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残された日本の記憶〜飛騨の口碑から日本を知る〜『中巻』


皆さん、こんにちわ。

臥龍桜です。

さて今回は上巻からの続きになります。

では一緒に、日本の記憶を知る旅にでましょう。

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上巻でお話ししていた竹内巨麿さんの竹内文書の話。

これとは別に『竹内文献』というものがあります。

これは簡単に言うと

『竹内家が2つあるからです。』

もう1つの竹内家は

後醍醐天皇の直系として代々続く竹内家

そして、竹内宿禰(たけうちのすくね)の名を代々襲名する家系です。

現在 73世の竹内宿禰を襲名しているのが、 竹内睦泰(たけうち むつひろ)さんになります

後醍醐天皇の直系の竹内家は基本

門外不出の『口伝』を中心とする古神道の秘儀などもあります。

歴史的内容も基本口伝になります。

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後醍醐天皇直系の竹内家は


富山の射水群二上山(いみずぐんふたかみやま)を拠点とし。※現在の射水市。

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竹内巨麿さんの方は富山の婦負(ねい)群神明村を拠点としたと言われている。※現在の富山市

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ざっくりとした地図、真ん中が富山市。左に射水市

距離感的にも近いです、隣町な感じですね。


さて後醍醐天皇直系の竹内家には口伝の外伝として文書も残っています。

竹内巨麿さんの竹内文書と共通する部分もあるそうですが根本的に違うそうです。

後醍醐天皇直系の竹内家の外伝の文書が竹内巨麿さんが、持っていた竹内文書の原文なんではないかと考えている研究者の方もいる様です。

また原文の内容に関しては非公開だが竹内巨麿さんが、公開した竹内文書と共通する内容部分もあるとの事です。

それは以下の様な事です。

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超古代文明に天皇家の先祖が世界を統治していた事。キリストが来た事など。

(※注意 キリストが来たです。亡くなったではありません。)

越中(今の富山)を中心とした王国があったなどです。
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この様に後醍醐天皇直系の竹内家の竹内宿禰さんは。

竹内家の長老と言われる人達に

秘儀や秘伝を全て1人で継承しなくてはならないと言われている様です。

また竹内宿禰さんの長老達が運営している竹内神道は長老達だけが運営に携わり

竹内宿禰さん自体は運営に携わっていないとの事。

ちなみに

『竹内神道とは秘密結社だと言われています。』

竹内神道で調べても出てくるのは竹内宿禰さんが立ち上げた

『古神道本庁やブログだけです。』

何故、竹内宿禰さんが古神道本庁を立ち上げたかと言うと。

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竹内宿禰さんの方の竹内文書や口伝が、今のこの時代に必要な事が沢山書いてあり。

この内容なら他の宗教や自然と共存出来て色々な問題を解決出来る。

なのでこの事を広めたい。

また閉鎖的な竹内神道は嫌だ。

と立ち上げたの古神道本庁だそうです。

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しかし、竹内宿禰さんが一部公開した口伝などについて竹内神道内部でもめているそうです。

この様に

『竹内文書はある意味、2冊存在します。』

オカルト的には

『竹内巨麿さんの方を、竹内文書』

『竹内宿禰さんの方を、正統竹内文書』

と分けています。

また興味深いのは

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竹内宿禰さんの考えでは

正統竹内文書も『偽書』だと考えている様です。

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竹内宿禰さんは

竹内巨麿さんが公開した竹内文書が盗んだ物だと想ってる様です。

版を新たに変える度に新しい内容が書かれているなどは、1人で創作出来る物じゃなく

他に協力者がいたと竹内宿禰さんは想っています。

これは先程もお話した

『酒井勝軍(さかいかつとき)さんの事だと想います。』

今で言う自衛隊の特殊任務、エジプトのピラミッド調査、研究などにもついていた方ですね。

他にも竹内宿禰さんは

竹内巨麿が神代文字(じんだいもじ)を読めたのは

サンカだたからではないか?と考えています

神代文字の1つの『サンカ文字』はこの様な文字です。

サンカ文字だとされる文字。

神代文字の豊国文字

神代文字の豊国文字。


神代文字のヲシテ文字(ホツマ文字)

