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顎関節症の社不日記-319日目

 ちっす。

 もうそろそろ、これを見てる皆さんは正月休みを抜けて仕事や学業に体と脳が慣れてきた頃じゃないですか?一方自分はまだ無職です。人生で一番長い休みの期間が今ですね。 
 どこかで「普通の人は働いていないと不安になる」というような文言を聞いたことがありますが、嘘でしたね。今のとこ人生で特になんとも思っとらんです。

 いつものことですけども別段話すことはまあないですね。前の更新から何か特別にやったことも何にもないですし。ぼんやり生きてます。仕事してるしてないに関わらず、いつもそんなもんなんで。

 偶には普段のことでも書きますか。
 
 自分はたまーに、それこそ3日に1回くらいの頻度ですることがあります。それが、ゆっくり息を吐いて、何も見ず、ぼーっと……ただ『死』や『幸福』みたいな漠然とした概念について考えるということ。
 というのもこれは別にいわゆる『病んでいる』という状態でなく、中学からいからずっと、なんとなーくやり続けてることで、自分の中の材料を使って自分なりの答えを出してみる、ということがしたくてやっていることなんですね。寄生獣のミギーの最終回付近と同じだ。

 元々論理的で無いことを考えるという行為がわりと好きで、自分が何歳だったか覚えていないくらい幼い頃も、
『1000円の買い物をして、1000円より多くお釣りを貰うにはどうしたらいいか』
『歩いて帰る時、歩幅はどのくらいなら速さと疲れのバランスが取れるか』
 母親の運転する黒い車の中。保育園の送り迎えの最中、後部座席でぼんやり暇つぶしにと考えて、家に着いたらすっかり忘れてゲームボーイアドバンスでムシキングをする。そういう記憶が日常的にいくつもあります。

当時やりすぎて全敵の全じゃんけんパターンを覚えてた。ラスボス枠のアキラくんは初手パー安定。

 そんなガキも放っておけば小学生にもなるわけで。そういう考え事の矛先ももう少し社会的な方向へ向かっていきました。
『友人がどれだけいたら友達が多いと言っていいのか』
『運動ができるようになるにはどうしたらいいのか』
 みたいな。
 幸いというか、まあ個人的な趣向で1人でいることの多かった(ちゃんと友達は居た、本当に)自分はそういうことをぼんやり考える時間も多く、多くの休み時間をそんな風に過ごしていました。
 保健室の横、日の当たるコンクリートの足場の上。自分しか居なかったあの場所。誰でも来れるのに、誰も用がないから何にもないあの場所。懐かしいな……
 
 で、中学に上がってもしばらくはそんな感じで生きていたのですが、転機があったのは中学2年生の後半になってから。
「もう来年には受験も控えてるし、何言ってもに行かせるからね」
 元々中学に上がった時点で「暇そうなんだから行け!」なんて言われていたのを散々断っていたのですが、殆ど強制的に行かされることに。
 勉強が好きだったことは一度もありません。ゲームだってちゃんと学ぶ必要があるならその時点で止めます。ただ持前の頭脳がどうもそれなりに良かったので、勉強の面ではそれまで落ちこぼれることもなくいられたのはこれこそ幸いでした。天に感謝。

 塾は退屈。今振り返ってもそんな程度の記憶ですね。
 宿題も面倒なのでプリントを無くしたといって適当に無かったことにしたり、定期テストが面倒なので鉄製の定規の裏にカンニングして乗り越えたり。授業も指されることが無ければ別の楽し気なことを考えていました。時期的には学校の友人とジャンプアルティメットスターズをやってたのでそのこととか。

ざっくり言うとジャンプキャラのスマブラみたいな格ゲー。

 退屈な場所を嫌うのと同時に、そこに居た人間とは関わる気もなくなるわけで。場の同い年誰とも話さず、休憩時間を突っ伏せてただ無意味に時が過ぎるのを待つ。塾に行った日の夜はずっと時間が流れていきました。

 そんなある日、冬の中学3年生。駅前の陸橋。雪が降るかもだなんてニュースキャスターが嘯くことになったあの夜。
 いつもと同じように塾へ行こうとした日、いつもと同じように思った。何で塾なんて行かないといけないんだろう、と。

 勉強できるようになって、いい高校へ行ってどうするんだろうか。
 いい会社に入って、いいステータスを得て、それを使って結婚して、でどうするんだ?
 
「何のために生きているんだ?」

 こんなことすらそれまで考えたことが無かったというのは、人と比べると遅いのでしょうか。今までの人生を無意味な思考で遍満させていたガキの自分に、人生で最大の『無意味な命題』が与えられました。

 その日から、塾へ行く道すがらはずっと、まだ授業を終えてもないのに頭が痛くなるほど、ぐるぐる、ぐるぐる。『無意味な命題』について考える時間が出来ました。
 死とは、幸福とは。夢とは。人生とは。子供とは、大人とは。世界とは。自分とは。人とは。悲喜とは。内とは。外とは。平均とは。外れとは。
 漠然としたまま考えていなかったのか、難しそうだと目を背けていたのか。前頭前野の打金から散る火花を眺めて、次の火花を見る頃には消えて。

 人が生まれて、自然に自我を得るタイミングがあるとするなら、自分はそこで『2回目の自我』を得ましたね。
 最初の自分がどうだったのか、よくわからなくなるくらい考えて、結果本当によく分からなくなって。不思議とあの時期は学校へ行くたび友人とのやりとりが不自然に感じてったんですよね。ウケる~。
 高校の頃、たまたま文化祭に遊びに来てた小学校時代の友人に会ったら「なんかキャラ変わった?」なんて聞かれました。そりゃ、今までの自分がどうしてたのかイマイチはっきりしてないんだから難しいわけです。

 高校へ上がる前、中学3年生最後の春休みにはそれもどうにか一段落。卒業式前の3月14日には『まりあ†ほりっく』のOPを中学の友人とカラオケで歌って笑ってました。あの時のヤツらも元気してんのかな。

男性。

 そんな経緯で、今も時々そういうことを考えるわけですね。夜が急に消えたら人間に二度と朝は来ないのか、とか。こんな雑念を哲学とはあまり言いたくないですが、まあジャンルで言えばそれにあたるんでしょうね。
 昔であれば何時間でも、なんなら丸1日でもこんな感じの考えで暇をつぶすことが出来ましたが、今は流石にある程度諸所に自分なりな答え付けをしてしまったので隔日の数十分程度~な感じで続いてます。

 これで友人間ですら謎とされてきた自分の生態の一部が晒されましたね。
 やっぱ書きやすいですね、昔のことってね。

 というわけで寝ますんで。


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