわむし」という。)覚え歌は一応あるが漢字は何万とあるので、限界はあろう。戦前の文章はみなルビが振ってあるので、「誤り」は直ぐに馬脚を露す。もし現代だったら弊害は少ないが分からない漢字を平仮名にしたり、裁判所などの公的機関の文書(例:「い集」や「容かい」)で同様の問題は生じるだろう。
それになによりも、これは前の方の段落で述べたことにも関連するが、新かなにすると、完全に発音通りの字を作るのは無理だが、大体発音通りの字になるので、敷居が低くなって表現活動が容易になる。ここで毀誉褒貶激しい事例をとりあげると(特に井上ひさしと齊藤美奈子との間で)、野口英世の母親が書いたとされる手紙である。そこには「かえってきてくだされ」と書いてあった。旧かなで書くと「かへつてきてくだされ」だろう。旧かなが絶対的ルールになると、二の足を踏んで手紙は出されなかったに相違ない。


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