神代文字のヲシテ文字(ホツマ文字)

この様な文字を『神代文字』と言います。

サンカとは、色々な説があるんですが

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山地や里周辺部で過去に見られたとされる不特定の人々を指す言葉です。


時代や立場によって定義や趣旨も

大きく変わり明確にすることは難しい。

定住地がなく、仕事を探し村を転々とする

自然の洞窟や古代の遺跡や寺の軒先などに

住み、戸籍などを持たない人達の事。

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と一応言われています。

もう一度、神代文字のサンカ文字と豊国文字を見てみましょう。

サンカ文字
豊国文字


少し分かりづらいかもですが、、、

ポイント、ポイントで似ています。


個人的にこの様な事からも竹内巨麿さんがサンカだった可能性はあると想います。

竹内宿禰さんもこの様なポイントを知っていて、竹内巨麿さんがサンカだったんではないか?と想ったんではないでしょうか。

この様な事から竹内巨麿さんがサンカ文字を使ったり読めたり、また文字が似ている豊国文字も使ったり読めたりしたと推測出来ます。

しかし個人的にはそれだけでは無く。

『御嶽教、鞍馬山などで修行し神代文字を教えてもらったとあります。』


御嶽山は岐阜県、長野県の間。
鞍馬山は京都になります。

昔は修験道も盛んだったので
全国から、御嶽山や鞍馬山に沢山の
修験道が来ていて、色々と知識を得たんだと
想います。

先程もお話ししましたが。

竹内巨麿さんの方は

『皇祖皇大神宮天津教』という神宮が茨城県に現存します。

竹内宿禰さんの方はというと

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現在、社殿はないが幽斎 (ゆうさい)で祭祀を執行している社に『皇祖之霊皇大神宮』(みおやのみたますめらおほかむのみや)がある。

口伝によれば、神武四年に神武天皇の詔(みことのり)によって創建された。

※幽斎(ゆうさい)とは?

簡単に言うと

社殿が無くても清らかな場所でお祭りをやってる所に皇祖霊大神宮という所があり。

神武4年に神武天皇の指示によりつくられた。

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竹内宿禰さんは他にもこの様にお話しています。

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口伝継承が始まった経緯は?

原日本人に対する侵略者である武内宿禰が、原日本人からその歴史と秘儀を奪ったのだと思う。

原日本人の歴史は改ざんされたのか?

原日本人の歴史はおそらく、神代文字で書かれていたのだろう。

もともと天皇と古神道とは関係がなかった。

それが現在、関連付けられているのは
原日本人の歴史と秘儀を奪ったことと関係があると思う。

そうして作られた歴史や秘術を正統竹内家が口伝で継承していった。

最初は古神道と天皇を結びつけるという意図も働きその後も口伝継承していくうちに

伝言ゲームではないが時代とともに改竄(かいざん)されていったと思う。

祭主が勝手に改竄・挿入したケースもあったと推察される。

それでも原日本人の歴史は正統竹内文書の中に残っている。

改竄されたといっても、それがネタ本だからだ。

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正統竹内文書は茨城に伝わる竹内文書よりもましだが。

『私自身は偽書だと思う。』

それでも真実の歴史が含まれているのではないか。

正統竹内文書を公開しようと思ったのは、たとえ偽書であっても偽書を悪と決めつける風潮が許せなかったからだ。

偽書の中にも歴史推理のヒントは含まれている。『古事記』だって似たようなものではないか。

竹内宿禰さんはこの様な発言をされています。

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『僕も偽書の中にも真実がある。』

そう想っているからここまで

色々と探求している所もあります。

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さて。

ここまでのお話しの中である事に疑問を感じました。

それは本当に単純な事です。

『竹内巨麿さん』

『竹内宿禰さん』

『2人とも富山との関係性があります。』


『竹内巨麿さんの竹内文書とは竹内宿禰さんの方、本家の竹内文書や外伝や口伝がベースになってる。』


ここまではいいですか?


