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NNAMDÏ -『BRAT』に隠された -世界そのものの表象性- あるいはソランジュ論争

アルバム評価...9.5/10。

所与、与えられ、それらを穿ち、抵抗への誘惑を再-現前したような音楽などあるのか...とある者は言うかもしれない。ふと、またある者が言う。「Solange こそがそれに当たる。彼女こそが遊撃手的な音楽制作者=表現者であった、そしてこれからもそうあり続けるだろう、つねにすでに」と。よろしい。確かに、Solange は創造的である。その上、彼女はアルバム一つを作品と捉える。そしてそのイマージュを存分に、蝟集しきった生産的な集合体として我々に提起する。

しかしこのような形で音楽は語られるべきであろうか...ならばアルバム-指向的な70年代のロックバンドの連中がみな遊撃手的であったのかと...不満が募る...このまま、来ない春を待ち続ける蕗の薹のよう...沈黙を破る風穴は顔を出しはしないのか...議論が終焉を迎えるかにみえた刹那...一つの提起が今まさに大衆意見を柔らかな眼差しで睨み付けるかのように...「彼女の作品は曲の上位観念としてのアルバムに収斂されうるものに過ぎない。これは単純な否定的文脈ではなく、アルバム-指向的なものに弄ばれ続けることが真の自由なのであろうか、という問いかけなのである。"真の自由はそれ自身を超越する上位概念を持ち得ない"」と訴える。

ところで、 NNAMDÏ こと Nnamdi Ogbonnaya は真に自由である。それが美学的優越という観点ではなく、単純に自由なのである。エクスペリメンタル・ヒップホップを原点とする彼は周囲、つまりは「対面する世界」そのものを音に変えてしまう。それはちょうど伝言ゲームの如く、形を一切崩さず、いや崩しまいと、「我々が触れ続ける世界」を、否応なく再-提示しようとする。つまり、彼の音楽は「世界そのものの表象」なのである。その音に一切の角や直線的なものは存在しない。常に不定形であり続け、それはまるでこの世界が偶然性に包囲されたものであることを提示するかのよう...。ここで詭弁者は言う。「そんなものは詭弁に過ぎない」と。では一つの確かな証拠と共に、その逆説を逆用してみようではないか。

このソランジュのように高度に統合されたかのように思わせる、実は真に偶然的な作品『BPAT』の最後の曲『Salut』がその一例となる。リヴァーブの効いていない一音から始まり、まるでおろしたての革靴で乾いた地面を丁寧にたたくように歩いているかのような音を基調として一曲は続く。ここまでは環境音を取り入れたごく一般的な曲に過ぎないとみなは思うだろう。しかし転換点はその後すぐ...ちょうど30秒の頃...通常なら特徴的なハイハットあたりが入ってくるであろうところで、ある物=者がその代替を買って出るのだ。鳥である。正確には鳥の囀りだ。彼は「鳥の囀りをハイハットにしてしまう」のだ。まるで穏やかな日曜日のような音と共に、「世界そのものを表象してしまう」のだ。ここに、"ソランジュ論争"は終焉を迎える。彼こそが真に自由であり、彼の音楽性をソランジュになぞるのは見当違いなのである。

無理な解説をするつもりは毛頭ない。一曲目のタイトル『悪魔に花束を』を小洒落たものだと褒めるつもりもなければ、『はやく、それを』とでも意訳すべき次曲への入れ替わりがあまりに自然であることを嘆賞したいわけでもないかと思えば、また『Bullseye』での裏声とまさに動物的なワンダフルワールドを想起させる音たちへの感動を語りたくなるころに、『愛したものたち』について語るのも『無駄な』のかもしれないという諦念の最中、最も美的な一曲-その曲名がノースカロライナのデスコアバンドであることは置いておく-の隠れたゴスペル的要素を解体し、徹底的にその美的要素引き出したいと思わせられるほどに...などなどと...(このままでは私自身が逆説的に褒め称えることを所与として存在する者であるかのようだ)...とにかく素晴らしく、決定的に偶然性を備えた、真に自由なアルバムなのである。と、そろそろ、『It's OK』とでも言うべき時間である。さよなら...さよなら...さよなら。