ゲームメディアはレビューに「クソゲー」という言葉を使ってはいけないのか。

最初に

近年、クソゲーとか、いろいろな言葉の使いどころに悩むことが多くなった。
「クソゲー」という言葉は普及していて、ゲーム好きのコミュニケーションでは多く出る言葉と言える。
TV番組にも使われるし、自らクソゲーと自認するゲームを出す会社もあれば、任天堂でも自社のコミュニティソフト『Miitomo』の宣伝で「クソゲーといえば?」と使われている。

しかし、使ったときに肯定・否定いろいろな反応が返ってくる言葉でもある。肯定は今回省略するとして、否定の言葉としては……。

・負のレッテルをゲームに張り付けるのか?
・クソゲーという言葉を使われた製作者の気持ちを考えたことがあるのか?
・「Not for me(私向けではない)」と言うべき
・個人はともかく、メディアがクソゲーを使ってはいけない。
・見出しにクソゲーという言葉を使うのはPV至上主義の弊害である
・クソゲーという言葉はあいまいだから使うべきではない。
・そもそもクソゲーをレビューするべきではない
・バカにするためにゲームをするのは良くない

などなど。
このような反応がある「クソゲー」を、1人のライターとして、ゲームキャストというメディアの場ではどのように定義して使っていくべきなのか。
これは数年考えていたことだったので、先日に人を集めてクソゲーについて考えた。そして、その結果としてライターの自分、メディアとしてゲームキャストでクソゲーをどう扱っていくか、などの考えをここに記しておく。

人を集めたのは、記事は読者に向けて発信されるので、多くの意見を参考にして世間的な受け止められ方を考えた方がいいという意図だ。

しかし、この集まりについては「クソゲー」と書いた記事が話題に上っていたカムライターオさんが、不快感を表明されている。
話題に上っていてホットだから人を集めやすい、という意図だったのだがこれについては配慮が足りず申し訳なく思っている。すでに個人間で話をしたが、改めて私の配慮不足であったことをお詫びする。

それでは、ここからはまず自分の考える原則から書いておく。

メディアがクソゲーを使ってもいい

レビューはライターが書き、メディアの編集がメディアの特性を元に認めて記事を掲載する。
メディアがクソゲーという言葉を認め、その責任をもって出すのであれば、それは認められるべき。

レビューを載せたメディア側は「クソゲー」と書いた文の責任を負う。
その記事を読んだとき、多くの読者が納得できなければメディアの信頼度が失われるだろう。
メディアは「クソゲー」という言葉を使っていいかどうかの原則としてはこれで終わる。

TVでも新聞でも「クソゲー」という言葉が出ることがある時代に、個人だから使っていいとか、メディアだから使っていけないとかはない。
たとえば、ゲームのカルチャーを追うようなメディアであれば、普通に出てくる単語だろう。

その上でクソゲーという言葉の好き嫌いは読者が判断することだ。

この最後の1行の意味が伝わっていなかったので補足する。
多くの読者が「クソゲーという言葉を使うメディアなんて嫌だ」と思うのなら、そのままそのメディアは衰退する。「クソゲーか、なるほどな!」と思うならメディアはそのままだろう。
負の部分も含めて覚悟を決めたうえで、メディアはそれを使う自由があるということだと思っている。

ライターがゲームをクソゲーと断じていいのか

レビューというのは主観で書かれるものであり、主観で「クソゲー」と思ったのであれば、何者もそれを妨害できない。
どれだけ遊んで、どこの誰が、どうしてクソゲーと思ったのか。筆者の考えるクソゲーとは何なのか。
それが書いてあれば何も問題はない。

遊んでないのに「クソゲー・あやしいゲーム」とか決めつけていたら問題だし、「他人がクソゲーと言っているのでクソゲー」というのは論外。
これは良作、名作でも当てはまる原則だと思う。
書いてあることに納得がいけば受け入れられるだろうし、そこに説得力がなければ批判されるだろう。
(この記事は書き手としての考えであり、読者はゲームを「クソゲー」と言うがごとく、記事に関して好き勝手感想を書いていいのだ)