口伝継承が始まった経緯は原日本人から奪ったもの。原日本人の歴史は改ざんされた。

竹内宿禰さんがお話ししていた事を簡単に纏めると、こういう事ですね。



でわ。

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皆さんに質問です。

『正統竹内文書も元は原日本人から奪ったもの。』

と竹内宿禰さんはお話ししていました。


でわ。


『原日本人』とは誰だと想いますか?

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個人的に色々と調べた結果です。
(あくまでも個人的です。)

可能性が1番高いのは。

それは『飛騨地方の人達です。』


では何故『飛騨地方の人達』なのか

ポイントを簡単にお話していきます。

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飛騨には『飛騨の口碑』というものがあります。

飛騨の口碑と正統竹内文書、竹内文書の共通点。また色々な角度からの視点でお話しします。


竹内文書は神が降りて来て

岐阜県『位山』を拠点としていた。

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飛騨の口碑では乗鞍近辺で人類が誕生し

乗鞍から降りて来て、水無神社(みなしじんじゃ)近辺に住み始めた。

『位山』は飛騨の口碑で御神体。

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正統竹内文書では『越中王国』が

あったと言われている。

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正統竹内文書では
元々自然崇拝で自然と人類の共存をしていた。

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飛騨の口碑では

自然崇拝、先祖崇拝

水や山、太陽、人に恵みを与えてくれるものに自然に手を合わせる様になった。それから先祖と自然。

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竹内巨麿さんが祖父から、神宝などを受け取った時に『世の中が平和になったときに公開せよ』と言われた。

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飛騨の口碑は

山本健造(やまもとけんぞう)さんという人物が

飛騨の口碑を語り継ぐ、語り部翁(かたりべおきな)

という人物から飛騨の口碑を聴き本にまとめた。

語り部翁から『良い時代が来たら飛騨の口碑を公表してくれと頼まれる』

飛騨の語り部翁の家に伝わる皇室や日本の極秘の事。

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地質学的に飛騨地方(富山、石川、福井含む)が日本で1番古い鉱物や、日本で1番古い化石などがこの地方から出てきている。

おもに岐阜県飛騨地方(この場所は、富山、石川、福井を含まない)

これは飛騨の口碑のお話しの中て海に沈んでいた

土地(日本)が1番最初に頭を出した大陸が乗鞍から白山エリアだと伝わっています。

飛騨の口碑と現実の地質学的な事が一致するんじゃないかと個人的には想う。

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『正統竹内文書は実は口伝』

『飛騨の口碑は口碑』

※口伝、口碑の違いは?

口伝は、口伝え(くちづたえ)の教え。
それを書きしるした文書。

口碑は、昔からの言いつたえ、伝説。

漢字は違うものも結局のところは多少は違えど似た様な事だと想います。

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先程、お話しした事ですが後でポイントになるのでもう一度お話しします。

正統竹内文書では

社殿はないが幽斎 (ゆうさい)で祭祀を執行している社に『皇祖之霊皇大神宮』(みおやのみたますめらおほかむのみや)がある。

口伝によれば、神武四年に神武天皇の詔(みことのり)によって創建された

詔(みことのり)とは

天皇の命令の様なものだと想っていただければ良いと想います。

幽斎(ゆうさい)とは

簡単に言うと

社殿が無くても清らかな場所で

お祭りをやってる所に

皇祖霊大神宮という所があり

神武4年に『神武天皇』の指示により造られた。

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飛騨の口碑では簡単に言うと神武天皇は飛騨の人です。

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この様に単純に共通点を結んでみました。

皆さんはどう想いますか?

この様に『飛騨の口碑』と『竹内文書』、『正統竹内文書』『地質的なこと』など。

単純に考えてもこれだけの共通点があります。

これだけの共通点があって無関係だと想いますか?

