リタイア後に欠けていたものは、わかりきったことでした。
元気な高齢者が、旧態依然としたリタイア後の生活スタイルに自分を当てはめて、物足りない、およそらしくない毎日を送っている。
同世代の自分でも、そんな風景を見たり、聞いたりすると、果たして今までの自分は何だったんだろう、と思う。
定年は必ず来るものと分かっていたから、素直に迎えられた。それしかないからだ。ちょっとゆっくりして、何かできること、やりたいことを始めよう。それがはっきりしていなくても、ネットで調べたり、元同僚に聞いてみれば、何か面白いこともあるだろう。このまま、おとなしくしている俺ではない。
と考えるのが、ほとんどで、実はそれが老人化への直進道路だ。
そもそもやりたいことなんかふっと出会うものではない。あればとっくに仕事をサボってもやっているはずだ。それは自分だけではない。同僚だって同じことだ。
その代わり、はっきりと見えてくるものはある。
住んでいる場所、一人一人の家庭の財政状態、家族構成、などの違いというやつが、思っていた以上に大きく、意思とは別に自然に生活スタイルを決めていくのだ。
女房がパートをやっていれば、朝は今までどおり起きなくてはいけないし、自分も何かしないと格好がつかない。しかし、住まいがある郊外の旧い宿場町にはマンションもほとんどなく、高齢者に似合ったマンション管理人や清掃の仕事はない。代々サラリーマンの家系だから土地や財産もない。
となると『リタイア後に必要な生活費3000万円』を目安に、暮らしていくしかない。まあ、それは自分のことだからある程度想像していたし、あきらめもつく。
それに引き換え、土地持ちのあいつは親から引き継いだ土地にアパート、マンションを建てたので、自分はそこでマンション管理人をし、空いた時間には家庭菜園で野菜作りにいそしんでいる。できた野菜をどこに配るか、などとのんきなことを言っている。つい先日は、夫婦でヨーロッパ旅行に行ってきたという。この円安の時に、そんな趣味があったっけ?というくらいのものだから、まあ暇つぶしのようなもんだろう、という話をよく聞く。
しかしよくよく考えると、働いているときはよく酒を飲んだり旅行にも言った仲間でも、趣味が同じ、考え方がよく似ているといった意味での友達ではなかった。同じ釜の飯をくった同僚ではあるが、私生活のことなど互いに関心もなかったし、そこまでの親しさを持っていたわけでもなかった。
そういうわけで、同僚から面白い話などは来る可能性はない。誰も似通った生活を送っている。田舎を持っている奴は田舎に帰り、小さな畑を耕しながらゴルフを楽しんでいる、という話を聞いたときは、ちょっとうらやましかったが、そんな生活を送りたいとも思わない。
じゃあ、どうする?
結局、当たり前のことだが、自分のことは自分で考え、動くしかない。他人のことをうらやましがったり馬鹿にしたりしても、結局は自分一人の問題だ。だれも興味もないしましてやアドバイスをもらうことだって期待できない。
そうなると、これまでの数十年そうだった、組織人とかビジネスマンとしての自分だけでなく、家庭人、その地域の住人、山登りが好きで、歌が好きでオリジナル曲を作ってレコード(古い!)を作ったこともあり、ガリ版で文集を作ったこともある、それこそいろいろな好奇心、制約条件、経験、スキルなどを含めて、リタイア・ステージに向けた計画目標を立てなくてはならない。
そうか、欠けているのは、自分で立てる目標でありKPIであり、しばらくは地道な努力やら無駄になってもしょうがないと確かめてみるチャレンジだ。
目標は何でもいいが、背伸びをしても少し届かないくらいの高さはあったほうがいい。それに簡単にきるわかりきったやり方では到底無理そうな、難しいことがいい。自分の至らなさをストレッチしてくれるからだ。
年甲斐もなく、ばかなことをやる。
そう、老人化を阻むには、年甲斐を捨てて、これまでのやり方を応用しながら、プロジェクト始めればいいだけなんだ。なーる。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?