あらゆる可能性を考える

「あらゆる可能性を考える」
ということの重要性を、
私はできれば世界中に訴えたい。
みんなで実践すれば、世界平和すら実現できると思うの。

「相手が悪い」「相手に悪意がある」「相手が間違っている」
と決めつける人が多いと思う。
本当にそう?

その前に 「 自 分 」 が、
間違っていないか、
勘違いしていないか、
思い込みしていないか、
偏見を持っていないか、
考えるべき。

自分の知らない事情があるんじゃないか。
自分が常識と信じていたものが
本当は違うのではないか。
そういう可能性を考えるべき。

誰かが嫌な態度で接してきたら、
「ヤな感じの人」
「この人嫌い」
と断言して、その人自体を否定する前に、
「疲れているのかな。
嫌なことがあったのかな。
寝不足なのかな。」
という可能性を考えるだけで、
少しは気分がマシになるでしょ。

「無視された!!」と怒る前に、
「急いでいて気づかなかったのかな、
コンタクト入れてなかったのかな、
私の存在感が薄かったのかな」
という可能性を考えたらどうだろう。
鬱にならない程度に
「あれ、私って嫌われてるのかな?
ウザがられてるのかな?」
と自分で気づいて
自分の悪いところを直せるなら、
さらに良い。

「そんなわけあるか」
「あの人が善意を持ってるわけがない」
「今のは絶対に故意のいやがらせ」
と断言できるのはなぜ?

相手の心を読めるわけ?

確認できないことを断言することこそ、無知の表れ。

「私にはわかるもん」これは自己過信。
わかる気がしてるだけ。
人生の中でたった数回、
ピンときたことが正解だったとしても、
毎回とは限らない。

「いつもそうだから」それは憶測。
今回もそうとは限らない。
「いつも」のほうだって、憶測で決めつけてる可能性がある。

ちゃんと確かめた?
偏見を持たずに、憶測を含めずに、きちんと100%の確認がとれた?
そうでもないのに、なぜ決めつけることができるのか。

一を見て十を知る力は、
私の生きてきた狭い世界の人間には見受けられなかった。

こうと思ったら他の可能性を考えない人は、短気でキレやすい傾向にある。
見てもいないことを勝手にこうだと決めつけ、誤解でキレる大人は、本当に見苦しい。

一方で穏やかな人は、数通りの可能性を考えているからこそ、イライラしないで物事に対処できているように見える。

例えば職場で短気な人が
「なんであいつは自分の担当の書類をこんなところに置きっぱなしにしてるんだ!」
と怒っているそばで、
「あの人は3時までの契約ですし、これはあの人が帰った後に入ってきたものですよ」
と即座に言える。
あいつの書類だからあいつが置いた、と決めつけるのはハヤトチリ。
「だってこうなってたらこうだと思うじゃん!」というのは言い訳。
この言い訳を使って、
自分は騙されたも同然というように堂々としている人がよくいるけど、
あらゆる可能性を考えることができなかった、
事実を確かめなかった、
正しい判断ができなかった、という自分の落ち度を公言しているようなもの。
思い込みによって勝手に悪者にされる側の気持ちも想像できていない。

相手に悪意はないかもしれない、
自分が勘違いしているだけかもしれない、
という可能性を考えるだけで、
イライラは減る。

あらゆる可能性を考えられる人間しかこの世にいなかったなら
ケンカも問題も起きない、戦争も起きないんじゃないかと思う。
「そんなわけない」と思う?
そらそうだ。あくまで仮定の話よ。
世界の人全員の意識を変えるのは、ちっぽけな私には難しい。
でも1人でも多くの人が
穏やかな気持ちで
幸せな気持ちで
イライラせずに暮らしていけるようになったら、
世界はちょっと良くなると思う。

「絶対」「~なわけがない」と思う前に、
他に明るい可能性がないかどうか考える習慣をつけてみたらどうでしょう。

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