齢、二十三。

この記事は2021-06-13 22:43:02の移載

ぼちぼち社会人にも慣れてきて、あれよあれよという間に3ヶ月目。早いのか遅いのか。濃密なのか実は薄いのか。それは置いておいて最近感じたことの備忘録。

 今日は「光」について。 ひかり、ひかる、コウ。読み方は3つでも感じ方は色々。朝の眩いものもあれば、夕暮れ時の包み込むようなもの、スポットライトのような鋭いもの、ピカピカ、キラキラ、いろんな形容の仕方があるのが、光。日本語ってすごい、1つの単語に無数の形容詞がある。所々意味が重複していると思うが、それでもその形容詞にしか形容できない物事がある。

(今日で齢、二十三になりました!両親に感謝!)


生きている、そのプロセス

教育現場に欠かせない「面談」。どんな人でも場面でも、面談というものは多かれ少なかれあるだろう。面談ってやる側(一般に上司であったり先生であったりする立場の人)からすれば意義があり欠かせないものだが、受ける側にはその意図や趣旨、意味合いが理解されていないことがある。せっかく双方の時間を消費するなら、実りあるものにしたいので、それなりの準備が必要だろう。そして、やる側はその意図を丁寧に伝えることが必要。


 ぼくが面談をする立場なら「光」を受ける側に当てる、そんな時間にしたい。勉強というといつも誰かからやいやい言われてやっていて、自発的にやれている人は少ないのかもしれない。塾に勤めているのでもちろん学習に関することを教えているけれど、個人的に大切にしているのはそのプロセス。


 勉強という1つの手段を通して、あなたが何を考え、それを元にどう行動し、どのような結果が生まれ、どう感じるのか。そのプロセスの中で生まれるものから、所謂5科目ではない学びを得てほしい。


 けれど結局見られるのはその結果で、プロセスは蔑ろにされがち。そこが1番大切なのに。自分とどう向き合っているのか、顕著に出るのに。大学や社会に出た時は正解よりも、どう考えるか、どう皆が納得する解を導出するかということを重視されるのに。

 結果はもちろん大切。当たり前のこと。結果はいつもスポットライトを浴びているから、だからこそぼくがするいわゆる面談では、プロセスの部分に光を当てたい。「あなた」が生きてきて過ごしてきた時間に、等しく光を当てたい。

  話は変わって、先日、オンラインであった社内の表彰式。全17賞・賞金も200万円弱ある、会社にとって一大イベント。そこで表彰されることをしばしば「スポットライトを浴びる」という。アルバイトにももちろん社員にも、等しく表彰のチャンスは与えられている。これもまた「光」に関わることだね。今年、ぼくは該当する賞がなくていろんな人の頑張りを傍観していたのだけれど、表彰されている人は全員知っていたし、昔一緒に働いた人も教わった人もいて、感慨深い時間だった。と同時に「来年は自分も浴びたいなぁ」と思っていた。

 式が進んで、内定者時代に活躍した人が表彰されることに。前に書いたブログに出てきたぼくのポンコツな相棒は表彰されていた。ポンコツと言っているが彼はすごいので、表彰されるのは当然。おめでとう、その一心のみ。そのことをチャットで伝えると、彼から1本の動画が送られてきた。彼の元に送られてきたという、彼の表彰の瞬間を喜ぶ人たちの様子が映っている動画。  


「おめでとう〜」といろんな人に言われている動画。彼は確かにその瞬間、光を放つ存在になっていた。表彰されなくても放ってるけど。

 そして、その時、気づいた。ぼくが生きていて見ている光は、等しく誰かが放った光だということに。勝手に光っているのではなくて、その裏には涙や苦悩や辛さがあって、それらに裏打ちされて、光っていることに。優しい光にも、眩い光にも、光が光たらしめる理由は必ずあろう。

 彼もまた、ぼくの頭では理解できるが、心では理解しきれないたくさんの出来事を乗り越えて光を放っていた。「来年は自分も浴びたいなぁ」という思いは、「来年は自分に深く関わってくれている人に浴びてほしい、そのために頑張りたい」という思いに変化した。

 そして。彼の光を見たことで、表象されたぼくの思いがある。それを記しておく。


 ぼくはぼくに関わってくれている1人1人の「あなた」に、その思いに触れて、感じて、1つずつ歩みを進めてほしい。そしてあなたのその目に映っている光のように、あなたも誰かに光を届けられる存在になれることを知ってほしい。知って、光を実際に届けていることに気付いてほしい。このことを伝えられる人にぼくはなりたい。

 時の流れは早く、心が追いつかない時もある。仕事の時なんてしょっちゅう。そんな時、ポンコツな彼はぼくにいつも光を与えてくれる。ぼくも彼がしんどい時に光を与えられるように。そして他でもない「あなた」にも光を与えられるように。着実に歩みを進めていく。

愛することは生きること

最後に。自分自身を真に愛せるのは自分だけ。自分を愛することは他人を愛すること。だから、これを読んでいる「あなた」には、あなた自身を深く愛して欲しい。愛することは生きることである。 自分が感じたことに恥じることなく、それを誰かに伝えてみてはどうだろうか。万人にわからなくても、わかってくれる人はいる。必ず。少なくとも、ぼくはあなたの全てを理解したいと思っている。心では分かれなくても、だ。

 あなたの良き理解者でいれて、あなたが闇の中にいても、その時に見える「光」で在れるように。そのために今日も明日も自分を愛して、律しながら生きていく。

齢、二十三。

齢、本日で23。バイトも仕事も何もない、完オフの誕生日は5年ぶりで、高校の同級生に誕生日を祝ってもらった。

その後、例の彼と自主的に勉強会をした。プレゼントもくれて、彼のセンスがキラリと光っていたが、別れ際にもう1つのプレゼントをくれた。

 それは、ぼくの会社の同期や諸先輩方からのメッセージをまとめた動画。なんと18分。どんな動画かも露知らず、電車の中で見てしまったその後はご想像にお任せ。選曲も素晴らしかった、さすが、よき理解者。


 今まで散々自分を愛しましょうね、と言いながらも「誰からも見られてないのでは?」と苛むこともあったぼく。全然そんなことなかった。多忙な中送ってくださった多くの人からのメッセージを見て、みなさんが気にかけて、見てくださっていると気付いた、素晴らしき人生。一人では生きていないと改めて気付いた、素晴らしき人生。

    大人になること、齢を1つずつ積み重ねることは、「大切」が増えること。そして、楽しいこと。大人って、意外と楽しいじゃん。ここで時を過ごしていることに、そして今までの人生に一片の悔いなし。



 生きる貴重な時間をぼくのために割いてくれた彼と、動画を送ってくださったみなさんに心からの感謝を。そして、これからその恩を返していくために自分が善く変わっていくことを誓う、睦月十三日の夜。


読んでくれた「あなた」、いつもありがとう。今日も明日も佳い日を送ってね。

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