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リアル・リタイア・ライフ

ライフロールを描いてみるとわかりやすいが、
会社の定年を境に、ロールの数がぐっと減る。
会社員、役職(これは55歳の役定で消える)、家族の収入面の大黒柱、などだ。現場から離れると専門的な知識・情報もだんだん陳腐化してくるので、
エンジニア、法律などの専門的な面でのロールも薄れていく。

だから、それらが消失する『定年』という会社の制度が、
個人の現職とリタイアを分けているように考えてしまう。
リタイアは自分が自分の気力や体力と相談して決めるものであって、
それは年齢に関係ない。
定年は会社の制度、いわば現代の制度の一つにすぎず、
これはもういろいろなところで変更されつつある。

だから、体力的にも気力的にも、そしてスキル的にも十分、
あるいは多少の減少傾向が自覚できるくらいのところで退職するというのは、なんとも間が悪い制度だといえなくもない。
それ以上に、その気になって『ようやく、定年だ。これからはできなかった趣味を大いに楽しむぞ』とか『小遣いくらい稼げる仕事で十分。それで好きな旅行に行こう』などと、スパッと切り替えるのはもっとおめでたい。

定年期にあるビジネスマンたちが新卒の時には、まだ終身雇用がベターな生き方だったかもしれない。それは昔話だ。
いまや様々な産業の成長につれて人材流動性が加速し、いまどき転職は当たり前になった。人材業界では、50歳台まで同じ会社、同じ部門で働いている人は、そうとうヤバイ存在、というのが定説だ。
専門性をひたすら深める時代から、専門性を磨きながら関連する分野に横断的にキャリアを広げていく時代にとっくに入っている。

同じように、定年でリタイアというのはとっくにありえないことになっているのに、どこかで頭にこびりついている。
70歳でも40%以上が働いている時代。それは経済的な理由もあるが、社会的につながっていきたい。人の役に立ちたい。まだ未開拓の自分の能力を発見したいとか、いろいろなものがその理由に突っ込まれているはずだ。
体力、気力が残っているというのはそういうことじゃないだろうか?

だからこう言えるのではないか?
どうせ働くなら、今まで通り家庭を顧みず働くこと。
趣味なんてものは、生活の大半を占める仕事の隙間を埋めるから、楽しいのであって、それがメインになったらそれは仕事だ。それも出費だけがかさみ、時間も取り、それ以外にやりたいことを犠牲にしかねない代物だ、と。

一方で、現実的に高齢者にとって仕事の選択肢は極めて少ない。
マンション管理人などは恵まれているほうで、清掃や警備など、体力的につらかったり、時間が少なかったり、物足りなかったりするものが多い。それ以上求めるにはそれにふさわしい専門性と実績が必要になる。残念ながら、それはない。

どうせそういうものなら、それはそれで割り切ればいい。
短時間の労働は、やりがいなどを欲張らずに、小遣い稼ぎと割り切る。
それをもとに、時間は潤沢にあるのだから、旅行、趣味、交友、そのほかの新しい遊びに挑戦、という生活スタイルを編集するのだ。
よく、家庭菜園や園芸やゴルフ、読書などが、人気の趣味に挙げられるが、それは本音からのものだとは思えない。
たまたま近くにあるのがそうだったからで、仮に執着や興味が強くあったにしても、毎日とか朝から晩までできるものではない。もし、いや俺は好きだから一日中やっている、という人がいるなら、それはもう仕事でしょ?って言いたい。

『仕事』の代わりに『趣味』を置き換えた生活が、リアルなリタイア生活だとしたら、それは徒労のようなものに見えてきませんか。
本来、もう働く義務というものが大幅に軽減されたり、幸運なことに消滅したのであれば、おおいにいろいろなことに首を突っ込んで、楽しむのが自然じゃありませんか。
年を取れば取ったで、もののあわれも面白さもわかってくる。
やってみたいことは山ほどある。

時間は十分にある。習い事だって始められる。
少なくとも、たかが趣味なのに、一つに絞って時間を取られるなんて。
そんな野暮なことは、やめときましょうや、ご同輩。

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