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Milk inside a bag of milk inside a bag of milk and Milk outside a bag of milk outside a bag of milkから考えるイマジナリーフレンドの在り方

はい。こんにちは。ちゃんこです。
ゲーム実況チャンネル、ゲーミングちゃんこにて実況しました「Milk inside a bag of milk inside a bag of milk」、「Milk outside a bag of milk outside a bag of milk」というゲームに関しての感想をつらつらかいていきます。

まず、「Milk inside a bag of milk inside a bag of milk」、「Milk outside a bag of milk outside a bag of milk」というゲームは

もう一度認知の狂った世界に入って少女を少しでも幸せにしてあげよう。日常のちょっとしたことに、どのような挑戦ができるかを描いたショートストーリーです。
ゲームは小規模なビジュアルノベルで、巧妙な言葉遊びか、痛々しい心理的エピソードが描かれています。ストーリーが実際の出来事に基づいているという主張は具体的になりすぎるので、抽象化と巧妙な言葉遊びの集合体であるかのように装う方が楽なのです。
まず、これは言葉や形を使った芸術的な表現があり、その上で初めてゲームとして成り立つのです。

My Nintendo Store(マイニンテンドーストア)より引用(https://store-jp.nintendo.com/list/software/70010000057850.html

まず、この記事を読む方に伺いたいのですが、皆様にはイマジナリーフレンドはいますでしょうか?
イマジナリーフレンドの定義ってなんでしょうか。
一応Wikipediaではこうなっています。

イマジナリーフレンド(英: imaginary friend)とは、心理学、精神医学における現象名の1つである。 学術的にはイマジナリーコンパニオン(IC)という名称が用いられる。 「想像上の仲間」や「空想の遊び友達」などと訳されることは多いが定訳はない。 インターネット上ではIFと略されることもある。

Wikipediaより引用(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%9E%E3%82%B8%E3%83%8A%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%95%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%83%89

本作品はプレイヤーが主人公のイマジナリーフレンドとなり、彼女と対話する作品です。

私にとってイマジナリーフレンドというのは親和性が高い話題です。
本日は私とイマジナリーフレンドとの関係、そこから本作品を通してどう感じたか、という観点について話します。
自分語りが多いですが、ご了承ください。

小学一年生の頃母親が歯医者で診療を受けている時、診察室で待っていたのですが、暇だったので私は1人で遊んでいました。
その遊んでいる様子を見た歯科助手さんは
「ちゃんこちゃんは、まるで誰かと話すみたいに遊んでるねー」
と言われたらしいです。
当時私にはイマジナリーフレンドがいた記憶があります。その友達は妖精のような、小人のような感じでトイレでしか会えなかった思い出です。
学校では決して会ってはいけない、なんて思ってた記憶もあります。
そんなふうに過ごしているうちに、いつしか現れなくなったというか、それは恥ずかしい行為になったというか、いなくなりましたが、たまに現れて慰めたりしてくれたような気がします…。流石にそこの記憶はありません。
私にとって初めてのイマジナリーフレンドの思い出です。

さて、それから月日がたち、中高生になった私はちゃんこ、というあだ名をつけられます。
別に虐められていたとかではなく、色々あってそういうあだ名がついたのですが、それはまた別のお話です。
そこからちゃんこが形成された気はします。
そんな私でしたが、中高生の頃は2年に1回くらい友だちがコロコロ変わるなんていう何とも生きにくい学生生活を送っていました。
この生きづらさはどこから来ているのか、不思議でしたが、高校生の時にペルソナ4という作品に出会い、全ての感情は自分から来ているのだ、ということを知りました。
今思えばこれはコレで良かったけど、同時にちゃんこが否定されていたのかもしれないとも思います。

そして、生きづらさを抱えたまま、成人し、こちらの配信に出会いました。

これを見た時に、あ。私だ。とスーッと入っていったきがしました。
私はお人形を器にはしないけど、心の中に確かにちゃんこは存在しているな、と思いました。
ちゃんこという存在が認められ、記憶を共有するイマジナリーフレンドというか、相棒が出来ました。
配信者としてのちゃんこはここで確立した感じですね。この配信に出会わなかったら生きづらさをかかえたままでした。

私にとってイマジナリーフレンドというのは、友達であり、もう1人の自分であり、大切な存在です。
「ちゃんこ」がいなければ、自分を客観視できないし、自己理解に繋がらなかったと思います。
ちゃんこと本人はほとんど会話しませんが、記憶を共有してるので、必要無いんですよね。
しかし、このゲームではそんなイマジナリーフレンドの多様性を肌で感じるきっかけになりました。

このゲームをプレイし、主人公の悩みや生きづらさを感じ、上に書いたような事を思い出しました。
一作品目をプレイした時、「こうじゃないか」と感じた事を二作品目で答え合わせをすることで、この作品は完成するのだと思います。
一作品ではこの子の目では世界がどう見えているのかという紹介をし、プレイヤーはどんな存在なのか、というはなしでした。
そして、二作品目の冒頭で前作では何をしていたのか、どういう特性を持った少女なのか、という答え合わせをすることで、この世界観をより楽しめるのだと思います。
この主人公のイマジナリーフレンドは記憶の共有がされておらず、自立しているという印象でした。だからこそ二作品目で「会うのは一日に1回でしょ」という選択肢があったのだと思います。
このイマジナリーフレンドの在り方というのは私の稚拙な言葉では全てを語りきれません。
発達心理学を勉強した方、同じ特性を持っている方は是非プレイして頂きたい作品です。

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最後まで読んでいただきありがとうございました。
ちゃんこに関する細かいリンクはこちらです。
是非遊びに来てください!

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