でわ

『飛騨の口碑』のお話の個人的に

ポイントになるであろう部分をお話します。
長くなりますが、お付き合いください。

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飛騨の口碑をお話するには外せない人物がいます。

その方は『山本健造』さんです。

先程、少しだけお話ししましたね。

山本建造さんは幼少の時に

山本さんの父親が腰痛になり

動けない状態になり一心不乱に祈ったら治った。

そしてその不思議な出来事を解明しようと

勉学に励み研究を生涯続けました。

そして23歳の時に教員免許をとり

赴任先の生徒の母親が痛みで苦しんでるいるのを父親の時と(進化していた)同じ様に治した事により

その噂が語り部翁の耳に入って、語り部翁が山本氏の所へ来た。

(語り部翁とは、飛騨の口碑を伝える人の事です。)

語り部翁は、何故病気を治せるのか?などを聞き

山本さんは、幼い頃に父が腰痛で動けなくなった、それを『治れ、治れ』と念じていたら治った不思議な出来事があった。

普通なら良かったねで終わるんですが

山本さんは、何故?治ったのかを自分なりたいに探求し研究していました。

そして何故?治ったかを悟り

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まとめたものが、『六次元弁証法』

(ろくじげんべんしょうほう)

と言います。

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この六次元弁証法で、多くの人を治してきたと語り部翁に話ました。

(六次元弁証法は本として出版されています。)

語り部翁は、その話を聞き

お前のような神通力(念じる力)というものが本当にあるとわかっているものなら。

大昔から我が家に伝わっている皇室や日本の極秘の事が理解できると思う。

今こんなことを世間に漏らしたら流言飛語、不敬罪で監獄行きじゃ。

お前を見込んでしっかり伝えておく。

お前の生きているうちに良い時期が必ず来ると思うからその時

世の中に伝えてくれよと切々と頼んだのです。

『この話が昭和10年の事です。』

竹内巨麿さんがキリストの墓がなど酒井勝軍(かつとき)さんがピラミッドがなどの話をしていたぐらいの年代のお話しですね。

その時のゴタゴタしていた話が

新聞などで語り部翁の目にも止まっていたので、この様な話をしたら監獄行きだと言ったと個人的には想います。

この様な出来事があり。

山本さんは語り部翁から飛騨の口碑の話を聞き

飛騨の口碑を本としてまとめていきました。

では簡単に飛騨の口碑の内容をお話しします。

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日本は淡山(あわやま)今の乗鞍岳の丹生池(にゅういけ)で生命が湧いた。

アとは天を意味し

ワとは地を意味し

その二つを合わせて アワ

アワ=淡山です。

丹生池から誕生した生命は想い想いに進化し

陸地にもだんだん人が増えていきました。

(丹生とは生命が、『にゅう』っと現れた事を表現しています。) また『丹』(に)は水銀という意味があります。

先祖代々、私達はどこにも行かず

淡山の麓(ふもと)に住んでいました。

元気がある若者は想い想いに色々な場所に行き暮らして行った。

新潟、長野、更に東北の方にも行きました。

その当時は、蒸し暑かったから西に行くよりも

東北の方に行く方が涼しくて過ごしやすかったみたいです。

色々調べた結果、根拠的なものがある資料で見てみると約12万年前には今で言う島根県辺りで石器(狩猟に使うもの)が見つかりました。

(10万年前〜8万年前は、東北地方の方が過ごしやすかた様なのは分かっている様です。)

