劇団三日月座『だいにんぐでわらってる』

正直自分の人生の中で一番衝撃を受けて一番印象に残った舞台だと感じた。
終演後言葉は出ず、立ち上がるので精一杯、取り込まれた世界から現実に帰ってくることがなかなか難しく駅まで帰るのも一苦労。それほど衝撃だった。劇団三日月座夏公演3つの中で1番のものだと思う。

まずはじめに、僕は演劇についての知識なんてないし、ましてや演技についてどうこう言える人間でもない。これは僕がなぜここまで衝撃を受けたのかを、自分なりに考えてみて書く。あらすじ等々に関してはあまり語らないのでご承知おきを。観劇済みの方向けになりがちだが頑張る。

この世界における重要なファクターとして、「役割」「信じる」が挙げられている。例えば役割、その世界での「家族」と呼ばれる関係を構築する上での役割(父親は何をする、母親は何をする)等であり、それをいかに遂行するかがかなり重要であるのだろう。またその行動や「信じる」という点において、「家族」を始めとする周りの人間を「信じる」ことにつながり、それら2つが遂行されることによって、ある種のノルマのようなものを達成する必要がある世界なのだろう。

その世界に来る前に何かしらの原因があってその世界に来たとすると、先生が飛ばされたことからも、他人を「信じる」ことができなくなった人間はここへ来るのではないかとも考えられる。そして、その世界のシステムの中で生き延びながら、役割を遂行しながら他人を信じることでその世界から抜ける事ができるのではないだろうか。しかしながら、父と一郎はこの世界から抜けているように見えるが、母と二郎は抜けていない。これは、母と二郎は、はじめの世界線において一度「信じる」ということを失敗しているからではないだろうか。この世界において抜けるためにはパーフェクトゲームをしなければならないのではないかと考えられる。同じようにハンコが溜まってもパーフェクトゲームのフラグが折れてしまっていてはそのフェーズでの離脱は不可になる事も考えられる。または、父の役割として、この世界を伝え、育てるというようなことを言っているので、二郎のポジションの役割の人間はそもそも一度では抜けられないのではないか、そうすると実はすべての人間は1度目がチュートリアルで2度目以降が本番、というような事も考えられる。

このようなフェーズ単位で世界が構成されていると考えると、仮にリセットされた人間がいようが、それが取り消されようが、「そんな人いなかった世界線」に移動するだけでフェーズ自体は変わらないのではないか。例えばメインで進む最初の世界線をAとすると、母がリセットされた世界線はBでまたAの世界線に戻るだけ。しかしハンコ自体は世界線ごとで管理されており、目に見えないパーフェクトゲームのフラグのようなものはフェーズごとで管理されていると考えられる。

その世界におけるシステム云々は僕はこのような考えでひとまず落ち着いている。それぞれの細かいキャラクターの人間性等については語ることが難しいのであとは、単純に印象に残っている演出等々を紹介する。

1つ目に、役者全員の発声や滑舌がとてもきれいで、死んでいるセリフがまったくなかった。また、演じ分けをする必要がある役については、表情まで見入ってしまうほど細かく別人を演じているように見えた。
2つ目に、照明と音響である。リセット直後のシーンの単色照明とピアノのジングルが不思議な世界での不思議な状況を如実に表していて、引き込まれるポイントであった。
3つ目に、伏線についてである。1回観たときは、世界に取り込まれすぎて伏線について何も覚えておらず、あまり印象に残らなかったのだが。2回目で、なぜこの人はこの表情をしているのか?なぜこんな変な言葉遣いをするのか?なぜこの会話が必要なのか?がすべてキレイに回収できている。1番はじめのシーンとラストのシーンがつながったときは鳥肌が立った。
そしてさいごにオープニングである。ここに関しては語彙力がなさすぎてあまり追求できないが、パフォーマンスの綺麗さや動きとストーリーとのつながり等がなぜこうなるのか?を2回目の観劇でわかることができて、ここも鳥肌立った。そして役者との距離の近さもまたポイントであった。

自分のメモのようなものに仕上がってしまい、非常に読みにくいような文章になってしまっているが、語彙力のなさは勘弁していただきたい。
また、語りきれていない部分もあるが、間延びしないためにもこのくらいで切り上げようと思う。

最後に、劇団三日月座、ヤバい。ということだけ言っておきます。

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