光溢れるパラダイスに寄せて

《閃光ばなし》と《パラダイス》を観劇してきましたので、その感想というか、観て思ったことを少し書こうと思います。
内容を細かく書くことはそんなにないと思いますが確実にネタバレにはなります。色々記憶違いとか解釈違いとかあるかも知れません。あと、暴力とかその辺りの話もしますので気分の良い文章ではないです。いずれにしても、サラッと流し読みしてくださるくらいでちょうどいいかと思います。





9月29日、《閃光ばなし》昼公演と《パラダイス》夜公演を観てきた。どちらも原作のある舞台ではなかったので予習らしい予習といえば公式サイトであらすじとキャストさんのチェック、開演前にパンフレットを数ページめくるのが関の山だった。そもそも開演直前なんてこちらも緊張しているのだからパンフレットをめくったところで内容など入ってくるはずもないのである。ただ、事前に得た情報から『どちらの舞台も決してやさしいものではない』という漠然とした予感だけはあった。それが《優しい》か《易しい》かは解らなかったし、多分その両方だろうとも思った。
社会的弱者、貧困、負け組、底辺、下層階級ーー二つの舞台はそういう人たちの話だ。そして、観る側の人間が今どんな環境に置かれているか、どう生きてきたかで解釈も受け取るものも全く違うであろうこの作品たちはまるでオセロだった。白か黒かで一刀両断されがちな現代の片隅で抗うように、場面も登場人物の立場も心情も目まぐるしく引っ繰り返し引っ繰り返される、オセロみたいな物語。
両方の会場で一体どれくらいいただろう、『これは、自分の話だ』と感じた観客は。


“子供に暴力を振るわない大人っているんだろうか”

これは私がずっと疑問に思っていることである。
『いるに決まってるでしょ、何言ってんの?』という答えに首を傾げる程度には、親(実親・継父母限らず)から子あるいは教師から生徒による虐待事件は巷に転がっている。
ならば大人同士の暴力沙汰は? そんなものはそれこそ日常茶飯事だ。譬え自分の生活とは無縁だとしてもテレビをつければ5分間のニュースのどこかに紛れ込んでいる。
私が暴力というものに直面した最初の記憶は、3歳か4歳頃だったように思う。ある日、母の買い物について行きたいと泣き喚いていたら我儘が過ぎると父親に殴られたのだ。掃除機で。
…おっと、文字にしてみたら自分でもちょっとびっくりしてしまったぜ。掃除機て。
その後どう治まったのかは覚えていない。ただ、殴られていたときの映像だけが映画のワンシーンのように脳みその隅っこの方にこびりついている。あれから何十年も経ってるのにずっと残ってるからある意味大したものだなと思う。どうせなら、ライブで推しが語った言葉とかの方をずっと覚えていたいのに。
その騒動からしばらくして掃除機が壊れたので家族で電器屋さんに行った。帰りの車の中で父が私を見ながら冗談めかした口調で『お前のせいで掃除機が壊れたから新しいのを買ったんだ』と言った。私は何を言っていいのか分からず、“そうか、私が悪い子だったからいけなかったんだな”と思いながらヘラヘラと曖昧な笑みを浮かべていた。我ながらアホな子供だ。何がアホだったって、『掃除機が壊れたのは自分が我儘を言ったせいだ』と本気で思い込んでいたことである。確かに随分と泣き喚いた覚えがあり、親にしてみれば聞き分けのなさや五月蝿さにさぞかし苛立ったことだろう。だが、子供をぶん殴る道具にされたら掃除機だって壊れるし、壊したのは誰かと問われればそれは紛れもなく父なのだ。しかし、このとき深く植え付けられコンクリートまで流され固められた《罪の意識》は、この後数十年に渡って毒のように私の人生をじわじわと蝕んでいった。
思い返せば父は絵に描いたような借金まみれのほぼ無職(自営業と称してはいたが未だに何の仕事をしていたのか分からない。晩年は完全に無職だった)おまけに病気持ちという役満級モラハラDV男であったが、365日24時間そうであったかと言うとそういう訳でもなく、それなりに家族団欒のひとときもあった。ただ、彼の怒りのスイッチ(というより最早地雷であった)はどこにあるか分からず、5分前に笑っていたかと思ったら突然激怒するとかあるある過ぎたので、いつも見えないスイッチを踏まないようにビクビクおどおどしていた。家庭で上手くやれない子供が学校で上手くやれるはずもなく、理不尽な目に遭うこともしばしばあった。まぁ、そりゃそうだろうなと思う。ただでさえ鈍くさい子供が人の顔色ばかり伺いながらいかにも“殴ってください”って顔で歩いていれば、悪ガキや意地の悪い教師の標的になるのはあっという間だった。
大人が一人ろくに働かない、そのくせ見栄だけは人一倍張って無駄に高い車を乗り回すなどしていたせいで我が家はいつでも貧しかった。“どん詰まりの吹き溜まり”ーー閃光ばなしのメインとなるその場所の空気を知っている。時代が変わったって貧しさが付き纏うところの空気が澄んでいることはない。昔は金銭的な貧困だけが貧しさなのかと思っていた。しかし、財産の有無は貧困という事象の一部分にしか過ぎない。