それぞれに、飛騨から出て行った人達は

たまに、孫を連れて帰ってきたりしました。

中には全く帰ってこない人達もいました。

時代は流れ、飛騨中に人々が住む様になりました。


次は飛騨の口碑の

飛騨が何故飛騨になったかです。

淡山の丹生池を囲み。住んでいる近くに先祖の亡骸(なきがら)を埋めて、その傍に池を造り。

皆で池を囲んで、池に太陽の光、月の光を浮かべてその光をジィーと見つめながら心から感謝して先祖を拝み、心を鎮めた。

その行事が朝夕なされ、日抱御魂鎮(ひだきのみたましずめ)と言います。

それが日抱(ひだき)、日抱(ひだ)と呼ばれ頻繁に行われる様になりました。

飛騨を出て行った人々は
自分の故郷を、日抱(ひだき)をするところ

日抱(ひだ)といい後にひだ(飛騨)という地名になりました。

日抱御魂鎮(ひだきのみたましずめ)は飛騨のあちこちで行われていました。

大昔から長い長い間、最も盛んに行われたのが

今の丹生川村(にゅうかわむら)で

今では日抱御魂鎮(ひだきのみたましずめ)をしていた場所が神社になり日抱宮(ひだきのみや)という名前になり残っています。

飛騨が何故?飛騨という名前かはこの様な事があったからです。

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飛騨の口碑での信仰感とは。

元々は、社(やしろ)などなく

山そのものを、神として拝むのです。
海そのもの、火そのものを神として拝みました。

言い換えれば、山の中に溶けている生命を神として拝んでいました。

古代の人は山や海そのものを拝み感謝していました。

社(やしろ)を作り御神体をその中に納めて礼拝したのは後のことです。


個人的には

信仰と言うよりも、感謝に近いと想います。

自然と人の共存、恵みを与えてくれる

その自然に対しての感謝。それが徐々に

信仰的なものに変わっていったと想います。

飛騨の人達は、乗鞍岳を拝み位山を拝み 先祖を拝んでいました。

信仰に関してはこの様な感じです。

では、『飛騨の口碑』の続きの内容を。

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約2500年前に大淡上方様(おおあわかた)

という方がいました。


賢く、とてつもない神通力が使える方でした。


国を守る為に旗鉾(はたほこ)

乗鞍岳、焼岳、付近。

もう少し分かりやすく言うと平湯温泉辺りと言った方が分かりやすいですかね?

焼岳付近から更に奥に進み国を守る為に
新しい国造りを始めた。

とあります。

では何から国を守るんでしょうか?

それは

『海から来る渡来人の方達です。』

その内容を簡単に言うと、、、

たまたま流れ着いた渡来人が

『人食の部族だったのです。』

そして流れ着いた人々を見に来た人々を

『殺して食べたのです。』

その部族は、食べられなかった人々により殺されましたが

また次、この様な部族が来て人が食べられたら大変だと大淡上方様が、国の防衛の為に新たな国を作ろうと焼岳から更に奥に進んだのです。

焼岳から更に奥に進むパターンは2通り。

単純に考えて

『人食の渡来人がたまたまにしても、漂着して。仲間を殺し、食べられたら。急がないはずはありませんね。』

という事は、呑気に飛騨山脈や立山を2つ超えるよりも

焼岳の脇沿いを通るのが最短じゃないでしょうか?

焼岳を越える2パターン

もうお分かりですね。

青い矢印の方向に進んだ方が海沿いに出る方が早いですね。

青い矢印の先には何がありますか?

そうです。

射水市(いみずし)です。

(厳密に言うと射水市の方面ですね。)

さて、覚えてますか?射水市に何があるか。

正統竹内家の拠点があるのが、、、、

『射水市』でしたね。

この拠点に正統竹内家の

社殿はないが(幽斎 ゆうさい)で祭祀を執行している社に『皇祖之霊皇大神宮』があると想います。

ここじゃないか?と想う場所はあります。

想像した通り小高い山にその場所はありました。

(※竹内巨麿さんの方の竹内文書では有名な場所です)

皇祖皇太神宮(元は?)

海までの距離も近く、山の上から海を見渡す
事も出来ます。

海から来る渡来人をいち早く見つけるには

『海が見渡せる小高い山』は必要な条件だと想うので。

さてこの様に色々調べた結果

正統竹内文書 

竹内文書

飛騨の口碑

この3つが『富山』で繋がりました。

正統竹内文書の『越中王国』

越中とはもちろん『富山』の事です。

何となくですがこの様な事からも

やはり正統竹内文書、竹内文書、飛騨の口碑は
何かしらの繋がりがあると想いませんか?

さて飛騨の口碑のお話を続けます。

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人食の渡来人の対策の為に現在の富山県に新しい国を造った大淡上方様は

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これからは団結して固まっていないと幸せは守れないと言い。

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考えたのが『本家 分家』 の様です。

上方の家(後の皇室)には苗字がなく分家する時に苗字をもらった様です。

簡単に言うと

『本家は苗字がない。』

『分家すると本家の方から苗字を貰っていた様です。』

時代は少し進み。

15代目の淡上方(あわかた)さんが飛騨中を納めるには雪のない宮村の方が良いと想い。

丹生川の奥から宮村に移り住みました。

(※現在の水無神社(みなしじんじゃ)付近)


