親ガチャについて

昨今、誰が見るのかわからないようなワイドショーなどで取り沙汰されている「親ガチャ」について、売れない芸能人が拙い言語でお気持ち表明をしている。
多くは親ガチャと言う言葉だけを切り取って意味や実情を考慮せずに訳のわからないことを言っているだけで内容はほとんど空っぽな訳だが、それは大した意見を持っているわけではなく、おそらく親ガチャは存在すると思いながらも番組の体裁を遵守しようとするあまりにあのようなしょうもない何回も煎じられて薄っぺらくなったコメントしかできないのではないかと考える。

私自身も親ガチャ自体は存在すると考える。極端な例で見れば一目瞭然だ。年収一億円で笑顔の絶えない家庭と年収数百万で明日を生きることも精一杯な家庭の子供、どちらが良いかなど考えるまでない。ここで後者に対する慈悲の言葉を投げ後者を選ぼうものならそれは偽善だ。嘘だ。人間は愚かな生き物だ。他人を蹴落としてでも幸せになろうとする生き物なのだ。故に本心では必ず前者になりたがる。

しかし世の中には前者になりたくてもなれない家庭が必ず存在する。むしろ極端な例を出してしまったあまりにほとんどの家庭はなれない。それが現実だ。それが人生というものだ。

ここで話を戻して、親ガチャは自分の家庭の経済力や幸福度を他人の家庭と比較して決まるため相対性を有する。実際のゲームでも強いキャラと弱いキャラというのは相対的に決まるもので、個別的には判断できない。
ゲームでさえガチャには外れることはある。ならば家庭における親ガチャにも外れることは必ずある。しかし、ガチャに外れても、育成次第では一定のレベルまでは達することはできる。人生というのは思っているほどそうハードではない。
しかし、おそらく親ガチャというワードを広めた人間はこう主張したことだろう。「人生は親ガチャが全てだ。生まれた家庭環境で全てが決まる」
半分正解だが、残りの半分は論外だというくらいに間違えている。誤っている。

親ガチャに外れたと気づいたことが人生の転換期だということに気付けない。即ち、人生を諦めているように思える。先ほども述べた通り、ガチャには外れても一定のレベルまでは上昇できる。その努力もせずに諦めてガチャに当たった人間を恨み、羨み、妬み、嫉む。努力もしない人間に他人を羨む資格はないのだ。自分で勝手にゴールを決めつけ、限界を設定して、諦める。何と哀れな人生か。本当に外れているのは親ガチャではなく、簡単に物事を諦めてしまう己の腐った精神ではないだろうか。
ガチャには外れても育成し、進化させることができればさらなる高みへいけるはずなのだ。

戯言。

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