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トム・クルーズとドリアン・グレイ(エゴイストとサディスト)

昨日は4作品発表のみと休日としては異例の少なさ。

しかもテキストはおろかつぶやきを含めて新作はゼロ。

掘り起こしとYou Tube動画のアップのみ。You Tube動画はヘアメタルについては長くコメントを書いたので新作のようなものであるが。

テキストによるエッセイは結構気力を使うので、昨日は疲れちゃって(いわゆるSNS疲れ、note疲れではなく、週末にその一週間の疲れがドッと疲れが出るようなもの。)テキストは書かなかった。

思えば10月の上旬にテキスト発表数が200に達したときに10日くらいテキスト新作を凍結して充電期間に入った。

充電期間とはいえ、つぶやきは多数発表。

特にエディ・ヴァン・ヘイレンの訃報を受けて追悼投稿(呟き)は鬼のように上げていた。

ただそのときもテキストによる新作は一切出さなかったら休めました。

その塩梅も多数つぶやきて吐露してましたね。

よってたまにそういう充電の日や期間を今後も設けるやも知れません。

さて本題、上のような所感を述べておいて気のゲージは十分に溜まったので、テキストによる新作を発表します。

エゴイズムとサディズムについて

その前にオスカーワイルドの唯一の長編小説である

『ドリアン・グレイの肖像』について

Amazonアソシエイト by ウェブリブログ
の記事を以下に引用します。

類稀なる美貌を持つ若き貴公子ドリアン・グレイ。彼は純真無垢な魂の持ち主でもあり、会う者全てを惹きつけて止まない。風に舞う金髪は金色の絹糸のよう、その赤い唇は熟れた果実のよう、その白い肌は何者にも汚されない東洋の陶器のよう、その美しい肉体が包み込む魂は澄み切ったガラスのよう…。画家バジルは大勢いる彼の崇拝者たちのうちの一人であり、なんとか彼の完璧なる美をキャンバスに留めようと、懸命に絵筆を振るっていた。寝食も忘れた作業の末、ついに完成したドリアンの肖像画を、彼は友人の警句家ヘンリー・ウォットン卿に見せる。そこには、ドリアンの体現する天界の美が余すところなく描き尽くされていた。そう、ドリアン本人ですらその絵の前では瞬きを許されないほどの、圧倒的な己の美の具現。ドリアンは思わず叫ぶ。「この生身の身体は老いて醜くならず、絵が身代わりになってくれたら、魂でさえもさし出そう!」

“美”は“天才”の一形式である。むしろ“天才”より説明を必要としないのだから、より高次なものでさえある。

ヘンリー卿の悪魔の誘惑にも似たその言葉は、ドリアンの心のうち深くに潜むその欲望をそっと後押しする。モラルを捨てよ、快楽の底に堕ちてしまえ、ただ己の欲するもののみに従え。バジルの筆によるドリアンの肖像画は、その姿形のみならず魂までも描いてしまったのか。かくしてドリアンの願いは叶えられ、彼は肖像画と奇妙な契約を交わすことになる。永遠に老いず朽ちない肉体を得た代わりに、その無垢の魂を絵に与える、と。
それからのドリアンの堕落は、以前の彼を知る者にとっては青天の霹靂であったろう。なにしろ彼の傍には、あのヘンリー卿が張り付いている。卿がドリアンの耳元で誘惑の言葉を囁くたび、ドリアンは何者にも、時間でさえも傷つけられるはずのない己の美貌を武器に、あらゆる快楽に浸るのだ。芝居小屋で見初めた美しい女優シビルの心を弄んだ挙句、彼女から急速に関心を失う。たった1人の女の愛では、もはやドリアンは満足を得ることができなかったからだ。シビルは絶望し、死に至る。
年月は確実に彼の周囲の人間を老いに向かわせたが、ドリアンはただ1人孤高の若さと美を保っていた。その間に彼の犯した罪と老いを引き受けた肖像画は、当然のごとく醜く変貌していた。彼は肖像画を、今は使われていない部屋の奥にひっそりと隠す。誰にも知られてはならない秘密なのだ。事情を知らぬ者は、なぜドリアンだけがいつまでも若く美しいのか不審に思うことだろう。ドリアン自身も、唯一自分と肖像画の契約を知るバジルの存在を恐れるようになり、相変わらず自分に執着する彼を背後から刺し殺してしまう。ドリアンの歩いた道の後ろには死体の山が築かれる。バジルの死体を処理した旧知のアランも死に、妹シビルの仇を討たんとドリアンに近づいたジェームズも誤って射殺され…。

