40年間のアパレル人生を振り返った話

もっとナップパームのこと、”俺のアメカジ”を知って貰う為に、私のアパレル人生を包みなく書いてみます。

小中学時代は比較的大人しい性格で目立たない存在でした。
野球が1番の親友。
甲子園に憧れ、中学在学中から高校の練習に参加する野球小僧でした。
意気込んで入部したものの、1000本ノックや山道20㎞走などハードな練習と、練習後の”シメ”と言われる先輩からのシゴキに耐えられず、途中退部してしまう根性無しの高校生でした。

退部後は時間を持て余し、教科書を丸暗記する事を趣味としておりました。
通学は徒歩1時間かけての登校です。
その間、教科書を暗記する事に集中。
友達からは、”二宮金次郎”と揶揄され、先生からは、”銀縁ガリ勉君”と呼ばれるほど、教科書の丸暗記に没入していた記憶があります。
進学校では無い為、先生からは地元の企業に就職するように薦められましたが、先生や親の大反対を押し切り、東京の服飾専門学校に進学し池ノ上での貧乏学生生活のスタートとなります。 

私が1番青春を謳歌したのが、服飾専門学校時代でした。
上京当時、代々木公園前の通りは週末歩行者天国となり、”竹の子族”と呼ばれる派手な衣装で踊る集団が一世を風靡していました。
デカイラジカセから、デカイ音量で音を流し、その周りを囲むようにして踊りまくる。
その踊り方が独特で、みんなで同じ動きをするのが当時はかなりカッコよくアイドル的存在でした。
竹の子族に対抗する形で張り合っていたのが、リーゼントにキメてロカビリーに合わせて踊る集団、”ローラー族”です。

竹の子族、ローラー族の対極にあったのが、”ハマトラ族”と呼ばれる人たち。
フクゾーの服、キタムラのバック、ミハマの靴が3種の神器と呼ばれ一代ブームを巻き起こします。
のちにクレージュのショルダーバック、シップスやボートハウスのトレーナーが大ブレイクします。

そして私のスタイルはと言うと、クラスメイトのT君のパンクスタイルに衝撃を受け、インターンK君のアパレル営業スタイル(リーバイス501にシャンブレーシャツ)に憧れ、M君のオネエ言葉に違和感を感じながらも彼らの影響を多大に受けて、日替わりでパンクスタイル、業界スタイル、オネエスタイルと七変化ファッションで歌舞伎町界隈をホームグラウンドとしておりました。
謂わゆる、”節操がないスタイル”が私の青春謳歌時代のファッションスタイルでした。
今思えば、TOKYOと言うカオスに魅力されていたのだと思います。

音楽と言えば、タワーレコードやシスコでジャケ買いや、試聴して無名でノリの良い洋楽盤だけを買い集めていました。
週に1枚は必ず買っていたので、レコード盤だけでも押入れに入りきれないほど膨大な量になっていました。
殆どを人にあげてしまい、今残っているのは、ボブマーリーとイーグルスのみであります。
服もアンティーク品なども人にあげてしまうクセは今も昔も変わっていないようです。
興味のあるモノにはとことんのめり込むのですが、興味が冷めた途端に全く価値を感じなくなる性格のようです。
私は興味を持つ迄の過程が楽しいのだと思います。
興味を持った時から、興味が薄まっていく。
服だけは例外で、今も興味が続いています。
理由を自分なりに掘り下げて考えてみました。
母親の影響がかなり大きいと思います。
母は定年まで縫製工場の縫い子としてミシンを踏み続けて来ました。
幼い頃から見てきたミシンを踏む母の後姿が今でも脳裏に焼き付いているからではないでしょうか。

“母=ミシンである”


専門学生時代の私は自由人そのもの。
怖いモノは何もなく、見るモノ、聴くモノ、会う人全てが新鮮に映っていました。
東京の街を歩き回るのが日課でした。
ある日、原宿にある”赤富士”と言う古着屋を教えて貰いリサーチ兼ねて訪ねて行きます。
今まで見て来た世界とは別の世界がそこには存在しています。
とにかくごちゃごちゃとモノが無造作に置いてある。
その一つ一つがまるで生きているかのように存在している。
アメリカ、フランスなど軍人が使用したモノで溢れている。
中には貴族が使っていた銀の食器やシルクの敷物などもありました。
郵便屋さん、新聞屋さん、お肉屋さんなどが使っていた作業着やエプロンに靴や帽など見たことも無い道具や服が揃っています。
私が気になったのは、赤と黒のグラデーションチェックの固いウール生地で出来たジョッパーズパンツであります。
乗馬で履くパンツなのは分かるのですが、とにかく生地が重厚に織られていて、服というより鎧のような威圧感を感じ衝動買いします。
そのパンツは社会人になってからも私の愛用パンツとなり、私のアイコンとなっていたくらいに履き倒したパンツです。
服飾専門学校には個性的な講師が多く、中でも西麻布の洋館に住んでいた講師には、”ファッションとは自己表現である”と、その洋館のリビングで教えて貰いました。
とにかく生活スタイルが抜群にカッコ良い講師でした。
私はパターン科と言う服の元となる型紙を作成する科目を専攻しました。
パターン科を専攻した理由は、有名デザイナーになる為には、先ずは服の基礎となるパターンを習得していないと難しいと分かったからです。
基礎をしっかり身につける事で、落書きのようなデザイン画を描いても評価を貰えるのだと理解したからです。