仮に、あるゲームにクソゲーのレッテルが貼られて、それに納得いかない場合、ライターがやるべきことは「そのゲームはクソゲーではない」という理由を挙げてカウンターとなる記事を書くことだと思う。

これは言うのは簡単だけど、結構大変。というのも、多数派と異なることを書くと嫌われ、損が多いからだ。
印象深いのは、2019年に『レフトアライブ』がクソゲーとして話題になっていたときのこと。「おすすめできないが、私は面白かった」という感想を書いた方の記事がやり玉に挙げられて炎上し、心無いコメントが殺到していた。
自分自身も「世間とは違うな」と思うときには積極的に意見を述べたり、記事に書くようにしているけども、やはり「いつも逆張りしてやがる」などと陰口をたたかれたりするし、あまり気持ちの良いことはない。

ゲームキャストはどこでクソゲーを使うのか

各メディアには、目指すべきもの、実現したいものがある。
たとえば、(紆余曲折あったが現在の)ゲームキャストであれば「自分の好きなゲームを、そのゲームが好きそうな人に届けて売りたい」、「日常的にゲームの話題を出して、一緒に楽しみたい」、「安心してゲームを遊びたい」などを考えている。

それに沿っていれば、ためらいなく「クソゲー」という言葉を使うだろう。

その他もろもろの反応に関して雑多に書いていく

・負のレッテルをゲームに張り付けるのか?
・クソゲーという言葉を使われた製作者の気持ちを考えたことがあるのか?
・「Not for me(私向けではない)」と言うべき
・個人はともかく、メディアがクソゲーを使ってはいけない。
・見出しにクソゲーという言葉を使うのはPV至上主義の弊害である
・クソゲーという言葉はあいまいだから使うべきではない。
・そもそもクソゲーをレビューするべきではない
・バカにするためにゲームをするのは良くない

上記について、この後は雑多に自分の流儀(多くの人に通じる原則とは考えていない)考えを書いておく。

積極的にクソゲーというレッテルを張りに行くことは不毛

「負のレッテルをゲームに張り付けるのか?」という問いに関しては半分は同意できるところもある。
誰も知らない作品を持ってきて「これは質が悪いんですよ」なんて言いふらしても、作者も読者も誰も得をしない。
無名のしょうもない(と自分が判断した)ゲームは、触れないのが一番だと考えている。

ただし、メディアにはバイヤーズガイドという役割もある。
スクウェア・エニックスの作品のように多くの人が購入を検討する、注目する作品に関してはメディアが評価を下して「この情報を参考にしてね」とか書くのは読者の参考になる。
特定ライターが目立つゲームをどのように評価するか、というところからライターの好みが明らかになり、それが積み重なることで読者の購買の指針にもなるので、有名作品は積極的に評価していっていいと思う。

同様にインディーゲームでも大注目の作品なら、質が悪くてもそれについて読者が買う前バイヤーズガイドとして「注目されているが、質が悪い。こういうもの」と書くことはありうるし、十分意味があると考える。
こういうとき、単純に「これは低品質なんです」と書き続けると本当に救われないので、茶化して書くのもありだろう。

作者が嫌な気持ちになったらどうするのか

作者の意図と関係なく、その作品の点数を決めてみたり、「名作だ・微妙だ・歴史的にこうだ」などと決めつける失礼行為がレビューだ。

「作者が悲しんだらどうする」
「作者がこんなこと言っているぞ」

たまに、こういったことを言われる。私だって面白いもの、良いものと書いて作者にも読者にも喜んでもらえれば嬉しい。
しかし、作者(読者)が悲しむから低評価しない、作者の意図と筆者が作品から読み取ったことが違うから改定するのでは、他人の代弁か、単なる公告になってしまう。
それはレビューでも感想でもない。