“われらの罪を赦し給え”の代わりに、“罪ゆえにわれを打ち給え”という言葉こそ、 もっとも正しき神に対する人間の祈りであるべきだ。

永遠の若さと美と引き換えに犠牲になったもの。それは、ドリアン自身の無垢なる魂であり、孤独を癒す愛情や友情といった人とのつながりであった。永遠の若さと美という、いわば神の領域に足を踏み込んだドリアンは、代わりに壮絶な孤独を抱え込むことになったのである。あの聡いヘンリー卿に指摘されずとも、彼は自身が独りぼっちであることを痛感していた。この世ならぬ美を以ってして生ける芸術となろうとも、ただの人である彼は、神になり代わるには余りに脆かった。この世界の全ての快楽を授けられたとしても、結局はそのことが強いる代償には、到底耐えられるものではなかったのである。
死による救済を望むようになったドリアンは、衝動的に肖像画の前に立つとキャンバスにナイフを突き立てる。次の瞬間、ナイフはドリアンの心臓を貫いており、肖像画は一瞬にして元の美しさを取り戻した。その前には、妖怪のごとく醜く歪んだ顔の老人が倒れるばかりであったという。

著名な耽美派作家オスカー・ワイルドが残した唯一の長編小説、それが「ドリアン・グレイの肖像」です。
ワイルドが、自ら信ずるところの芸術至上主義の論理を展開した、実験小説の趣が大変強い一遍です。寓話的なストーリーを凌駕するごとく、作中に登場する警句家ヘンリー卿の発する数々の金言が異様に際立っているからですね。アイロニーと薀蓄に富んだ彼の言葉はとりもなおさずワイルド自身の言葉であり、ワイルドはヘンリー卿を通じて芸術論を説き、同時に人間の本質を抉る哲学をも思考しているのです。善き人でもあった美青年ドリアンが坂を転げ落ちるように堕落していく様は、ことさら辛らつに描かれていますし、ドリアンの美に固執した挙句自滅するバジルの哀れときたら、まるで嘲笑するがごとく。ドリアンに翻弄される周囲の人間たちにしても、まるでとるに足らない物であるかのように、次々と“死”を与えられていきます。限りない修飾語で装飾された華麗な文章は、描写する場面…とりわけドリアンの表情や仕草…を極彩色で彩り、時に読者を煙に巻き翻弄しますが、愚かな人間たちの本質に向けたワイルドのまなざしは底冷えしたまま。それが証拠に、作中の人間が死ぬ描写には、凄惨な血の色と鉄の臭いまでも感じるリアリズムが駆使されています。まるで、“人の死”は芸術の至高性とは相容れない現象だと言わんばかり。
ところが、この小説を読み進めていくと、また違った感慨も浮かびます。芸術を人名よりも尊び、美を至高の存在とし、古いモラルを挑発していると思われる今作は、実は、ワイルド自身が述べているように、ごく基本的かつ普遍的なモラルを説くものなのですね。それこそ、ヘンリー卿お得意の逆説的言い回しではありませんが、ドリアンを神に近づけて堕落させ、それに後ろ暗い悦びを与える筋立ては、最終的に彼自身の良心によって制裁を受けます。つまり、永遠に若く美しくありたいというドリアンのエゴ…すなわち人間誰しもが持つ欲望…は、結局人間の身には御し難いモンスターとなってしまい、彼をして自滅に追い込むと言いたいのでしょう。ドリアンの最期から垣間見えるのは、過ぎたエゴが抑制を失って勝手に一人歩きする恐怖と、そのことへの警告だと思います。

〜引用終了

なかなか凄まじい小説ですね。

急にこれを挙げた背景は

BS世界のドキュメンタリー「トム・クルーズー永遠の若さを追求してー」を鑑賞したことに

このドキュメンタリーはフランスで今年制作されたものの日本語訳です。

以下番組サマリー

トム・クルーズは映画『青春白書』でデビュー

この映画では何不自由ない金持ちの息子役を演じますが

実際のクルーズは幼い頃に両親が離婚し母親と兄弟と暮らしていたが相当の貧困層であり、彼の精神を苦しめる時期を長く過ごした。

10代後半でカトリックの神学校に入りその頃は敬虔なクリスチャンであった。

大韓航空機撃墜事件の後、ソ連への敵対を全面に押し出した1986年の映画『トップガン』で一躍スターになり、

その後も『ハスラー2』でポール・ニューマン、『レインマン』でダスティ・ホフマンと共演し 大俳優から演技を学び、当時に彼らを超える俳優になる野望も芽生える。

そんな彼は着実とキャリアを重ねるものの、『インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア』で主人公のヴァンパイア、レスタトを演じる。当初原作者はトム・クルーズがこの役に決まったことを受けて、彼にはまだ役者としての経験が浅く全く不向きと断じます。

