昭和史1 1972年
いま、わたしが立っているところから30年ほど先に行くと、Google Street Viewというサービスが出来る。
もともとはデンマークのWhere 2 Technologiesという会社が開発したソフトウエアで、たしか2004年にGoogleが会社ごと購入して自社のサービスとして公開したのだったとおもうが、当時のGoogleは、まだまだ「勘のいい」会社だったことがわかる。
Google Street Viewは、どういうソフトウエアかというと車道の真ん中を歩くという危ないことをする人の視点で、通りを眺めることが出来て、行ってもいいかな、と思うレストランがどんなところにあるか「あたりをつける」ために使ったりする。
どうやってデータを集めているかは、屋根の上にカメラをくっつけたクルマが年がら年中町中を走り回っているので、見かけたことがある人もいるだろう。
どのくらいの頻度で更新されているのか知りたいので、見かけるたびに、クルマの前に飛び出して手をふることにしているが、いままで画像が採用されているのを見たことがないので、慎重に選択して載せているのかもしれなくて、変な人があらわれた場合には、画像として省くことにしているのではなかろうか
なかには、涙を誘うような事例もあって、わたしの友人は、実家の近くを仮想的に散歩しようと考えてGoogle Street Viewを開いたら、そこには、一年前に死んだ父親が映っていた。
こちらを見て、穏やかな表情で微笑んでいた。
そういうことは、ともかく。
いまは、わたしが立っているのは、1972年の広尾駅前で、もちろんグーグルは、まだ会社として存在していない。
それどころかインターネットも姿をあらわしてはいなくて、ここから2年先の1974年TCP(Transmission Control Protocol)をつくったVinton Cerf とBob Kahnが活字になった初めてのInternetという言葉を使う。
インターネットは、世界をおおきく変えた。
最も恩恵を受けたのは英語社会で、ざっと挙げて、連合王国、カナダ、アイルランド、オーストラリア、ニュージーランド、そしてもちろんUSAというような国々は、お互いが日々、なにを考えて、どんなふうにものごとを進めているかがリアルタイムで判って、90年代の終わり頃になると、別の国であるような気がしなくなった。
わたしの息子は、1983年に生まれるが、このもとはちいさな人が、生意気でおとなぶった、いつも膝がつきでたズボンをはいて、難しげな顔の高校生になるころまでは、「おもてづら」はともかく、イギリス人やニュージーランド人のアメリカ人に対する偏見はたいへんなものだった。
他国人が考えるような冗談ですむようなものではなくて、例えばアメリカから移住してきた小学校の教師は、子供たちがいっせいに浴びせかける米式の「R」の発音に立ち往生して、授業がつづけられなくなって、泣き出したりしていた。
教師同士でも同じことで、上辺の愛想からは想像もつかない陰口に気が付き出すと、針のむしろ、という、そのままの教員の椅子がかわっていく。
日本語でいえば「いじめ」かな?
おとながおとなに対して集団加虐に及ぶことを「いじめ」では、なんだかバカみたいだが、わたしはこれを日本語で書いていて、日本語という言語は、例えば動きと視覚的な状態の表現をひとことですませられたりする点で、優美で、すぐれた言語だが、自分たちが認めたくないことや、考えるのが苦手なことには語彙も与えない、というものすごいことをする言語で、
彼らは、職場で、申し合わせて、挨拶されても返事を返さず、まるで存在しないかのように振る舞って、陰で笑いものにするようなことを行っても、
それを表現する語彙が存在しない。
その結果、疎外の対象になった人物が自死を遂げても、
「いじめが原因」という、普通に読めば、「弱かった被害者にも責任がある」ニュアンスへのドアが開いた表現をする。
アメリカ人の誇張表現や口蓋内で反響させるようなRを「脅迫的」と感じて、本来subtle社会を標榜しているのに、ちっともsubtleでないむき出しの憎悪を向けられて、這う這うのていで、アメリカに逃げ帰る人も多かった。
インターネットが普及しだすと、これが消えてしまった。
そのころ「フレンズ」というシットコムがあって、その影響もあったが、
いちばんおおきかったのは、やはりインターネットで、情報量が増えれば、発音などは「些細な違い」になって問題でなくなる。
いわば国の違いだったものが地方の違いになって、英語世界のなかでは次第に国家というものの意味さえ弱くなっていくように一度は見えたほどだった。
それを見ていて、南アフリカやオランダ、北欧諸国のような「英語で読み書きすることを苦にしない」、英語準母語人もおおよろこびでインターネットの共有世界へ飛び込んでいった。
ところで、なぜわたしが1972年の日本に立っているかというと、ここが日本という社会が世界とまるで異なる、西洋人にとってはほぼ理解不可能な、天然全体主義と呼びたくなる「民主主義」を歩き出す、分岐点だからで、もっとも「立っている」と言っても、いまわたしが立っている広尾の地下鉄駅前の交差点でいえば、わたしの背後にある三菱銀行や、あとでは改装される明治屋、有栖川公園は見えているが、あとに「広尾タワー」という名前がつくことになる高級マンション、いまでいうタワマンの奔りということになるだろうか、が建つことになる場所は、本にも古雑誌にも情報が出てこないので、そこだけポリゴンが剥がれたようになっている。
Cry Baby Eggという黄色い卵が泣いている看板が見えているが、これは…はっきりしないが…多分、80年代に開店した店のはずで、風景としてあちこちが間違っている。
地下鉄の駅の脇には「エルザ」という地下のバーにつづく階段があって、おりてゆくと、オーストラリア訛やアメリカ訛の英語が聞こえてくる。
ここは高校生たちの放課後のたまり場で、外から見えないのがよいところで、この韓国人夫婦が経営するバーでは、地上はまだ明るいうちから、ネッキングしているカップルや、ウイスキーを生(き)で飲むスイス人の女の高校生、近隣のインターナショナルスクールや多摩川あたりの学校まで、高校生たちが屯している。
1972年は、外国人と日本人がほとんど接点もなく共存していた時代で、
お互いにお互いがやっていることを「なにをやっているんだろう?」というもの珍しさの範囲でしか意識もしていなかった。
有栖川の坂をのぼろう。
坂をあがりはじめて、すぐ左側に折れてゆく道があって、「那須飯店」という、いまでいう「町中華料理」の店がある。
たいへん繁盛しているが、食べてみると、いまの味付けよりも塩がおおくて、この時代一般というか、「しょっぱい味付け」の食べ物ばかりで、食べると「このひとたち、脳卒中は大丈夫だったんだろうか?」と周りの客の顔を見渡して心配になる。
最近のテレビ番組「孤独のグルメ」にメキシコ料理屋が出てきて、番組内の様子では、どうも那須飯店の隣かどこかに出来たように見えるが、当然、1972年の路上に立って見渡しても、どこにもメキシコ料理店は存在しない。
公園のほうへ歩いて行ってみると、わたしの物好きな息子が、日本に滞在して、高い高いと文句ばかり言いながら、なんのことはない、ほぼ毎日のように通っていたナショナルスーパーという、「スーパー」と呼ぶのが、ちょっと気恥ずかしくなるくらいの規模のグロサリー店がある。
そこが南部坂の麓で、これをあがっていけば、仙台坂や暗闇坂があって、
この後、名前のない通りは山ほどあるのに、坂にはひとつひとつ名前をつけて、就中、名前を記した標柱まで立てるという、日本文化、ひいては日本人の心性を理解するための重要な手がかりになりそうな習慣を発見して、東京を訪問した外国人たちを、ぶっくらこかせることになるが、1972年には、まだ、この「坂の名前を記した標柱」は存在しない。
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