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サポートは出来ない ただし魂を差し出す

話をしようよ。好きな事の話を。毎日飽きる事もなく、際限も無く、終わりの無い、発展の無い、それでいて有意義で且つ心を揺さぶるような。

熱さとは、何を以て熱さと呼ぶのか、呼ばれるのか。そしてそれは、何のために存在するのか。その価値は、その影響力は。

おれは、サポーターという言葉を使わない。使いたくない。苦手だ。嫌いだ。違和感がある。
ただし、その言葉を使う人を軽蔑しない。友達も使う。あんたも使う。ご自由にどうぞ。だけどもおれは決して使わない。


理由は簡単で、おれにはサポートできないからだ。あくまでも客は、受信者であり傍観者でしかない。サポーターという言葉はその事実に抗いたい人が使えばいいし、おれは抗わない。抗いたくない。それでいい。

別にサッカーに限った話はしていない。おれは、大好きなバンドのツアーにくっついて全国を回ったところで、あの人達を救えなかった。違和感に気づく事ぐらいは辛うじて出来ても、崩壊寸前だった事なんて本人の口から語られても信じられなかった。あの曲をツアーで一度もやらなかった理由は別のメンバーがRecしてたからだ、なんて言われても信じられなかった。おれが毎日愛してると叫んだところで、活動のサポートにはなれない。おれの生きる理由になってくれたところで、おれがバンドを続けてもらう理由になる事はできない。烏滸がましいだろう。サポートなんて言葉を使うのは。バンドマンは言うだろうよ。支えだよと。サポートだよと。それはそう。それは、いいんだ、それで。でも受信者側が自我を持って口にする事は違う。おれがいない程度で成り立たないものを、おれは愛さない。そんな軽いものじゃないでしょう。活動できてるのはおれのおかげ?甘ったれんなよ。おこぼれをもらっているだけだよ、おれは。

今おれの好きなバンドは、メンバー全員仕事をしながら活動をしている。おれが毎日愛してると叫んだところで、メンバーをお金持ちにしてあげる事はできない。世界の誰よりもおれがこのバンドの良さを知っていたって、生活を助けてあげる事はできない。
"ライブに来て音楽を聴いてくれるのが一番のサポートだよ"というのは演者側のエゴだ。事実ではない。それが事実である関係がいかに美しかろうと、客の側がそれを"サポートだ"と胸を張る事はエゴだ。だっておれには、あの人達を救えなかった。

あなたも当事者で、選手もサポーターも立場は対等なんですよというのは、サッカーチーム側のエゴであっておれはあくまでも傍観者であり、観測者でありたい。そうでなければ、どうにかなってしまいそうだ。

サポートとは、心からの応援とは、どういうものだろう。声を張り上げて、手を叩いて、選手を鼓舞して。そういうものだろうか。そういうものだろう。だけど、押し付けないでよ。とも思う。その言葉は、立ち上がって手を叩いている人を優位にしてしまうだけで、ある意味"なんのサポートにもなっていない"言葉ではないか。


人生を賭けて愛したものは、いくつかあります。だけどその感情を人と共有したいと思った事は、あまりないです。おれがわかっていればいいから。相手がわかってくれていればいいから。なんだ。やっぱりわかってもらいたいんじゃん。それも、エゴなのでしょう。今度はおれの、傍観者のエゴだ。
だからおれは、そのままでいいんだと思うのです。あなたのサポートも、君の応援も。このままでいさせてくれよ、とも思うのです。だって、エゴじゃん。全部。
その声はきっと届いているし、姿形を知らなくても、どこかで応援している人の存在は伝わっているのでしょう。きっと。逆に届かない時は、何をしても届かないでしょう。だから別にあなたの応援は間違ってない。だって"正しい"なんてないもん。もっと近い距離で、もっと直接、って思うならそうすりゃいい。だけどそうする事だけが正義じゃないし、それが"正しいサポート"である保証も無い。それも含めて、あなたが決めたらいいんだと思うのだよ。

おれがこの場所から魂を差し出す行為だって、同様に美しいとおれが信じてあげないといけない。現場に行かなきゃサポートできないのではなくて、行ってもサポートになんてならないかもしれないし、行かなくてもサポートになるかもしれない。行きたきゃ行く。"おれがいなきゃ駄目だろう"と思ったら、行くんだよ。だけどそれは、自分のためでありたい。その意味と理由と価値を、自分が決める人生でありたい。そうやって日々を歩いていきたいのだよ。それが、おれのエゴ。応援なのだ。

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