“You play with the cards you’re dealt..Whatever that means”
(配られたカードで勝負するっきゃないのさ、それがどういう意味であれ)

と彼のスヌーピー氏は言った。真理である。だが、社会的強者と弱者を較べたらそれぞれが持つカードの枚数の差は桁違いだ。弱者が切れるカードは少なく、出したところで簡単に相手の強いカードに捻じ伏せられる。稀にジョーカーのような切り札を持っていたとしても、使い慣れもしない飛び道具で一発逆転なんて展開はそれこそ宝クジに当選する確率とそう変わらないのではないかと思う。
つまるところ、配られるカードが少ない=選択肢が少ないということであり、弱者の選択は得てして悪手になりやすい。と言うより、悪手だと解りながらか解らずか、いずれにしても否応なしに手持ちのカードを切らざるを得ない。選択肢の少なさによる想像力の幅の狭さ、それこそが貧困の最大の原因なのだと思う。
閃光ばなしの主役、佐竹是政が元婚約者・白渡由乃から借金をしたとき、そして『軍資金はある!』と力技で無茶な経営をしていたシーンを観ていたとき、私は『やめてくれ、もうやめてくれ』と祈るような気持ちだった。例え架空の世界であっても、演劇の登場人物でも、一直線に破滅への道を駆け抜けてく様を見るのは苦しかった。でも、“どん詰まりの吹き溜まり”で生きる人間が『負けてたまるか』という気持ちで顔を上げていくには、弱いカードだろうが何だろうが叩きつけてハッタリをかますしかない。