すべての表現はどこかで人を傷つける可能性がある。
直球でマイナス点を挙げて「ロード時間が長い」と言えばエンジニアが悲しむかもしれない。
全体を褒めていたとしても「全体としては面白いが、グラフィックが微妙」と言えば、アート担当は悲しむだろう。

それどころか「美麗グラフィック」とおすすめしたゲームに関して、作者から「あんな妥協の産物を褒めるな、クソライター」とものすごく怒られたことすらある。
もちろん、私は当時のスマホゲームの中では高品質グラフィックだと思っていたのでその記事を改めることはしなかった。それが自分の主観を外部に表現するということだからだ。

作者はレビューという表現に対して怒れる。しかし、レビュアーは怒られたからと言って妥当な理由なく意見を変えてはいけない。

歴史的な事実や、根拠となる背景などが間違っているようなものは、この範囲ではない。
たとえば「スマホで曜日ダンジョンを一般化したのは2018年に登場した××」というような表記があったら、当然「それは2012年にリリースされたパズドラが一般化したもの」と訂正されるべきだ。

もちろん、記事は人を傷つけるために書くものではない。
わかりやすさ、誤解を生まないこと、誰に伝えるのかなど、もろもろ天秤にかけて自分なりに言葉は選ぶ。

「Not for me(私向けではない)」より「me」について書けと考える

「Not for me(私向けではない)」と言うべきか。これの回答はシンプル。
レビューは主観であり、面白いなら「For me(私向けだった)」、つまらないなら「Not for me(私向けではない)」という前提がある。
あえて、「私にとってこう」と書く理由はない。

ただ、「私(me)」は重要で、これを明確にすべきとは思っている。
ほぼすべてのゲームには想定ターゲットがあって、それをはずれたプレイヤーが遊んでもまったく面白くないことがある。
だから、そもそも評価を行う「私」がどのような人間かわかるのが重要だと考える。

たとえば、〇〇シリーズのキャラが総出演するファン向けゲームを「シリーズ未体験の私が遊んで書いた感想」と「シリーズ全部遊んでいる私が状態で書いた感想」どちらにも意味があるが、それぞれの前提は書いてあった方がいい。
さらに言えば、たくさんの記事を書いていれば「これまでこんなゲームを遊んできてこんな感想を持った人が、シリーズ未体験で遊んでみた」という感じに情報が蓄積されていて信頼度が増すのでより良い。

ところで、好きな感じのライターの記事を探そうとしてもいろいろなメディアに分散していて探しづらかったり、メディアによってはあまり一覧で見られないことがある。
特定ライターが書いた記事(特にレビュー)は一覧でどこかにまとまっていてくれないものか。
ライターごとのレビューを集積したポータルがあってもいいのかもしれない。

もちろん、私だって人と会話するときは「あのゲームは俺にはあわなかったな」などと言ったりする。
それはレビューではなく、友人とコミュニケーションするときのポイントだ。

個人だろうがメディアだろうがクソゲーを使っていい

個人だろうが、メディアだろうが、企業だろうが、クソゲーという言葉を使ってはいけない道理はない。
フォロワー数が多い人は〇〇という言葉を使ってはいけない、というぐらい意味が分からない指摘だと思う。個人だろうがそうでなかろうが、使ってはいけない言葉は同じだろう。

もちろん、場所のカラーはある。
ファミ通のようなメーカー公式情報やカタログ的情報を扱う場所でクソゲーを連呼されたら驚くかもしれない。逆に、カルチャー誌では使われても違和感はないだろう。

クソゲーという曖昧な表現は使うべきではないのか?