このことにトム・クルーズはショックを受けるものの見事に役を演じきり原作者はトムに謝罪する流れに。

しかし映画監督はこの役には元々トム・クルーズが自分の中にあったものを出した要素も大きいと指摘

吸血鬼と映画俳優は似ていて何か月も撮影時は陽の光が当たらぬ場所で撮影し、一度陽のもとにでれば波紋を呼ぶ。
そして映画俳優とは永遠の若さを運命づけられた存在であると。

ここから冒頭のドリアン・グレイとトム・クルーズが被ることになる。

1993年〜2005年に出演した10作品はミッションインポッシブルシリーズやラストサムライなど彼の人気のピーク

まさに永遠の若さを手に入れたドリアン・グレイのような勢いでした。

実はこの時期に最初の妻ミミ・ロジャースの影響でカルト的と言われるサイエントロジーに傾倒していき1990年代初頭には既にカトリック教徒ではなくなりサイエントロジーの熱心な狂信的な信者となっていく。

広報担当者はサイエントロジーのイメージにより彼の俳優としてのイメージが崩れることを恐れ公の場ではサイエントロジーの関係を口にすることは厳に禁止してました。

そんな中で1990年代後期に巨匠スタンリー・キューブリックの作品に夫婦(トムとニコール・キッドマン)で『アイズ・ワイド・シャット』に出演

この映画は性的妄想のモダンスリラーであり、世界のトップ集団が属する秘密結社の実態を表現している超問題作。

この映画の撮影直後に監督キューブリックは謎の死を遂げているほど。触れてはいけない秘密結社の真相に近づき過ぎたからとも後に20年程経ってニコール・キッドマンが告白。

そして問題の秘密組織による仮面舞踏会的乱交パーティーのシーンでトム・クルーズ演じる主人公は潜入がバレてしまい
マスクを剥がされる。

この映画はトム・クルーズのキャリアの中でも異彩を放つ作品となった。

役の苦悩はトム・クルーズ自身の苦悩にとなり、その後そのスタイルは彼の定番にもなる。
この作品の次の作品『マグノリア』で見せたように。

しかしそれだけ役者として深みと円熟味を重ねながらアカデミー賞はいつもすんでのところで逃してきた。まるで村上春樹がノーベル文学賞を逃し続けるように。

とはいえアカデミー賞の主役は実は彼であり、2001年911同時多発テロの翌年のアカデミー賞授賞式では彼がテロには負けず映画界が傷付いたアメリカの復興、癒やしの役割を担うという名スピーチも担当。その年もアカデミー賞とは縁遠かったにも関わらず。

そして2005年のスピルバーグ作品への出演『宇宙戦争』で911後のヒーローとして受け入れられ、世界で2番目の高額ギャラの俳優とまさにトップに立った瞬間に彼の凋落は始まります。

きっかけはニコール・キッドマンと2001年に離婚した後の恋人ケイティ・ホームズとの婚約をテレビ番組で好評したときのはしゃぎ様が、明らかに異様の目に映り、当時広がり始めたYou Tubeなどの動画サイトでその醜態は拡散され、嘲笑の的となる。

さらにずっと封印していたサイエントロジーとの係わりもまた、表立って表明し始める。

新興宗教の熱心な代弁者、取り憑かれた狂信者、映画スターとしてのイメージが穢れていくことに彼は気付いていなかった。

しかし2010年代に入りミッション・インポッシブルの続編への出演を思い立ち、世界的ヒーローを演じることでまさかの復活。

ある意味で鋼の精神です。

そして彼の身体を張ったスタントはアクションシーンをもSFをも超えて遂に2013年の『オブリビオン』では、NASAの宇宙ステーションで撮影をした初の俳優となった。

そんなストイックな彼にプライベートで破綻が起きる。

妻ケイティ・ホームズが娘を連れて彼の元から去った。

彼は内面を崩壊させていく。

彼はいよいよドリアン・グレイの魔力、現実にはサイエントロジーのマインドコントロールにより全てを失う。

それでも彼はスクリーンにていまだトップスターとして出続ける。

今年、長年出演を断ってきたトップガンの続編にもなりふり構わず
出演したり、

我々は彼に惹きつけられる。

自分は時の流れよりも強いと。

以上、BS世界のドキュメンタリー「トム・クルーズー永遠の若さを追求してー」のダイジェスト

※このフランスの番組は思いっきりサイエントロジーをカルトとしてネガティブに扱っています。ネットでのサイエントロジーについて否定的な意見は多いですが、何が真実がわからない以上、私は肯定も否定もしません。脱退者への妨害活動、イジメはあるようですが、それはどんな組織にもあり程度問題ゆえ。勿論、カルト集団としてオウム真理教のような明らかな犯罪の事実があれば話は別ですが。

