見出し画像

地主のNさん

がんも農場としてお米づくりを始めて13年経つ。
もともと農家ではないし、佐久には地縁も何もなかったので、
耕作している田んぼは全てお借りしている。
これまで、何十人という方から田んぼをお借りしてきた。

お借りすることもあれば、お返しすることもあったりで、
増減しつつも、今でも40人弱の方から田んぼをお借りしている。

地主さんとのお付き合いは、それぞれなのだけど、年に1回は年貢をお渡しするという形でお会いすることがある。(これも昨今は、農地中間管理機構というところが間に入っているので、現金の場合は口座引落としになり、顔を合わすことなく一年を終えることもある)

先日、ある田んぼの地主さんNさんが亡くなられた。
96歳のご長寿。

僕が初めてNさんの田んぼをお借りしたのは、記録を見返すと2013年、10年前のこと。8aほどの小さな田んぼだった。(その時の全体の耕作面積はわずか58a。R5現在780a。)

分田(わけた)と言って、一枚の田んぼを仕切って分けてある田んぼだった。その田んぼは30aの田んぼを20aと10aに分けてある。分けた仕切りの分だけ面積が目減してしまい、8aと言うことである。

20aの方は別の地主さんの持ち物で、僕にお米作りを教えてくれた里親さんが耕作をしていた。Nさんは、隣でやっている里親さんに作ってほしいとお願いしたのだけど、里親さんのご好意で僕にやるように譲ってくれたのだ。

それからNさんとのご縁が始まった。

Nさんは当時86歳。
トレードマークはカブだった。毎日カブに乗って田んぼの水を見にきたり、畑の仕事をしている。マメな人だった。
と言うのも、Nさんはもう1枚田んぼを耕作していた。僕がお借りした田んぼのすぐ隣に25aほどの田んぼ。そして小さな畑も隣接しており、管理していた。

水が少なくなっていると、もう少し入れろとか、苗がイマイチだとか、会うたびに小言も含めて色々話しかけてくれていた。実際、あの当時の僕は、お米作りのことも、田んぼにおける周りとの関係もわかっておらず、見ていられなかったのだと思う笑

その小さな田んぼを作るうちに、少しずつNさんとも会話を重ねて仲良くなった。ある年、雨が少なく、田んぼに水が入らないとき、自分のエンジンポンプを貸してくれた。のちのち、そのポンプは僕に譲ってくれることとなった。

2年前に、Nさんが耕作していた大きい方の田んぼも僕がお借りして作ることになった。気づけばNさんも94歳。カブは危ないからもう乗っておらず、もっぱら自転車で田んぼとの行き来をしていた。田んぼの契約の時にお家に行った時に、ゴーヤの砂糖漬けを振る舞ってくれた。見た目は不気味だったが、口に含むとなんか妙に美味しかった。
孫たちに送ってあげたいから、と、Nさんの田んぼで僕が作ったお米をたくさん購入してくれた。

田んぼへの思いが人一倍強く、お米作りに一生懸命だったNさん。
いつからお米作りを初めて、どんな思いでこれまで田んぼを管理してきたのか、もっと時間をかけて一度聞いてみたかった。

運の悪いことに、たまたま葬儀の直前に旅行に出てしまっていて、参列ができず、後日線香を上げに伺った。

その時に、葬儀委員長の方がNさんに贈った文章が祭壇に置いてあった。
そこには、Nさんが戦争に行って、無事に帰ってきて、それから田畑を耕作してきたという人生のほんの一片が紹介されていた。

田んぼは、自然にそこにあるものではなく、誰かの手によって耕作されて、また次の誰かに引き継がれて、その繰り返しで今ここにある。
その歴史の一端を僕が担い、また次の世代に渡せたらと思う。

Nさんありがとうございました。

がん!がん!がん!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?