不憫の中には「文」がある


雑誌で見たカフェに行くのは、なぜか居心地が悪い。

素敵な門構え。知っている。素敵な店内。知っている。素敵な床には驚いたが、素敵な店主の顔も知っている。ぼくが一方的に知っている。「雑誌で見ましたよ」と声をかけたら、どう思うのだろう。嬉しいのか、恥ずかしいのか。どちらにせよ、「そうですか」としか言いようがないのでは?

クラシックが流れる店内は静かだ。コーヒーのカップとソーサーがカチャリと触れあう音にも気を遣い、ケーキを食べるにもお行儀を尽くさねばならぬ。間違ってスプーンを落としでもしたら、ただちに秘密警察に連れて行かれそうな緊張感が漂っている。

そんなふうに思うのは、読みかけの本の影響だろう。そろそろ読み終えねば、と「臆病な詩人、街へ出る」を開く。詩人の文月悠光(と漢字を一発変換できるのは有名人の証)さんのエッセイなのだが(おととい連れていってもらったバーの名前も文月だったな)文月さんの文章はまるで自分の心の中を書かれているようで恋してしまう(しかし、たくさんの人が同じように恋しているのだからやはりプロ)。

と、思考を散逸するのを捕まえながら読み進めていると、5分と経たずに読了してしまった。そう、ぼくは電子書籍で読んでいたため、終わりが読めなかった。無限にめくれそうなページは突然に「あとがき」という行き止まりにぶつかるのだ。紙の本ではあり得ないことで、「もう少し状況を伺ってから推理しよう」と考えていた推理小説なんかだと大問題だ。同時に読み進めている「星を継ぐもの」は本屋で買ったのだが、紙で正解だった。

と、まあ、こうして当てのない文章を書くことにどんな意味があるのだろう。手紙なら誰かひとりを喜ばせることができるし、日記なら未来の自分が笑ってくれるかもしれない。しかし、ほんとうに誰のためでもない文章は不憫だ。

と、文字にして気がつくこともある。「不憫」の中には「文」がある。調べてみると不憫は当て字で、もとは「不便」であるという。そうなのか。たくさんの届かなかった「便り」を思いながら、この文章をネット上のデブリとして放流することにする。

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