華氏100度の夏に 第一回
1
まったくバカげていた。
初めての空の旅で、知識がないうえに、そのころは海外に渡航する人もいまに較べると格段に少なかったので、シアトルでの乗り換えが15分しかないことの意味に気が付かなかった。
着いて見ると、シアトル空港は、国際線ターミナルと国内線ターミナルは別の建物で、
あいだを自動運転のモノレールが結んでいる。
この移動だけで15分はかかる。
おまけにセキュリティスクリーニングに30分はかかるので、乗換え時間が15分しかない航空券などナンセンスでしかなかった。
おんぶに抱っこ、至れり尽くせりの国内旅行代理店なら、そんな航空券を出すわけはないが、価格は40万円もする。
大学の修士課程を終えたばかりの、普通のサラリーマン家庭に育った祐一に、そんなオカネが出せるわけはなかった。
学部のときはまだ、東大の数学科学生は引く手あまたで、ひと夏、夏休みを諦めれば、霞ヶ関の医進予備校の夏期講習のバイトは条件がよくて、1ヶ月の個人指導の報酬として、百万円をポンとくれたばかりか、住み込み書生よろしく、会場のホテルの個室が会期中は予約されていて、三食はただで、朝はお定まりのバッフェだったが、昼飯でいえば、会場に舞泉のとんかつ弁当が山と積まれていて、あんまり旨いので、いちどに三個食べたこともあったが、別に、文句は言われなかった。
二浪や三浪どころか、十年近く浪人している者までいる学生は、絵に描いたようなダメ受験生たちで、学力は高校の入試はいったいどうやったのだろう、と訝るほど出来が悪かったが、気立てはよい若者が多くて、といっても、矢張り親のカネがありすぎて、どこかが狂っていて、「先生、今度、女を紹介してやろうか?おれのポルシェで行けばイチコロだよ」だのと述べていたが、それも純粋に彼らなりの「友情」から出た言葉のようで、お誘いは丁重にお断りしたが、気分が悪くなる、というふうではなくて、やや自分でも意外に思えた。
この割のいいバイトは数学科の先輩から受け継いだが、院になると、時間があわずに消滅した。
というよりも、大学院に入ってみると、レベルが高すぎて、朝起きてから夜寝るまで数学漬けで、まともな人間の生活など出来るわけはなかった。
そういうわけで、ボストン郊外のケンブリッジにあるハーバードビジネススクールにいる従兄弟から、おい、一緒に二週間遊ぼうぜ、というお誘いがあっても、「カネがねえよ」という返事以外は出てきはしない。
ある日のこと。
ふっふっふ、と電話の向こうでわざとらしく、というよりも、はっきり、ふたりの共通趣味の1950年代の娯楽映画で、片岡千恵蔵の多羅尾伴内を明瞭に真似た笑い声を立てると、「にーちゃん、おれに任せておきねえ。悪いようにはしねえ」という。
暫くすると「悪いようにはしない」の意味が判って、神保町の岩波ビルにある、この会社に航空券を取りに行ってこい、と言われるままに出かけてみると、旅行代理店でもない、小さな貸オフィスで、ニューヨークのJFK行きの航空券が、そこには待っていて、なんだか夢を見ているようだったが、その夜、国際電話を掛けてきた従兄弟によると、そのチケットは9万円で、アメリカに家族や親戚がいる場合、証明書をつければ売ってくれるのだ、という解説だった。
そして祐一はシアトルにいる。
シアトルの空港で、とっくのむかしに出てしまったJFK、ニューヨークのジョン・K・ケネディエアポート行きのユナイテッドに乗り損なって、
チケットを再発行してくれと交渉に行ったカウンタでも、けんもほろろに追い返されて、
呆然としていた。
懐には100ドルだけがある。
日本ならともかく、まさか広大なアメリカで、シアトルからニューヨークまでヒッチハイクする、というわけにはいかないだろう。
疲れ果てて、とにかく、無理でも頑張って、航空券を手に入れなければ大恐慌時代の「ホーボーさん」たちのように貨物列車の天蓋に飛び乗って、東海岸を目指すしかなくなってしまう。
チケット変更カウンタの長い列に並んで、やっと自分の番になると、受付の中年の女の係員は
「また、おまえか」という気持ちがありありと判る顔の表情で、なんど来たってダメなものはダメだよ、あんたの国では規則というものが存在しないのか、とあからさまな軽蔑の表情で述べる。祐一からすれば、日本ならば、せめて、お気の毒に、とでも述べて助けてくれるふりくらいはしてくれそうなものなのに、そういう慰めの態度も一切無くて、にべもなく
「ダメです。無理。あなたのチケットはあなたが選択して買ったのでしょう?
