フレフレ・エブリデイ所感

序文

 140字って好きなものを語るにはちょっと短い。しかも、字数制限いっぱいに呟いても、目が滑ったらと気になって結局消す。長文というだけで「偉そうに講釈垂れてる」と思われるなんて話も聞いた。それは本意じゃないなと余計引け腰になった。
 でも好きなものに対してわめき散らしたい気持ちはくすぶってるので、noteのリンク貼るだけなら良いかなと思いたち、感想文をここにダラダラ書いていく。

ハロプロの印象

 ここ数年「ハロー!プロジェクト(以下ハロ)」に所属するアイドルグループに浅く沼っている。変な横道に逸れたくないので「浅く」と強調しておく。
 ぶりっ子アイドルももちで産湯を使い、Buono!の生ハモで「陽のkalafinaじゃん!」と興奮し、今では25歳定年説を打ち破りそうなかなともを拝みつつ、たけの卒業が来ないよう祈っている。(追記:二人共卒業しちゃったね…)古参のファンが口々に言う通り、グループの箱推しを超えてハロ全体のゆるいファンになっていた。

 あくまでごく浅いファンの感想になるが、ハロの曲って元気がある。他人を励ますというより、メンバーそれぞれが鏡に向かって「やるしかないやろ!」と自分を𠮟咤激励している感じ。「若い子が頑張ってるんやし、年寄りも頑張らなあかんなあ」と頭が下がる思いで聞いている。

 実のところ、私は辛い時に応援ソングを聞くのは苦痛だ。めっちゃ心が荒んでるときに聞くと、むしろ神経を逆なでされて受け入れられないことがある。
 いっそのこと『エピゴウネ』みたいに「立派な理想像描けた自分が夢そのものより愛しいかい」って侮蔑された方が背筋が伸びる。安っぽい慰めなんてよしてくれって思う。
 この意識が、落ち込んでないときにも低空飛行しているから、どのみち応援ソングの多くは「聞けはするけどなんか好きになり切れない」で完結しがちである。
 だから、ハロの曲の、彼女達自身が一生懸命頑張ってる感じに元気がもらえる。体裁としては視聴者への応援ソングなんだけど、まずアイドル本人が自己暗示のように自分を応援している
 他人の頑張っている姿を見ることで、自分も頑張ろうとする競争意識が生まれているのかもしれない。

(引用――スポーツ心理学の創世記の心理学者であるノーマン・トリプレットは子供たちの他人との競争の影響を調査しました。その結果は50%の子供は競争によってさらに頑張りパフォーマンスを上げ、25%はほぼ影響を受けず、残りの25%はパフォーマンスが低下しました。

――1人で何かをやろうとするよりも、競い合いや切磋琢磨する仲間がいた方がモチベーションも上がるし、やる気も持続しやすいのです。)


で、タイトルの話に移る。

 アイドルグループ BEYOOOOONDS の『フレフレ・エブリデイ』を聞いた。応援歌だなあと分かっていながら、すんなりと楽しめた。
 今回の『フレフレ・エブリデイ』は自己暗示っぽさがない。ちゃんとこちらへ向かって応援してくる印象がある。サビの振りの応援演技といい、歌詞の「フレフレ!」といい、視聴者へ向けた応援ソングであることは明白だ。なのに、どことなく我が事として受け入れられて、ターゲット層から落選したかと思いきや一日複数回聞いている。
 それで改めて考えてみたのだが、『フレフレ・エブリデイ』の好きなところって、「応援はするけど、別に頑張らなくてもいいよ」っていう程よい突き放しにあるのかなと思った。
 この突き放し感、特にラスサビ前の歌詞が分かりやすい。

"かなしい言葉
胸を締めたら
フレフレ!
思い出して マイフレンド"

 ここまではよくある。どこでも聞く台詞だと思う。

"君はこの世にひとりだけって"

 からのこれ。大好き!
 ”思い出してマイフレンド”なんて言われると、次は「君は一人じゃない」か「私がそばにいるよ」系のどちらかだな~って身構えちゃう。前者はポップス全体にられるし、後者は日向坂に特に多いイメージがある。
 結局他者からの承認がなければ人間に価値はないんだなって、友達のいない陰キャの心にとどめを刺してくる。
 でも社会に所属するってそういうことだから、間違ったメッセージだとは思わない。間違ったメッセージだとは思わないけど、個人的には繰り返し聞きたいメッセージと思えない。

 というか、自分でさえ素材のままの自分に微塵も良い点が見当たらないのに、関係値ゼロの赤の他人、それもそれなりにクラスでちやほやされてたような可愛い女の子から「君の隠された魅力、私は気づいてるよ」と匂いたつような励ましを受けても「なにが見えてるのこの子?」としか思えない。嚙み合わないときの応援ソングってこの疑念に苛まれる。

 ところが、『フレフレ・エブリデイ』は違った。
 結局人間一人なんですよね。どれだけ徒党を組もうが、所詮いつかは独りになる。挫折して辛くてだからって友達に励まして貰ったって、その後一生友達にメンタル介護してもうらわけにはいかない。友達だって、月一愚痴を聞くくらいわけなかったとしても、人生の岐路に立ってる人に全幅の信頼を寄せられて「どっち?」なんて相談されても、重っ…としか言えない。
 多分、こういう捻くれた性格だからこそ「一人じゃないよ」系の励ましが薄っぺらく思えるんだろうね。

(ただ、こっちが譲歩と自虐のハイブリットで捻くれてると表現しているものを「お前捻くれてるね」と片方の意味だけ感じ取って全乗っかりされるとそれはそれでムッとするので、赤の他人をここに味方として召喚しておく。
引用――「ほんとうの自分」という恒久的に固定したものが自分の内部にあり、それを発見しさえすれば爆発的にパフォーマンスが向上するという物語が「アイデンティティー・ポリティクス」には伏流しています。それだと永遠に同じ人のままで、成長しないんです。)

 捻くれた性格だからこそ、"君はこの世にひとりだけって"は効いた。突き放されることで、忘れかけていた「自分が自分の脚で立ってる感覚」を再確認する気分。
 そうだよな~普段目を逸らしてるけど本来私は独りなんだよな~って耳が痛くなる。貯金とは自分が孤独死したときのための自治体へのケジメ代である。
 当然ながら、"ひとり"には Only one という意味も含まれていて、この汲み取り方をすれば素直なリスナーには素直な応援ソングとして受け入れられる。一挙両得だね。

まとめ


 明るい曲調の中にひと匙捻くれ者が居られる隙間を作っておく、こういう細部の作り込みがハロの良いとこだと思いました。思いませんか? 脚本のひとそこまで考えてないと思いますか、そうですか…。
 でも私は「神は細部に宿る」という言説の方が好きだから、そっちを信仰することにするね。この辺は個人の考え方の違いだね。

 あと歌詞の"ドレミファソラシド"がちゃんとCDEFGAHCなのは地味に良かった。ハロプロの曲、歌詞の音階と実際の音階が一致してるので絶対音感の人が気持ち悪くならないし、一般人にふんわりと音感を刷り込んでくる。次のヤマハのCMこれにしようぜ。(オタク特有の推しを優先しすぎて他をないがしろにする暴論)
 因みに私は年齢が一桁の頃から十年ほど音楽を頑張ったけど、絶対音感はつかなかった。だから絶対音感の人が気持ち悪くなるという噂の真偽は知らない。