デザイナーを目指して専門学生となった私でしたが、遊びとバイトに明け暮れる日々を過ごした結果、出席率30%と最低な生徒でした。
卒業する為のレポートを数十枚も書いた末に、何とか卒業させて頂きました。
今となれば両親には大変申し訳ない事をしたと大変後悔しております。

在学中にインターンとして働いていたM社が服屋として最初のお勤めでした。
デザイナーのMさんはLondonに魅了され、アトリエには珍しいモノが足の踏み場もないくらいあちこちに置いてありました。
1階は直営店として2階のアトリエで作ったモノを1階のショップで販売する、今で言うSPAの先駆けでした。
私の仕事はショップ袋を作る事です。
コーヒー豆を入れる麻袋を縦横60㎝程のサイズにミシンで縫い合わす仕事です。
営業の方々も大変センスが良くオシャレな人たちでした。
1番印象に残っている出来事は、会社のクリスマスパーティーに出掛ける夜の事です。
いつもリーバイスとMA1ばかり着ている先輩が、履いていたリーバイスを別のリーバイスに履き替えた時です。
私は”Gパンが汚れていたのですか?”と疑問に思った事を聞いて見ました。
するとその先輩は意外な答えを返してきました。
“違うよ、福ちゃん!パーティーだからヴィンテージに履き替えたんだよ”
私はヴィンテージの意味がよく分からなかったのか、ポカンとしていたのでしょう。
その先輩はヴィンテージの意味を詳しく説明して下さいました。
リベットの種類やラベルのロゴが大文字か小文字かなど、見た目では分かりづらいマニアならすぐ分かるディテールの違いがある事を知ります。
その後、その先輩からはロレックスは何年物が良いとか、メガネはコレが良いとか、カフェではカプチーノを飲み、食事はこのお店でコレを食べるんだよ!などいろいろと教えて頂きました。
要するに、カッコ良さとはライフスタイル全体から醸し出す空気感なんだと!
大変勉強させて頂いた数ヶ月間でしたが、販売だけでは物足りなさを感じたのか、転職する事になります。

書き溜めていたデザイン画のスケッチブックを抱えて、クラスメイトだったK君の紹介で彼の勤める系列会社の面接に行きました。
面接は社長さんとチーフデザイナーのお二人でした。
いろんな質問の後、私のスケッチブックを見て頂き、”君、面白い絵を描くねー”とその場で採用が決まりました。
それからは地獄の日々です。
何しろ出席率30%の学生でしたので専門的な知識が備わっていません。
それでも即戦力として採用して頂いたので、必死でスカートのパターンを用意しました。
出来上がった製品は500本!
検品したところ、ウエストゴムの伸縮率を間違えてしまい、ウエストが入らない製品を大量に作ってしまった。
その責任を感じて、会社を辞める事になります。
その後は、クラスメイトだったMさんにマンションメーカーと呼ばれていたマンションの1室をアトリエ兼、事務所とした会社を紹介して貰います。
その会社はブラウスをメインに展開する会社でしたが、私が配属になった事業部はひと月前に立ち上がったばかりの社員3名だけの小さなカジュアル事業部でした。
部長さんはのちにO社を作る事になるKさんです。
その部下にはTさんと言うジャン・レノ似の、いつも赤パンツにアロハシャツを着ている大変個性的な先輩がいました。
誰とでも仲良くなれるのがTさんの得意技。
2人でいろんな場所へ営業をして回った経験が、私の人脈ネットワークのベースとなっています。
4人の小さな事業部は倍々で業績を伸ばしていき、本社より事業が拡大していきます。
社員も10名と増えたところでTさんはメンズブランドを作ると言って独立されます。
残された私は必死でTさんの代わりになるように動いていきます。
売上は伸びたのですが経費も嵩んでいた為、私は生産を海外にシフトチェンジします。
タイのバンコクからスタートし、チェンマイ、ベトナム、インドネシア、韓国の順で中国は1番最後の生産地となりました。
なぜ、中国が最後だったかと言うと、当時の中国は生産ミニマムロットがかなり大きく、私の事業部レベルではミニマムロットがクリア出来なかったからです。
それで、次に手掛けたのは販路開拓です。
大手チェーン店を新規で数社獲得しました。
これで、ようやく中国生産がスタート出来ました。
そこからは、飛ぶ鳥を落とす勢いで全国に販路を拡げていき、私の名前も少しは知って頂けるようになっていました。
私が30才になる頃、事業部長のKさんが独立の為に辞めて行きました。
代わりに私が事業部長として指揮を執る事になります。
不安で仕方ない気持ちを押し殺し、スタッフを引っ張って行きました。
しかし、3年後には先に辞めて独立されたKさんの会社”O社”で働く事となります。
当時のO社は社員3名の小さなマンションメーカーでした。私は必死で働きます。
“この人とこの会社を大きくしたい”との思いで、寝る間も惜しんで頑張りました。
社員も15名と増えた頃に自社ビルを作る計画を相談され、私がデザインから備品什器迄全て任され、会社のお金で私のデザインしたビルを作らせて頂きました。
その頃から、直営戦略に力を入れていきます。
横浜、名古屋、三ノ宮と主要都市に次々と出店。どのお店も良く売れていました。
その頃でしょうか、私は人の話を聞かなくなります。
接待と言う名の酒の遊びで夜な夜な飲み歩き、二日酔いのまま仕事につく日々が続きます。
我慢の限界に達したK社長は悩んだ末に私を解雇します。
当時、私は勘違いの真っ只中に居ましたので、K社長に捨て台詞を吐いて立ち去ります。
“私をクビにするとこの会社を潰しに来ますよ”
なんと愚かで恩知らずな男でしょう。