岐阜県の位山(くらいやま)は古代飛騨王朝では『天皇のお墓だったそうです』

頂上付近には巨石群があり
通称『天の岩戸』と言われているそうです。


宮村に移り住んでから淡上方(あわかた)さんは、孫に皇統命(すめらみこと)と言う名前授けました。

(※称号みたいなものですね。)

初代皇統命(すめらみこと)は

位山命(くらいやまのみこと)と言う方でした。

15代目淡上方さんが宮村で亡くなり
位山の高祖岩と言う岩の横に埋めました。
そこから代々の皇統命(すめらみこと)を位山に埋めました。

そして

皇統命(すめらみこと)が新しくなる度に先祖代々の皇統命(すめらみこと)が祀ってある

(※簡単に説明すると。)

『位山』の『いちいの木』を使い加工して、その木の『板』に


次の皇統命(すめらみこと)は貴方です。と書かれていた辞令を渡したそうです。


そして

前回の大嘗祭でも『位山』の『いちいの木』を使い釈を作り、大嘗祭の時に天皇陛下が『釈』を使いました。

ずっとこの伝統が守られてきてるんですね。

改めて、飛騨の口碑の信憑性がホツマツタエと同じで上がったと想いませんか?

この様な事から

本当の日本の歴史は色んな偽書や口碑に
散らばっているんだなぁと改めて感じました。

まだまだ飛騨の口碑には色々なお話が書いてあるので簡単に進めさせていただきます。

次は神武天皇の頃のお話になります。

神武天皇は元々『サヌ』と呼ばれていました。幼少期の名前です。

サヌが成長すると

今で言う、九州を平定してきてくださいと
淡方様に言われ。

その後『ヤマノフモト』に都を造る様にと言われました。

約30年という長い歳月をかけて九州を平定しました。

その後サヌは九州から飛騨には帰らず

九州を平定した後の約束通り
ヤマノフモト略して『ヤマト』に都を造りヤマトを治めました。

先程お話したように

位山のいちいの木で作られた木の板に
書かれた辞令により

サヌは皇統命(すめらみことら)に任命され
神武天皇になりました。

本当にざっと何ですが、この様な出来事があり、サヌ、神武天皇はヤマトを治めました。

と飛騨の口碑では言われています。

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こちらもざっとですが

時は流れヤマトは簡単に言うと渡来人達に
乗っ取られてしまいました。

(政権をです。またそれに追い討ちをかける様に渡来人の次の作戦が実行されました。今で言う新興宗教が作られ歴史を改竄(かいざん)しました。)

それにより

飛騨の人々(天孫)は


『ひだ、ひえった、ひった、えった、エッタ、エタヒニン』


今で言うと浮浪者あつかいされ山奥などに隠れ住む様になりました。

そこで

『被差別部落という部落を作りました』

そして

それが、、、、

『サンカ』と言われる様になりました。

これで何故?

サンカの人達が『神代文字』を読め、書けたかが繋がりませんか?

この様な事から

サヌ、神武天皇が飛騨の人だと言うのが飛騨の口碑から分かったと想います。

(あくまでも飛騨の口碑ではです。飛騨の口碑の内容が100%真実だとは想っていません。)

さて。話は

先程、お話した正統竹内文書や竹内文書や飛騨の口碑と共通点の中の

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ポイント⑥をもう一度。

社殿はないが(幽斎 ゆうさい)で祭祀を執行している社に『皇祖之霊皇大神宮』がある。

口伝によれば、神武四年に神武天皇の詔(みことのり)によって創建された

詔(みことのり)とは
天皇の命令の様なものだと想っていただければ良いと想います。

幽斎(ゆうさい)とは

簡単に言うと
社殿が無くても清らかな場所でお祭りをやってる所に皇祖霊大神宮という所があり

神武4年に神武天皇の指示により造られた。

と73世の竹内宿禰さんが言っています。 

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初代 竹内宿禰さんは、景行14年

景行天皇が天皇になり14年後に
竹内宿禰さんが生まれています。

サヌ、神武天皇になったのは
一応、一般的な説では紀元前660年になります。

(一般的に広まっている説です。他にも説はあります。)

一応、一般的な説をベースに考えます。

景行14年とは
西暦71年になります。

神武天皇が天皇になってから
731年後です。

731年後に初代竹内宿禰さんが生まれます。

ちなみに『宿禰』とは称号のような
ものだとも言われています。

73世の竹内宿禰さんも竹内宿禰という名は世襲制だと言っています。

ただし、竹内宿禰を世襲する場合には
色々と条件がある様です。

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皆さんはどう想いますか?