ゲームの価値観が多様化した現代において、クソゲーという表現は示すところがあいまいではない、という指摘がある。
だが、ゲームの記事やタイトル、レッテル張りを見ればあいまいな表現は多い。

クソゲーがダメなら、低品質ならいいのか。
「低評価が多い」なら客観的だからOKなのか。
ファミ通16点とか、ign6点、電撃D評価ならいいのか。
ゲーム性、神ゲーや良ゲー、名作は曖昧だがいいのか。

クソゲーでも、神ゲーでも、ファミ通シルバー殿堂でも解釈の余地はある。「曖昧だから使うな」というような指摘は、本質をついていない。
タイトルで使用した曖昧な言葉を定義づけ、納得させる本文があることが重要と私は考える。

スコアに関しては、例えば「スコアは良くない」ということで評価方法を変更するゲームメディアなどもある。
だから、「クソゲーという言葉も、点数も、曖昧な言葉はすべて使うべきではない」というならそれはそれで筋が通っているので主張としてはアリだとは思う(私は同意しない)。

Eurogamerがスコアから4段階制に変更したのは、ゲームの楽しみ方が多様化した現在において、点数評価はプレイヤーが(点数が低いことで)内容に触れずにゲームを忌避して、新しいゲームと出会う機会を奪っているのではないか、という考えで変更された。
ゲームキャストが点数を維持するのは、「点数が高いことで普段は買わない人も買ってくれて、とくに有料ゲームならApp Storeの上位まで持っていってゲームに貢献できるから」。
6~7点とかのゲームはタイトルで引きを作って、できるだけ点数と関係なく「気になる」と見てもらおうと考えてている。5点以下は「世間で有名だから」みたいなことが多い。
点数が必要かどうか、それは意見が割れてもゲームに貢献したい、読者の役に立ちたいという意見から採用・不採用を考えているのはゲームメディア共通だと思う。

しかし「曖昧だから」ではなく、理由があって気を付けた方が良いと考えていることもあるので、これは次項で書く。

記事タイトルでの使用は注意が必要

インターネットの経済はPV中心に回っていた……いや、今も回っている。見られれば広告が表示される。広告が沢山表示されれば儲かる。
だから、そういったことを重視するサイトは中身のない記事に対して意味深なタイトルで釣って人を集めようとする。
「有名な××が許されない深刻な理由があった。実は……」
みたいなタイトルだ。

さらに、「他人がいっている」という立て付けで自身の責任や自身の立ち位置を明らかにせず書くこと、「【悲報】××がクソゲーと言われる」と記事を出したあとで「【朗報】××やっぱりクソゲーではなかった」などと、対立をあおったり……PV至上主義の問題がそこにある。

と、ここまでは前置きで、ここからが記事タイトル付けの問題。
Twitterのような情報共有が簡単なSNSが普及してから、正しくない情報が広まってしまうという問題が上乗せされた。

たとえば、前述の「有名な××が許されない深刻な理由があった。実は……」と書いたとき、記事内容は「幸せすぎて許せない」というネタだったとしても、記事タイトルだけ見て感想を言う人が出てくる。
さらに、記事の本文を見ないでもリツイートを行う人が存在するから、そういった誤った感想に同意する人がリツイートすることで××の印象だけが悪くなっていく。
ゲームにも同じようなことが起きることを心配する、というのは理解できる。そして、そうならないように配慮するか、記事内容と齟齬を生まないタイトルを心がける必要はあるだろう。

それでも伝わるからクソゲーを使うのだ問題

自分は記事を通じて、何かしらゲームにいい影響を与えたり、読者の役に立ちたい。そのために必要なら、クソゲーというキャッチーな単語を使うだろう。

重ねて言うが、私は「タイトルと齟齬がなく、記事内容で納得できれば良い」と思っている。
「人と出会えない限界集落MMORPG」というタイトルで記事を書いたことがある。人と出会えないMMORPGなんて、クソゲー以上にひどい悪口というか、おおよそプレイ不能を指摘しているのだが、内容が受け入れられてその後にApp Storeでゲーム順位が上昇した。