飛行機は定刻どおり着いて、定刻どおり出発しました。われわれに、あなたに新しいチケットを発行する理由はありません。ルールというものです」と再び述べるだけだった。
だって、そんなこと言っても、じゃあ、ぼくはどうしたらいいんですか、と祐一がたどたどしい英語で抗議しかけると、後ろから、びっくりするような大きな声で、
「あんた、なに言ってんだ、この人はカスタマーだろう?
あんたの会社の、でっかいビルボードになんて書いてあるか知ってるか?
カスタマー・ファースト!
って書いてあるんだよ。
これが、あんたたちのカスタマー・ファーストなのか?
信じらんない態度だね。
もう夜も遅いし、チケットを出してやれよ。
あんたには、その権限があるはずだ」
カウンターの女の人がなおも、なにごとか反駁の言葉を言いかけると、言葉を被せるように、
「ああ、判った!あんた人種を見て判断してるんだろう。
おれたちがアジア人だから見下しているんだな。
人種差別じゃないのか。
あんたの会社のイメージは、あんたひとりのせいで下がることになるぞ」
と恫喝をし始める。
この「racism」の一言は利いて、周りの乗客たちは、物見高そうに群がってこちらを見ているし、カウンタの女の人は、しばらく悔しそうな表情でにらみつけていたが、あたふたと、どこかに電話を掛けたとおもったら、ほとんど、あっけなく、次の瞬間、深夜便のデンバー経由、シカゴ乗り換え、ニューアーク行きの航空券が出てきた。
ニューアークはニューヨークの隣のニュージャージーにある空港で、マンハッタンへは30分から40分かかるうえに、第一、従兄弟に連絡をどうやって取るかという難問が生じたが、シアトルのベンチに座っているよりも遙かにましなので、祐一は、ひとまず安堵することに決めた。
時間は十分あったので、列の脇で、助けてくれたアジア系の、背が高い、黒い皮ジャンの、祐一とほぼ同年代に見える、若者が自分の用事を終えるのを待つことにした。
「ありがとう」と、表現のストックが乏しいので、精一杯、心をこめていうと、
若者は、わっはっはと笑って、礼儀正しいんだな、兄弟、
この国では、アジアの調子で礼儀正しくしていると、生きていかれないよ。
それに、あいつら白人は、おれたちなんか人間だとおもっちゃいないのさ。
アジア人同士、助けあうのは当たり前だ、と言う。
おれは、ジャックって言うんだ、香港人だよ。
育ったのは、シカゴだけどね。
また、どっかで会おうぜ、兄弟
と述べて、大股で、すたすたと自分のゲートに向かって歩いていってしまった。
あとで考えてみると、broでは判らないからブラザーと判りやすく言ったのだろう、
ともかく、ありきたりの「兄弟」という言葉が、このときばかりは祐一の胸を打った、
涙ぐんで、油断すると、通路のまんなかで立ち止まって、大泣きに泣いてしまいそうなほどだった。
2
頭がいい人間は、いいな、とおもうことがある。
周囲の人間にとって、余計な配慮や説明をする苦労がない。
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