皇祖之皇霊大神宮(こうそこうれいだいじんぐう)を

神武天皇が作ってくださいと言われ造ったと73世の竹内宿禰さんが言っています。

しかし

初代 竹内宿禰さんが生まれたのはサヌが神武天皇になってから731年後です。

果たして何故?

初代 竹内宿禰さんはその事を知っていたのか?

『疑問』じゃないですか?

直接聞いたはあり得ない。
まぁ霊体から聞いたならあり得るけど。

大体想像つきますよね。

731年前の神武天皇の命令を何故?竹内家が初代 竹内宿禰さんが知っていたか。

73世の竹内宿禰さんは

正統竹内文書も『原日本人から奪ったもの』

そう言っていましたね。

ならば答えは1つしかないと想います。

『原日本人』とは、、、、、

『飛騨の口碑の人達』

になりますね。


しかし。

個人的な推測ですが『竹内家』は元々は、飛騨の一族だったか?飛騨の一族と婚姻関係にあったんじゃないかと想います。

単純な話、飛騨の口碑も正統竹内文書も元は

『口伝え』ですよね。

死人に口なしですよね。

それを聞いただけで、覚えるには
何回も聞く。またはコッソリ文書を残すしかないんじゃないでしょうか?

しかも

公に出来ない状態でです。

仮に文書として残したとして部分、部分を文書にしていたんじゃないでしょうか?覚えてる所は文書にしないなど。

またかなり親密な関係性を作らなくては
聞く事すら不可能だと想いますがどうですか?

皆さんも自分の秘密を簡単に誰かに話しますか?

話しませんよね。

相手が信用出来るか、自分の周りと関係無い人なら相談程度で話すことはあるかもしれないですが。

話を進めます。

73世の竹内宿禰さんは

『原日本人の歴史はおそらく、神代文字で書かれていたのだろう。もともと天皇と古神道とは関係がなかった。』

竹内文書も神代文字で書かれていました。

サンカ文字も元々は豊国文字という
神代文字だったと想います。

『天皇と古神道が関係無いか?』

そこに関しては

『本当は関係無かった』

とは想います。(と、今は言っておきます。)

少なくとも渡来人達が日本に来るまでは
関係無かった。

もう少し言えば、淡方様が皇統命(すめらみこと)をサヌを任命する時ぐらいまでは関係無かったと想います。

神武天皇が亡くなり、渡来人が政権に関与し。

渡来人の信仰と日本の自然崇拝、先祖崇拝が習合した時が

『天皇と古神道が結びついた時』

なんじゃないかな?と想います。


一般的な事からの個人的な推測ですが

『秦氏が日本に帰化した以前、西暦200年以前に天皇と古神道が結びついたと想います。』

色々と気になる話はあるんですが、今はやめておきます。

(※気になる方は『呟き的な個人的な考察』を読み進めていけば分かると想います。)


さて話を続けます。

73世の竹内宿禰さんがこの様に言っていましたね。

天皇と古神道は元々は関係ない。

『それが現在、関連付けられているのは、
原日本人の歴史と秘儀を奪ったことと関係があると思う。そうして作られた歴史や秘術を正統竹内家が口伝で継承していった。』

これは、僕的には竹内家と言う家系の問題もあるんじゃないかと想っています。

(※繰り返しの部分もありますが、ご了承ください。)

少し難しいので、聞き流す程度でいいです。

一応、簡単に言うと
竹内家は、南朝.北朝時代
(天皇が日本に2人存在した時代)

竹内家は両方の天皇と関係を持っていました。

それが原因だと想います。

南朝、北朝時代は
両方の天皇に仕えていたので
こっちの天皇にはこう言って
こっちの天皇にはこう言って

結局はこの様な事をしていたので、一部内容が、ごちゃごちゃになってしまったんじゃないかと想います。

(全てじゃないにしろ口伝えのある意味、弱点なんじゃないかと想います。)

