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家族とのソーシャルディスタンス


エッセイの定義とは

エッセイとは随筆だ

なんやそれ訳しているだけやん

いえいえ凄く適切に定義付けた言葉なのです。

「随」の意味に成り行きにまかせてとかLet it beのニュアンスがある。

つまり徒然草のように徒然なるままに筆を起こすことが随筆なのである。

その定義ならいわゆる日記はエッセイかと言うと半分イエス、半分noですね。

じゃあ逆に徒然なるままでない文章とは?

代表的なのが科学論文、伝えるテーマが決まっていて段落の構成もはじめにプロットを作り、論理的にひとつの論文を構築していく。そんな文章がエッセイとは真逆の文章。

会社の業務報告文もエッセイの真逆でないといけない。

私は本来はバッハの複雑な曲のように緻密に構成された文章を作るのが読むのも含めて好きなのだが、肩のチカラを抜いたエッセイは気晴らしとしては素晴らしいとも感じる。

じゃあツイッターのようなつぶやきもエッセイかと言うとエッセイなのだが、呟きはあまりにも短いので言葉の定義としてエッセイからは分離して置きたい。呟きはあくまでも呟きというジャンルで独立させます。

また日記だが、日記は事実記録(ドキュメント)の要素も強く、半分はエッセイ的なのだがこれもまた独立して日記というジャンルにしておく。

エッセイは成り行きに任せたスタイルの文章でかつ、ある程度の長さであり、日記よりはもっと普遍的で抽象論寄りの文章と規定したい。

そうすると今月はこの投稿にあるようにまだ7つしかエッセイを書いていない。

エッセイ|七味とうGらし @GacTea #note https://note.com/gacktoa/n/n65916f98c073

上の投稿の中の添付したエッセイのひとつが12/31なのである。これは単純なケアレスミス。しかし。上の投稿自体がエッセイでありそれを含めると8つになるが12/31分を除くとやはり、7つになる。そのため敢えて12/31分も消さずにそのまま添付したままにしている。


ここまでが前置きで

久びさにエッセイを書くにあたっての上記の長い前書きを記しました。

さて本題

日本人は絆というワードに弱い。

特に家族の絆はまもなく10年前となる東日本大震災やらこのコロナ禍もそうであるが、失われた絆が甦っている。

これを否定するひとはホントに極稀にしかおらず私も当然家族愛を信じる一人である。

しかし血縁、家族愛の裏腹に権力闘争、縄張り争い、マフィアの抗争などがある。実はそんな人間の負の部分に根ざしているのが家族愛や子孫繁栄の本能なのである。

ヒューマニストやロマンティストにこの醒めた事実をそのまま述べるとこの人でなし、サイコパスと罵られる可能性は高い。

しかし、家族を持つことで争いが生まれ、果ては国家間の戦争にまで発展するのは紛れもない事実だ。歴史家はその事実を痛いほど知っている。

わかり易いのは映画に例えるとスター・ウォーズ・サーガ9部作
これはアナキン・スカイウォーカーの一生とその孫までの物語。

アナキンはエピソード3の途中まではそれこそ、道徳的、倫理的な青年で正義の味方。曲がったことも許せない。
しかしエピソード3の最後には悪の化身ダース・ベイダーとなり、エピソード4までの間に映画だとローグ・ワンだと恐怖の殺人マシーンとなり暴れている。

何故、アナキンがダース・ベイダーになったのか、これはある程度このシリーズを知るひとはダークサイドに堕ちたと言う。

何故ダークサイドに堕ちるのか?

アナキンの場合は最愛の妻パドメを失いたくないという不安と恐怖を元からの悪のダース・シディアス(パルパティーン議長のちの暗黒皇帝)に付け込まれたからだ。

やはり家族愛が悪への道に導いている。


続いてゴッドファーザー。この映画も3部作で長いのでパート2でデ・ニーロ演じる若きビト・コルレオーネがマフィア一家を築くあたりにスポットライトを当てる。
ビトは家族ができた当初は真面目に働いていたが街のマフィアボス、ドンチッチオに舐められまいとして逆に銃で始末してしまう。
それは生まれたばかりのソニーと妻を守る一心でやった蛮行。
やはり家族愛がこの血で地を洗うコルレオーネファミリーのスタート。
映画ではしきりとファミリーという言葉がでてきて、家族に対する想いはこのマフィアの一家は非除に強い。そのゆえにダークサイドに堕ちざるを得なかった。

次は映画ではないが、手塚治虫の漫画『ブッダ』から。これはシャカ族の王子ゴータマ・シッダルタが仏教の開祖ブッダになりその生涯を終えるまでを描いている。ほぼ伝記なので(ディテールはエンターテインメントのため脚色を相当に施しているが、大筋は史実通りだ。)

そしてシッダルタが出家して旅に出る直前に妃から子供(王子)が出来たと告げられる。

シッダルタはその皮肉な運命を呪い、子供にラーフラ(障壁を意味する)と名付け子供の顔を見る前に出家の旅に出てしまう。

シッダルタは知っていたのだ。子供ができたら自分は子供と家族を守るために世の中のほとんどの王と同じように殺戮や侵略を繰り返すことになると、その真逆の道を選び世の中の真理を追求しようとした自分は家族を捨てざるを得ないと。

アナキンにせよ、コルレオーネにせよ、ブッダにせよ、家族により本来自分が持っていた自分を捨てるか、ブッダは反対に抗い、その葛藤に苦しむ人生の旅に出る。

冒頭の絆、家族愛とは全く相容れない話に聞こえよう。

マイホームパパや家族愛が強い御仁には耐えられない話だろう。

かくいう私もどちらかというと、マイホームパパや家族を大事にする亭主だ。

なのでこのアナキンの悲劇やビトの覚悟、シッダルタの葛藤の物語はどれもつらい。

しかしその一方でその辛さは現実であり、
そこから目を背けて偽りの家族ゲームやごっこをすることは実はもっと辛くなることも知っている。

私は単身赴任をして2年弱家を開けたからこのあたりの葛藤は身をもって体験している。

家族と離れ離れは本当に辛く寂しい。

一方でそういった離れる期間も実は必要であり、重要とも感じた。

また、お互いの大切さを骨身で感じることが出来るからだ。

たしかに自分が子供のとき、また逆に親になってからでも子供が親と過ごせる期間は予想以上に短い。とくに一般的には男親は女親の1/5も子供と過ごしていないからあっという間だ。

息子もまもなく16になる。早生まれなので高1の最後に16になる。あと2年、高3の最後には法律では18歳成人制度への移行に基づき、「大人」となるのだ。ついこのあいだ産まれたばかりに感じる子供があっと言う間に成人に。しかもここからの2年なんてまさに瞬く間だろう。

だから一緒に過ごせるときを大事にという面はある。

子供が小学生の頃までは毎週土日はほぼ一緒に過ごした。遊びに連れて行ってやり親としては沢山楽しい思い出を残した。
今は思春期でそんなことをしてもウザいだけだろうから高校への送り迎えで砕けた話をしたり、そんなことで十分。

付きすぎず離れ過ぎぬ関係を家族とは取ることで、ダークサイドに堕ちることは避けたい。

それはまさに家族とのソーシャルディスタンスと私は命名する。

それはコロナ禍とは関係ない普遍的なソーシャルディスタンスである。

それが私は出来ているかは自分では判定は難しいが

So far, so goodではないかと自負している。


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