『私、もう終わってる人間なんです』とパラダイスの望月道子は言った。借金を重ね、詐欺グループ仲間に『風俗やればよくない?』と言われるも、そんなものはとっくに通り越したと半笑いで自嘲しながら溢した言葉だ。そうやって自分を貶め、“もう、これしかない”と無我夢中で電話を掛け続けた彼女は、やがて詐欺を成功させる。望月の借金の理由は劇中では明かされていない。風俗嬢となっても尚、返し切れず詐欺に手を染めてしまうまでに膨れ上がった借金とは何だったのだろう。彼女の電話を掛け続ける姿は詐欺師と呼ぶにはあまりにも真面目でひたむきで、愚直な程に一生懸命だった。何て、ああ何て“搾取されるのが似合う子なんだろう”、と思ってしまった。気が弱く視野が狭くNOが言えないのを優しさだと言いくるめられて養分を吸い尽くされるタイプの典型をまざまざと見せられ何だか笑いそうになった。鴨がネギ背負ってやってくるなんてレベルじゃない、もはや自ら鍋に入ってくるのと同じくらい“どうぞ食い物にしてください”と表情が、一挙手一投足が言っていた。少し離れて見ればその姿が、思考がどれほど歪んでいるか一目で分かるのに、当事者は露ほども気付かない。“どん詰まりの吹き溜まり”にいる人間は得てして俯瞰の目で自分や周りを見られるほどの余裕を持っていないからだ。
私は運良く風俗に売り飛ばされる(世の風俗従事者が全員そうだと言っている訳ではない。本人が就きたくて就いている仕事であるならいいと思う)こともなく生きて来られたが『漁船に乗せるぞ』と言われたことはある。うーん、さっきから文字にするとスパイス効きすぎ感あるな……まぁ、その頃には私もすっかり捻くれていたので『やれるもんならさっさとやれよ』くらいにしか思ってなかったが、父が他界して何年も経った頃に母にその話をしたらギョッとした顔で何度も『ほんとに?』『それいつ言われたの?』って訊かれたので『あ、これ一般的な尺度で考えたらマジでヤバいこと言われてたんやな』と初めて気がついた。やはり、だいぶポンコツである。だが、それ以来、母は私が遅く帰ったり何か新しいことを始めたり旅行などで家を頻繁に空けても特に口を出してくることは殆どしなくなった(何だよもっと早く話しときゃよかったなと思った)。断っておくが、漁船のイメージが悪くなるようなことを言いたい訳ではない。問題は自分以外の誰かに対して『お前など簡単に売り飛ばして金に換えることができるのだ』と言ってしまえる人間がこの世にはいるということである。そして易々と搾取される人間もいてしまうということである。
『何故抵抗しないのか』『逃げればいい』と言う人たちがいる。するのだ、抵抗も逃げようともして、その度に捕まって叩き潰される。それを数回繰り返せば気力や体力は底をつき、搾取のサイクルは簡単に出来上がる。『不満を言いながら何かを変えようともしないのは案外この暮らしが気に入ってるからだろう?』と啖呵を切って権力や貧困やもどかしい現状に抗い続けた佐竹兄妹の方が異端なのである。何故なら人間は慣れる生き物だから。暮らし向きに不平不満はあっても大抵の人間は慣れてしまえるから思考さえ止めてしまえば何となく長いものとか煙とかに巻かれて生きていけるのだ。
異端者の佐竹是政は“どん詰まりの吹き溜まり”の人たちにとって確かにヒーローだった。自分たちでも変えられなかった何かを変えてくれるのでは、自分たちでも何か大きなことを成し得るのでは、という夢を住人たちに与えバイクタクシーの商売が繁盛していく様は観ていて実に痛快だった。シーンとしてはほんの一瞬と呼べるような短さだったが、まさしく閃光のような眩しさがあった。そして、あっという間に消えた光に住人たちは呆気なく失望し、途方もない借金を抱えた是政だけをスケープゴートにした。惨いけれどリアルだな、と思ったし自分があの中にいたとしたら果たして是政の味方であれただろうかとも思う。住人たちの薄情さを責められる人間がいるとするなら、それは完全に他人事だからに他ならないだろう。どんな境遇でも立場でも、自分や家族の生活を、生命を、一番に考え護ることは決して悪ではない。

