読んだやつ 22年1月

記録取ってる範囲で読んだ記事、本、論文など

”個人レベルでの救済は、全てが救済されないことを前提とする。”
「バカ」のような過激な語気について「論破」とか受容されていることについて本人はどう考えているんだろうか。
”人権を思考の前提としないことによって、団地に生きるしたたかな庶民への温かな視線と、無能への冷淡な視線は両立するのだ。”
”ひろゆきが理想とする世界があるとするなら、このようなエゴイストたちが連帯して「バカ」を指導する楽園のことだろう。”

完全に趣味で読んだ論文

 つまり、そこでは、非職業的に音楽活動を行うことが、 生計を立てることを目指す「夢追い」のためか、もしくは 単なる「趣味」かに振り分けられるものとされる。どちらのためでもない音楽活動は想定されておらず、人々の認識 から排除されている。それに対し筆者は過去の論文で、そ のような「夢追い」でもなく、しかし「趣味」とも言い切 らずに音楽活動を続ける者が少なからず存在していることをフィールドワークから明らかにし、上記のような労働中心的な二元論がそれらのインディー・ミュージシャンの現実を不可視化していることを指摘した〔生井 2013〕。

筆者は 2010 年から現在にかけて、日本国内では札幌、 東京、大阪、京都、兵庫、福岡にある計 30 箇所のライブ ハウスでフィールドワークを行ってきたが、身内や内輪が まったくいない場所は皆無に等しかった。ライブハウスと いう場を作り出す基礎になっているのは、むしろそうした 人間関係なのだ。それにもかかわらず、これまでの研究に おいて、そのような人間関係は、ノルマを介した出演者と 店との市場交換的なものとして理解されたり、「身内」や「内輪」による閉鎖性という言葉で非合理なものへと矮小 化される。その結果、従来のライブハウスを「悪」と決めつけ、そこから脱却すべきという議論に収斂されてしまうのだ。そのような議論は、「はじめに」で述べたようなライブハウスの持つ直接対面的な出会い・対話によるコンヴィヴィアリティが作られる可能性を不可視化してしまっていると言えるだろう。

暖かい貨幣

一時的な関係しか生まない市場交換を友人間で行えば水臭くなりすぎてしまう。しかし一方で、相手との距 離を近づけ継続的な関係を築く贈与交換によって、関係性 が内輪的になりすぎるのも避けたいという気持ちも生じて くる。そこで、市場交換という形をとった贈与交換、すな わち「市場交換に見せかけた」贈与交換とも言えるような やりとりが行われており、負い目は曖昧化されていた。

マイノリティを評価したり支援したりするばかりで、自分が評価されたり介入されたりすると動揺してしまうのが、マジョリティである。このマジョリティの位置には、健常者や男性、異性愛者のみならず、先進国やグローバル企業などを代入してもよいだろう。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?