それが、そのまま竹内家の口伝として残ったと想います。

73世の竹内宿禰さんはこうも言っています。

『最初は古神道と天皇を結びつけるという意図も働き、その後も口伝継承していくうちに、伝言ゲームではないが時代とともに改竄されていったと思う。祭主が勝手に改竄・挿入したケースもあったと推察される。

それでも原日本人の歴史は正統竹内文書の中に残っている。改竄されたといっても、それがネタ本だからだ。

正統竹内文書は茨城に伝わる竹内文書よりもましだが、私自身は偽書だと思う。それでも真実の歴史が含まれているのではないか。』

と73世の竹内宿禰さんは言っています。

僕も飛騨の口碑の全てが正しいとは想っていません。

ただ73世の竹内宿禰さんが言っている様に
真実の歴史が含まれていると想います。

先程も言った様にそうじゃなければ

大嘗祭の時に

『岐阜県の位山の『いちいの木』を必ず使って釈を作らなければならないという歴史が現在も続いているのはありえないと想うからです。』


さて前回お話しした

ホツマツタエ

稚日女尊さん(わかひるめ) アマテラスの姉であり
妹ですね。アマテラスの和魂ですね。

旦那さんはオモイカネですね。覚えてますか?

飛騨の口碑では

アマテラスさんは女性です。

しかし、、、

名前が

『ヒルメムチさんと言います。旦那さんは、オモイカネさんです。』

旦那さんの名前は全く一緒。

天照大御神さんの名前もヒルメムチと
ホツマツタエのワカヒルメともかなり近い名前です。

飛騨の口碑では

アマテラス、ヒルメムチの胎盤

エナ(胎盤)を荏名(えな)神社に埋めたそうです。

ホツマツタエでも

男性天照大御神の胎盤 エナを
岐阜県の恵那山に埋めたとあります。

そして、そのエナの血を池で洗ったと言われる
血洗神社(ちあらいじんじゃ)が側にあります。

飛騨の口碑 ホツマツタエでも

この様な完全一致ではないですが

共通点があります。


また

ウエツフミという古史古伝があります。 

このウエツフミは先程、皆さんに見せた
豊国文字で書かれていました。

このウエツフミは
神武天皇以前のウガヤフキアエズ王朝の事など、その当時の日本の歴史、天文学、医学、農業、漁業、産業、民話、民族などの事が書かれている今で言う百科事典みたいな物です。

このウエツフミに書いてある事を
飛騨の口碑と比べた時もホツマツタエと同様に共通点があったり辻褄が合う部分もあります。

また竹内文書、正統竹内文書とも辻褄があう
部分もあります。

なので

ウエツフミ ホツマツタエ 竹内文書 正統竹内文書 飛騨の口碑 他にもある

古史古伝の中で辻褄があう部分は

意外に沢山あります。

この様な事からも

飛騨の口碑や正統竹内文書や竹内文書の内容のどれが正しくて、どれが正しくないのか?

一概に決めつける事は現段階では

『不可能』だと想います。

しかし個人的に言える事は、、、、、

『正統竹内文書や竹内文書の元ネタには飛騨の口碑が強く影響している事。』


『公開されていない、飛騨の口碑ベースの正統竹内文書が書物として存在している。』

この事に関しては個人的には間違いないと想っています。

さて

皆さんが生活している中で

何気ない行動や神社やお寺などに行った時にも

『真実のカケラやワンピースは皆さんの周りにもあるんです。』

ただ、それに気づくか気づかないか。

ほんの少しの興味があれば

きっと真実のカケラ、ワンピースに気づく事が出来ると想います。


中巻は以上になります。

さて下巻のヒントを少しお話しします。

正しい、正しくないを別の言い方をするなら

『善か悪か』という表現も出来ると想います。

では

『善か悪かの考え方はどう産まれたんでしょうか?』

更に良い方を変えれば

『二元論はいつ産まれたのか?』

次回『下巻』で更なるカケラが、、、世界と繋がる。

以上。

臥龍桜でした。

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