『これは、お前の回想だ。お前が思い出す必要があって思い出しているんだろう?』と佐竹是政の父・佐竹是一は言った。
思い出したくない過去なんか山のようにある。思い出したってちっとも楽しくないし何なら苦しかったしどうしてこんな欠陥だらけで私は生きているんだろうってずっと後ろめたさを引きずっていた。
私は多分、良い子ではなかった。同性の家族としてきっと共感や同意が欲しかっただろう母とは考えも好みも合う部分が少なかった故に反対意見を言うことがしばしばあったし、父は母の弟や兄に対する態度と私へのそれが違いすぎると怒りはしたものの『ベルトやペットボトルでぶん殴ってくる人に庇われたところでな…』と素直に喜ぶこともできなかった。母の興味と優先順位が弟>>兄>>>>>私なのは中学に上がる頃には気付いていたし、父と私は弟と仲が悪かったから、両親がそれぞれ不都合な箇所を私で埋めようとするたび『頼むから巻き込まないでください』と思っていた。どちらに対しても賛同も否定もできず、それでいてそれぞれとの楽しい時間の記憶も確かにあることがずっとしんどかった。母とあの本が面白かったとかこの曲がいいねとたまに重なる好きなものを分かち合ったこと、父と一緒にイラストブックの絵を模写したり年賀状ソフトでデザインを考えたこと、辞書の使い方を教えてくれたのも父で一抱えもある大きな辞書を捲っては物の名前について色の名前についてテレビから聞こえる言葉を見つけて遊んでいた。30を越えた頃、ふと『あの人たちは私に甘えていたのだろうか』と思った。それが正解かどうかは判らなかったけれど、自分の落とし所として何となくしっくりきた。
『許してないけど、憎んでない』ーー佐竹是一が出奔してしまった妻へ向けた言葉である。だが、伝言を頼まれた是政は再会した母にその言葉を届けることができなかった。子供へ託すには、あの言葉は些か酷すぎでなかっただろうか。大人が様々な感情をどうにかようやっと飲み込んで出せた答えを子供に軽々と渡すなんて姑息だ。あれは何としてでも是一が自分で妻に伝えるべき言葉だったと思う。
でも、それさえ除けば全く以てそうなのだ。許してないけど憎んでない。今までのあれこれを許せるほど心は広くない。そうかと言って、恨みつらみ妬み嫉み僻み憎しみなんてものを抱えて生きられるほど精神力が強けりゃ家族だって何だってもっと簡単に捨てられた。どの方向にも気持ちを振り切れない甘さは丸山隆平氏演じる梶浩一の持つそれとよく似ていると感じた。
“無敵の人”と呼ばれる人たちがいる。己の人生の遣り切れなさに納得がいかず、現実を受け入れることもできず、凶悪犯罪を起こして無差別に他人を巻き込む人たちだ。私は事件を起こした人たちの背景を殆ど知らない。だが、似たような事件があるたび報道などで拾う情報はテンプレのように『家族と不仲』『友人がいない』『職場との人間関係が上手くいってなかった』『精神的に不安定な部分がある』というワードが出てくる。“無敵の人”を擁護するつもりは毛頭ない。自分の人生が上手くいかないからって犯罪を起こして良い理由にはならない。しかし、“死にたいなら一人で死ね”とも言えない。だって、あの人は私だったかも知れない。私だって、どこかでトリガーを引いてたら“無敵の人”になっていたかも知れない。切っ掛けなんて、多分想像以上に近いところにいくつも落ちている。
パラダイスの終盤、青木は梶へ銃口を向け『ざまあみやがれ!!』と笑いながら言った。梶に刺されて瀕死状態の辺見を、仕事で精神的に追い詰められたにも関わらず診断書を出してくれなかったという理由で病院に火をつけた“無敵の人”の中年男を、梶の代わりに指を落とし多量の出血で既に事切れていた真鍋すらも何の躊躇いもなく改造銃で撃っておきながら、青木は望月道子に脱出ルートを教え、剰え金まで渡した。あれは何? 『ざまあみやがれ』と容易く引き金を引ける人が望月に対して見せたのは果たして優しさなのか気まぐれなのか同情なのか。どれも正解なのかも知れないし全部違うような気もした。ただ、どんな理由でも私は望月に逃げ切って欲しいと思った。握った手の中の金が、今後の彼女の人生に少しでも良い方向で役に立つものであればいいと願った。

今、私は少しずつだが習い事をしている。これからの世の中で役に立つかどうかは分からないが、技術を身につけいつか誰かに伝えられたらいいと思いながら学んでいる。そして、それは出来ることなら“どん詰まりの吹き溜まり”にいるような人たちに伝えていきたいと思っている。『生きようとする力があちらの方が強かった』と対岸にいる人たちを見て諦めることのないように、どんな場所にいたって手持ちのカードを増やす手段はあるのだと信じていけるように。でも、そんなのは正直はっきり言って建前だ。
『俺が“みんなのために”と言うとき、そのみんなは俺と政子のことだ!』と叫んだ是政さん、私は多分あなたよりひどい。私は自分と踏みつけられてきた過去の自分を何とか救いたくて、そのためだけに今やれることをやっている。
『相手をダマすんじゃない。自分をダマすんだよ。お前たちは何者でもない。逆に言ったら何者でもなれる。そういう可能性を秘めてるんだよ、お前たちは』ーー梶浩一の言葉が今でも心臓にざっくり刺さって抜けない。抜くつもりもない。そうだ、私は何者でもない。これからも、何者にもなれないと思っている。でも梶さん、私はあなたとは違う方法で、一人でもいいから何者にでもなれる人を見つけたい。これは多分、私なりの“持っている人たち”への復讐です。いつか成就したなら、そのときはその復讐譚を戯曲にしてやろうか。きっと一世一代の大喜劇になるんじゃないですかね。


最後に。
福原充則様、赤堀雅秋様、今回の舞台に安田章大氏・丸山隆平氏を起用してくださり本当に有難うございました。彼らを通して、なかなか足を運べずにいる演劇に久々に触れる機会を頂けましたこと、誠に感謝しております。
両舞台から、そしてキャスト・スタッフの皆様から頂いたエネルギーをいつかお返しできるよう、もうしばらく私もこの世界で頑張っていきます。


人生はいつだって一瞬の光が駆け抜けるパラダイスだ!

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