捨て台詞を吐いて辞めたものの、次の当ても無いままフラフラしていると、O社時代にお世話になっていた福岡R社のN社長に拾って貰いました。東京支店の配属です。
東京支店にはTさんと言う責任者が指揮を執っていて、その方と足並み揃えて頑張って欲しいと。
ぶんちんは(私のあだ名)モノ作りをメインに頼むと言われます。
Tさんとは長いお付き合いであったものの、いざ一緒に働いてみると私のプライドや見栄が2人の間に少しづつ溝を作っていきます。
そして、私は1年足らずでその会社を辞める事になります。
辞める事をN社長に伝えた時のN社長の顔は一生忘れません。
目に血管を浮き上がらせ鬼の形相で怒りをぶつけられました。
私はN社長にはかなり可愛がられておりましたので当然だと思います。
ここでも、私は義理を欠く事となります。
人の恩を仇で返す酷い男です。

その後は妻の後押しから自分で起業することを決意します。
10坪の古い小さなマンションから全くのゼロスタートです。
電話とFAXは自宅から持ち込み、カラーボックスの上に棚板を置いて机としました。
企画書はO社時代にお世話になった企画の方がフリーランスとなっていたので手伝って頂きました。
苦手な経理財務は知り合いから私と同じ歳の税理士を紹介して貰い、その方と二人三脚でスタートしました。
当時の仕入れは海外工場との直接取引きでは無く、仲卸業者さんからの間接仕入れが大半でした。
“髭のオヤジ”と呼ばれていた仲卸業者の社長さんが大変良く面倒を見てくれました。
そのご好意に報いる為に、私は必死で働きます。
すると創業して最初の決算では8ヶ月の実績でしたが1億8000万を超える売上を作る事が出来ました。
2年目以降は倍々で売上、利益共に伸びて行きます。
3年目のある夏の日、友人が取り持つ会席で数年ぶりにO社のK社長と酒を酌み交わす事が出来ました。
その時、K社長から言われた言葉は、今でもハッキリと覚えています。
“ぶんちん、俺は嬉しい。いつかこうして酒の飲める日が来ないかと待っていた。お前も立派な経営者となってくれて本当に嬉しい。ありがとう”
男泣きされながら話された事は生涯忘れません。
私は様々な失敗を繰り返し、様々な人たちに助けて頂き今があります。

K社長との会席から2年後、経理財務を見て頂いていた税理士と別れる事となります。
理由は売上が大きくなり過ぎて手に負えなくなったと言うのがたてまえですが、おそらくまた、私の傲慢さが鼻につくようになったからだと思います。
それからです。
タガが外れたように自分本位で会社を動かしていくようになったのは。