さて、ここからが本編

エゴイストとサディストについて

この2つの言語はなんとなく響きが似ていています。

言葉の意味でエゴイストのエゴとは本来の意味はご存知「自我」
自我自体には否定的な意味は本来はない。
自己を対象とする認識作用ということで、哲学や精神医学で用いられる。どちらかというと肯定的な意味合いが強いようにも感じる。

この言葉が派生してエゴイズム、もしくはエゴイストというと、
「利己主義」「利己主義者」と訳されることが多く途端にネガティブな意味合い全開となる。
もっと分かりやすい言葉が自己チューという自己中心的で他利の追求は眼中にない態度やそういった性向の人物を指す。

漱石が傑作「こころ」でも追求したのがこのエゴイズムについてであり、エゴに従って友人を裏切ったゆえに生涯の罪の意識に苛まれる明治の知識人の姿を描いた。

漱石はそこからの脱却の境地として、「則天去私」を提唱意味は読んで字のごとくなり。

一方

サディズム(英語:Sadism)とは、加虐性欲(かぎゃくせいよく)ともいい、相手(動物も含む)に身体的または精神的に苦痛を与えることによって性的快感を味わったり、そのような行為を想像したりして性的興奮を得る性的嗜好の一つのタイプである。極端な場合、精神的な障害とも見なされ、この場合は性的倒錯(パラフィリア)となる。

サドとはマルキ・ド・サド(Marquis de Sade, 1740年6月2日 - 1814年12月2日)のことで、フランス革命期の貴族、小説家。マルキはフランス語で侯爵の意であり、正式な名は、ドナスィヤン・アルフォンス・フランソワ・ド・サド(Donatien Alphonse François de Sade [dɔnaˈsjɛ̃ alˈfɔ̃ːs fʀɑ̃ˈswa dəˈsad])。

 サドの作品は暴力的なポルノグラフィーを含み、道徳的に、宗教的に、そして法律的に制約を受けず、哲学者の究極の自由(あるいは放逸)と、個人の肉体的快楽を最も高く追求することを原則としている。サドは虐待と放蕩の廉で、パリの刑務所と精神病院に入れられた。バスティーユ牢獄に11年、コンシェルジュリーに1ヶ月、ビセートル病院(刑務所でもあった)に3年、要塞に2年、サン・ラザール監獄(英語版)に1年、そしてシャラントン精神病院(英語版)に13年入れられた。サドの作品のほとんどは獄中で書かれたものであり、しばらくは正当に評価されることがなかったが、現在その書籍は高い評価を受けている。サディズムという言葉は、彼の名に由来する。

エゴイストかつサディストな人は多くいても

エゴイスト=サディストではない。

でも自己チューでドSって人は結構多い。

トランプはサディストではないでしょうが、ナショナリズム提唱を代表にエゴイストとはマスコミで言われてきた。

先のサイエントロジー同様にマスコミが作り上げた評価であり、その真偽は分かりません。
本当の被害者もしくは逆に恩恵を受けた者が彼の性質を局所的に知るのみかと思います。

先のトム・クルーズの伝記はなかなか凄まじいものがありましたが、彼はエゴイストなのでしょうか?ナルシストではある気がするが、エゴイストとは単純に断じられない。

彼は明らかにサイエントロジーに洗脳されて、その思想に基づき、全て良かれと思って行動している。

また、ドリアン・グレイの肖像そのもので、彼の映画俳優としての使命は常に若く強くを追求する限り、彼は意識的に人を傷付けようとか、自己の利益だけを追求しようという意識はない。

ましてやサディストでは恐らくないでしょう。それは彼の隠れた性質で持っているかも知れないが、あまり表面上は感じられない。

役者とは自意識の塊であり、メンツやプライドの権化である。
それはイコールエゴイストとも言えなくないが、美学や信条の追求はそれ自体が必ずしも他人に害悪を与えるものではない。

ましてや俳優の役割は一般人ではなし得ない「こうありたい」という憧れの具現化だとしたら、それへのストイックな追求は世の中の役に立つことになる。
勿論、身の回りの人を不幸にしたり局所的な害悪は多数あろうと。

番組であったように、その追求による全てのツケを自らが請け負ってもめげず、これからもツケをどんどん受け入れる覚悟があるところに人々は魅力される。

最大の魅力は自分は時の流れより強いことを体現していること。

その意味では利他的であるとも言えなくもない。

本編は以上です。前段があまりにも長過ぎてどっちが本編か分からなくなってますが、この作品はエッセイのように見えて結構緻密に構成を組んでいるので論文寄りのエッセイと言えなくもない。

以上

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