たぶん、人と出会えない・限界集落MMORPGというようなキャッチーなタイトルの引きがなければ読まれる回数は減っていただろう。
でも、伝えたいことを見てもらうにはこれが必要だと思ったし、気合でつけてしまった。

同じように、クソゲーという言葉はキャッチーだし、使うときは使うと思う。無理にタイトルで言い換えようとはしないだろう。
慣れていると疑問に思わないかもしれないが、「●●を言い換えよう」などと意図的に作られた造語は本当に伝わりづらい。

たとえば最近、直系のローグ系とローグ要素のあるゲームは混乱を招くから曖昧さを排除するために前者を”ローグライク”、後者を”ローグライト”と言いわけろ、という指摘がある。
実際これを使用するとどうなるか。

まず、”ローグライト”といっても伝わらない人が多く、「なんだそれ?」と毎回言われる。というか、ローグライクすら”不思議のダンジョン系”と言わないと伝わらない人もいる。
ローグ要素のあるゲームを好きな人は潜在的に多いのに、わざわざマイナーな”ローグライト”という表現を使うと情報が人に伝わらなくなり、ゲームの機会損失を招くので良くないと私は思っている。

”ローグライト”という言葉を使うとき、メディアはPVを減らし、同時に本来そのゲームを好むかもしれないプレイヤーまで減らしているのだ。

ゲームキャストはややマニア向けサイトなのであえて使っているけど、本心を言えば全部”ローグライク・ローグ要素のあるゲーム”に統一したい。だって、その方が多くの人に伝わるだろうから。

そんなわけで「クソゲー」もまた、ゲーム記事の内容によって読者かゲームに良い影響があるなら伝えるために使っていくべきだと思っている。

ゲームに突っ込むために遊ぶのはゲームに失礼ではないか

これに関しては失礼であり、失礼でなし、という気持ちがある。
まず、「ゲームにツッコミを入れることで楽しむことは失礼ではない」という気持ちがある。
ゲームの遊び方はどんどん多様化している。そこに「ゲームに突っ込む」という楽しみ方も存在していると思う。

実際、ゲーム開発側でも「突っ込まれるためのゲーム」「自称クソゲー」が確立している。皆さんも『Goat Simulator』というヤギになる箱庭ゲームの名前を聞いたことがあるかもしれない。
『Goat Simulator』は、開発者自らが「こんなゲームを買うなら、フラフープとかを買った方が良い」とい放つ自称「クソゲー」だが、実際はその雑さやバグを楽しむことを1つ目的に作られている。
突っ込みどころを探しながら遊ぶのは、ゲームとして1つのジャンルになっているし、近年では普及してきているのではなかろうか。

一方で、特定のゲームを何か先入観を持ってプレイすることは良くないとも考えている。
本来、ゲームというのはジャンルはない。アクションゲームで物語を楽しんでもいい。テキストゲームで音楽メインに楽しんでいい。
「何を楽しむのか」というところに関して、先入観を持たない方が良いと思っている。

「クソゲー/名作だから、クソゲー/名作だと思って」先入観を持って遊ぶと、たくさんあるはずのゲームプレイの幅を自ら狭めてしまうことになる。先入観なく(というのも実際は難しいけど)ゲームを遊んだ結果として、「突っ込みながら遊んだほうが楽しい」となったのであれば、その遊び方はゲームに対して失礼ではないと考えている。

「愛と希望の感動の超大作」に感動せず、ツッコミを入れまくって遊ぶのも1つの遊び方だろう。
ゲームは、必ずしも開発者の意図通りにプレイされるとは限らない。遊び方も、評価のポイントもプレイヤーが決めればいい。

そして、そのなかで「クソゲーだと」断じるに相応しいと感じれば、自らの責任でクソゲーというべきだ。

以下、ちょっと考えを整理するときに使い、本文で使わなかった、まとまらなかった内容メモをおまけで。
クソゲーの意味、クソゲーの歴史、その他形にならなかった、というメモ。

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