その頃の私は水を得た魚のように思うがままに会社の資金を次々と投資に充てていきます。
先ずは裏原宿ストリートブランドのデザイナーTさんを弊社に招き”Oブランド”と言うラグジュアリーブランドを立ち上げました。
東京ビックサイトで開催されたインターナショナルファッションフェアのクリエイター部門で1位となり、副賞としてパリで開催される展示会に招待されます。
そこで、アテンドして頂いた方が有名デザイナーJ氏の関係者でした。
自宅でディナーを共にしながらヨーロッパと日本のファッション感度の違いをまざまざと見せつけられます。

その頃、私の事務所は千駄ヶ谷駅近くの古いビルの2階にありました。
“Oブランド”の更なるブランディング強化の為、そのビルの最上階を借り切り、屋上庭園やバーカウンター付きのショールームを造作します。
同時に、現在のナップパーム事務所1階と地下を契約します。
原状回復を条件に大造作を始めます。
テーマは、
最上階のショールームは”パリのアトリエ”
ナップパーム地下は”カオス”
最上階ショールームが出来てからは業界関係者を招き、夜な夜なパーティー三昧の日々です。
そのおかげか、ナップパームのアイテムも有名セレクト店に並ぶようになります。
既存先は競うようにナップパームの展示会で大量に発注。
今のように、会社に持ち帰って後日メールするなどあり得ません。
その場で発注書を書かないと商品が届かない程、大盛況でありました。
“Oブランド”は業界屈指の百貨店や駅ビルからポップアップや直営の依頼が相次ぎます。
しかし、このブランドの収支は常に赤字でありました。
ナップパームが全ての経費を捻出していて、更に高純利益を作り出すとんでもない会社に成長していました。
全ての商社、銀行との取引きは二つ返事で口座開設して頂けました。
その2年後には韓国デザイナーとの協業で”BOLO”ブランドを立ち上げます。
やはり圧倒的世界観が必要だと思い、鳩森神社向かいにある古いマンションの1階と地下を借り、1階床部分をくりぬき螺旋階段で1階と地下を繋げる大造作による本物のパリを作り上げます。
レセプションには、300名の業界関係者に集まって頂き、しばらく話題になっていたようです。
直営店も名古屋、仙台、有楽町といずれも内装にはお金をかけて細部まで拘り、ヨーロッパのアンティークや什器、備品を揃え納得する内装に仕上げました。
まわりからは、”お金の無駄遣い”と言われていたようです。
当時の私の思いは、”本物のデザイナーを育てていくには、本物の空間の中で、本物と思える作品を作り上げて欲しい”
そんな願いを込めての全力投資でありました。
社員からは報酬で還元して欲しいとの苦情が出てきます。
そこで私が考えたのは、各ブランド毎の試算表を作り、経理部門は其々が分担する、”自立分散型経営”を目指す事になります。
しかし、ここでも問題が起きます。
それを不公平とする社員は辞めていき、残った社員も配当の高いブランドで働きたいなど不満が出るようになります。
飛ぶ鳥を落とす勢いだった”BOLO”も将来を考えてのサブデザイナーの補充や、生産インフラ整備など要求を強めて行った結果、ブランド廃止に至ります。
デザイナーさんや関係者の皆さまにはまたしても多大なご迷惑をおかけしてしまいました。
最上階のショールームも解約し、”BOLO”ショールームは原状のまま大家さんに引継ぎしました。
直営店も全て閉店。
残るは今のナップパーム1階、地下のショールームのみが最後の砦として残っているものの、支援して頂いている工場オーナー様からは引越しして更に会社を縮小する事を言われ続けておりました。

以前からオフィスシェアの相談をしていた心友の会社とのシェアが始まったのが昨年秋からです。 
地下ショールームはスペースリースの副収入が定期的に入るようになると、オーナー様にもご理解頂けるようになりました。
現在、この場所は新たなコミュニティの創生の場としての活用も出来始めています。
ここから生まれてくるモノにも期待を寄せております。
現在シェアしている会社のデザイナーさんとは”O社”時代に同じ釜の飯を食べ、苦楽を共にした仲間ですので、世に一石を投じたいとの思いは強く持っております。
外注企画のデザイナーさんにはお休みにも作業をして頂くなど大変感謝しております。

“俺のアメカジ”は通常のアメカジではありません。
私が経験してきた人生の縮図が”俺のアメカジ”となっていきます。
私の人生は波瀾万丈であります。
そして、いろんな方々に助けて頂いて今があります。
その方々の思いもしっかり詰め込み、これまでの私の歴史や作り手の思いを感じさせる、

どこか懐かしくも優しい気持ちになれる服。

人に寄り添い長く着て頂ける服。

そんな服作りを目指して行きたいと思っています。

これを読み終わった後、人を不愉快にさせるかもしれない。
でも、私は恥を晒す事で、私の愚かさを伝える事で、”俺のアメカジ”のスタートとしたいと思いました。

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