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「成長」 4年 橋本辰弥

こんばんは。素晴らしい文章を書いてくれた、瑛星から紹介された、橋本辰弥です。

まず始めに、ハル君のブログにあたかも自分が殴ったかのような表記があったので訂正すると、ある日の帰り道、主犯である久保田渓介君がハルとテングザルが似ていると言い出し、画像を見せてもらったところ、あまりにも酷似していたため大爆笑していたら、なぜか自分が殴られたという話です(笑)

余談はこのぐらいにして、本題に入ろうと思います。

ブログリレー前半の同期が、後輩に伝えたいこと、学習院のサッカー部に入ってよかったことについてたくさん書いてくれているので、自分は今までのサッカー人生の振り返りを書いていこうと思います!

まとまりがなく、稚拙な文章ですが、最後まで読んでくれたら嬉しいです‼

高校からが長さ的にも良さそうなので、高校から書きます!

まず、高校ですが、小学生のころから憧れていた八千代高校に入学しました。
というのも、小学校低学年の頃、両親に八千代高校の試合に連れて行ってもらい、その時に見た迫力ある攻撃的なサッカーを自分もしたいと思ったことがきっかけで、この頃から「八千代高校で全国の舞台に立つこと」が夢になっていました。

勉強して入学したまでは良かったものの入学時の自分のことを分かりやすく書くと、
身長160㎝未満、体系ポッチャリ、局部に毛すら生えていない、いわゆる幼児体系。
あまりの丸さにベイマックスと言われたこともありました(笑)。
サッカーの能力も走れない、体弱い、人並みあるかどうかの足元の技術、こんな選手でした。

なので、入部当初は走りについていけず、すぐに怪我をし、復帰走であるクーパー走のタイムをなかなかクリアできず、サッカーすらできていない状況でした。

その後、ようやくサッカーができるようになりましたが、夏の初めてのセレクション(カテゴリー分けを行う紅白戦)で、右足首を骨折し、冬までサッカーをすることができませんでした。怪我から復帰した後も、デコボコ道を歩いているだけで足首を捻ってしまうガラスの足首になってしまい、サッカーがまともにできないまま最初の1年間終了。

高校2年生になっても、4カテゴリーある中の1番下であるB3でサッカーをしていて、自分の不甲斐無さに嫌気がさしていました。
それでも、Aチームまで何とかして上がり、選手権に出たかった。
どうすればもっと上に行けるか考えた末、「いつか体が成長した時に、足元の技術で戦えるようにしよう。」そう思い、朝の自主練の時間にコーンドリブル、リフティング、対面パス、この基本的なことだけこだわって、ほぼ毎朝継続して取り組みました。
すぐには結果も出ず、高校2年の時も結局一番下のカテゴリーでずっとサッカーをして、2年目終了。

そして、高校3年。体の成長と共にサッカーが徐々にうまくなっていくのを実感しながら迎えた新チーム最初のセレクション。何とかアピールすることができ、Aの1つ下のB1に上がることができた。2年間1番下にいた自分にとっては、これだけでも嬉しかった。ここで頑張れば、Aチームまで行けるかもしれない、そう思っていた矢先に怪我をして、1つカテゴリーが落ちB2。そこからは、腰、膝、内転筋、いろいろなところを怪我しながらB2のリーグ戦である4部リーグに出場し、最後の数か月はB1でプレーできたものの、そのまま選手権を迎え、引退。

全国どころか、Aチームに1度も上がれず高校サッカーが終わってしまいました。
すごく悔しかった。

けれど、最初は走れなくて嫌われていたコーチから4部リーグで必要とされたり、1度も直接指導を受けることができなかった豊島先生からセレクション終わりに「上手になったな」と言われたり、高校サッカーで成長はしたなと思えた3年間でした。

だからこそ、このまま終わるのはもったいない、最後に結果を残して自分のサッカー人生を終わらせたい、そう思い、大学サッカーに挑戦することを決めました。

なので、理系でも体育会サッカー部の活動にちゃんと参加できる大学を受験しました。
縁あって学習院大学に入学、入部走もクリアして無事サッカー部に入部することができ、大学サッカースタート。

大学1年の頃は、夏のオフシーズンの時だけAチームで練習させてもらって、それ以外はBチームで活動。大学2年の時は、何試合かリーグ戦のメンバーに入れてもらって、勝っているときのみ、時間稼ぎで数分だけ出場機会をもらえました。

これだけ見ると順調な感じがしますが、同期で既に試合に出ている選手はかなりいたし、後輩にも上手い選手が入ってきて、このままだと4年生になった時に出れるか微妙なラインだったと思います。

大学3年になっても2年の時と変わらず、メンバーに入るか入らないかの立ち位置にいましたが、いきなり出場のチャンスが来ます。

アミノバイタルカップ東京都予選の代表決定戦Vs大東文化大学

今思えば、この試合が自分のターニングポイントだったと思います。

試合前日、同期の西見君が何を血迷ったのかは分かりませんが、前日調整にも関わらず、スタメンだったみずきに激しいスライディングタックルをお見舞いし、肩を脱臼させるアクシデントが発生、急遽メンバー外だった自分がメンバー入り。

試合当日、ゆうま君とライト君が前半途中で怪我をして、シャドーの位置で緊急出場。
あまりにも急だったので、硬くならずにプレーすることができ、いつもよりも良いパフォーマンスができたと思います。
試合は、延長後半に自分が決定機を外したこともあり、延長戦の末負けてしまいましたが、不思議と悔しさはなく、このレベルでも自分のプレーができたという嬉しさの方が強かったのを覚えています。
この試合でのアピールもあり、リーグ戦開幕の週に右のウイングバックにコンバートされ、リーグ開幕戦スタメン。Vs山梨学院大学

チームの代表として、公式戦に出るのは中学1年生の時以来だったので、めちゃめちゃ緊張しましたが、チームは直央君の決勝弾のおかげで格上相手に勝利。
特に何かできたわけではありませんが、プレーでチームの勝利に貢献できたことがすごく嬉しかったし、今まで頑張ってきたことが報われた気がして、サッカーを大学まで続けてきて良かったと思えた瞬間でした。

こうやって、高校時代何もなかった自分が、東京都1部リーグのピッチに立てるようになった理由を考えてみると1番の要因は、“厳しい環境に身を置けたこと”だと思います。
高校時代も全員が上を目指している環境であったし、大学に入っても周りにうまい人たちがたくさんいる環境でサッカーができたからこそ、成長につながったと思います。
自分が心地よく感じる環境に成長はないし、苦しい環境でチャレンジすることが大切であるとサッカーを通じて学んだ気がします。

最後になりましたが、榎さん、山田さん、支援してくださるOBの方々、お世話になった先輩、20サッカー部で一緒にサッカーをしている後輩、同期、支えてくれた両親、すべての人に感謝します。

特に同期のみんなには、プレーがうまくいってないと拗ねたりして、迷惑をかけてきたと思いますが、あと数か月よろしくお願いします!(笑)

最後まで、読んでくださりありがとうございました!

次は、普段はクールですが、お酒が入ると豹変する学習院一の秀才、益子雄気君です!
きっと素晴らしい文章を書いてくれると思います!
お楽しみに!