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月とお兄ちゃん。壱。

fuuです。


月に囚われ消耗し続けていたエネルギー。

それを手放してこそ、
はじめて自分の内側にあった
太陽の種が光り輝き始める。


私にとって最大の月だった兄の存在。


とてつもなく長い年月がかかったけど、
数年前にやっとその月を手放した。


手放すとは、頭だけで考えて
できるようなものではなかった。

自分で飲み込み、腹に落とし、
それを消化吸収し、
やっと外に出せるものだった。

手放すとは、
とても時間がかかるものなんだな。。


月があったからこそ、
自らの太陽の存在に
自らで気づける仕組み。


光と影のそんなお話です。

◇◇◇



むかしむかしの話です。


子供の頃、私の家は七人家族だった。

おじいちゃんとおばあちゃん。
お父さんとお母さん。
お兄ちゃんと私と妹と。


振り返ると目に浮かぶのは、
大きな山々の連なりと
田園がひろがる田舎の風景。
すべてがアナログだった頃の
のどかな昭和の暮らし。

祖父母はともに大正生まれだった。

祖母には兄弟がいたらしいが子供の頃に
全員病気で死んでしまったらしい。
末っ子の祖母だけが一人残った。

あとで聞くところによると、
祖母は一人娘だったにもかかわらず、
自分の母親にちっとも可愛がられず、
子供の頃からいつも厳しく
怒られていたそうだ。
そして自分が家の跡取りとなり、
そこに祖父が婿養子に入った。


それが私の知っている
私のルーツのはじまり。


祖父母には残念ながら
子供ができなかった。


昔は家系の存続の為に
他所から子供をもらう事も珍しくなく、
そこで祖父の甥だった私の父が
18歳の時に養子に入った。


父は勉強が好きだったらしく、
念願の大学に合格し
入学金も納めていたのにもかかわらず、
大人の都合により寸前で断念させられ
祖父母の養子になった。
父は養子に行くのが嫌で泣いていたと父の姉が教えてくれたと母から聞いた。


当時の田舎では山を持ってる事が
大きな資産価値の一つで、
養子に入ったその日から若い父は
山仕事をさせられた。
祖父母には父が下手に会社勤めをすると
知恵がつく、家を好き勝手にされたら困るという考えがあったようだった。
これから時代が、社会が、
どんな変化を遂げていくのか?
どうやら祖父母にはそれを見抜く
先見の目は無かったようだ。



私が中学生の頃の父は、
夏は山に行き、
冬は地元の酒造りで杜氏をやっていた。
合間に米作りもし、ほぼ365日何かしら
働いていたと思う。

だいぶ後に縁があって
林業のノウハウを生かせる会社に
勤める事ができ、
空いた時間に山仕事や米作りを
する暮らしになった。
母曰く、会社勤めのおかげで
父の体や収入もやっと楽になり
ありがたかったと言っていた。


普段は無口で
自分の感情をあまり表に出さず愛想もなくお酒を飲んでやっと本音を言うような
不器用な父だった。
昨年、父が亡くなった。
父を思い出すといつも黙々と仕事をする
父の後ろ姿が目に浮かぶ。


ずいぶん晩年になってから父は母に、
自分は山が好きだと語っていたらしい。
最初のスタートこそ不可抗力であったものの、不器用で寡黙な父の性格に山と向き合う仕事はどうやらあっていたらしい。

山は父にたくさんの恵みを与えてくれた。

父は知る人ぞ知る山菜採りの名人で、
春になるとワラビにゼンマイ、
タラの芽などをたくさん収穫してきた。
どうやら父しか知らない
秘密の場所があるらしかった。

子供の頃は秋になるとあけびや山葡萄、
今では全く摂れなくなったマツタケも。
正月の門松の素材もすべて山から。
時には野兎を捕まえてきた事もあった。


8年前に父が事故にあった後、必要に迫られて母が土地登記簿謄本の確認の為に山へ行った時のこと。

この山で18歳から黙々と仕事をし続け、
本当だったらこれからも山に入り続けるはずだった父の事を思うと泣けてきたと母は言う。


不慮の事故で
意思の疎通不可能になった寝たきり父を
何年も介護する母をそばで見ていて、
子供にはとてもじゃないけどわからない、
父と母。二人だけにしかわかり得ない歴史と想いがあるんだろうなと思った。


母は父の事を
元々好いた惚れたでは全く無かったけど、
お互い同じような境遇の中で子を持ち、
同じ時代を共に生き抜き、
困難を二人で乗り越えてきた
『同志』という言葉がぴったりだと
父が亡くなった後、そう笑って私に言う。



◇◇◇◇◇



母は父と5歳違い。

祖母が娘時代の母に白羽の矢をたて
縁談を持ちこみ、
自分の母親が困り果てた様子を見かねて
嫁いできたようだった。
母は18歳だった。

母には歳の近い兄弟もいて、お兄さんのお嫁さんや子供たちも同居し、父親は大工の棟梁だったので若い衆の出入りも多く、実家はいつも人の活気がある暮らしだったそうだ。


そして母は、
恐ろしいほど山奥にある、
しかも旧生活様式を引きずった
大正生まれの権力者のいる元へと嫁いだ。

自分と同じような境遇の
まだまだ世間知らずで、
頼りなさそうで無口な青年が
自分の夫になった。


母曰く、
あの頃は祖父母には絶対服従で
自分たちが自由に使えるお金も発言権も、
ましてや力も一切無かったと言っていた。
嫁いだばかりの頃、実家の方角を眺めては今頃皆んなどうしてるのかな…帰りたいな…といつも思っていたそうだ。

今から思うと本当にいつの時代の話??
と聞きたくなる。
1960年代半ばの頃。
世間から隔離されたようなド田舎では、
そんな家系に翻弄された人たちの話は
身近に山ほど転がっていたようだった。


祖父母の権力は絶対で、
何よりも世間体が命。


祖父母たちは自分たちの都合で
私の父母を連れてきたにもかかわらず、
自分たちの家で勝手な事をされないように
監視しながら自分たちの支配下に置いた。



◇◇◇◇



父と母は結婚して1年半後に兄を授かり、
その3年後に私が生まれた。


祖母は自分が子供を産めなかった負い目が
ずいぶんあったようで、
母が妊娠する前は前で、
産まずめと違うのか?いつ出来るのやら!と思いっきり自分の事は棚に上げて母に面と向かって言い、近所の人にもそう言いふらしていたそうだ。

子供ができたらできたで、
今度は女の嫉妬がメラメラしたのか、
母の子育てにダメ出しをする。

そして母の言動のあれこれが気に食わず
それについての悪口や、
子供を産んで無い自分がいかに
子供の世話をよくできてるかを
近所の人にアピールするのことが
日常茶飯事だったそうだ。
話を聞いてると私だったら、
間違いなく耐えられない案件だ。


当時、
祖母は近所の女衆たちをまとめる
ボス的な存在だった。

皆んな祖母の言う事は表向きは
話を合わせても、
祖母の本質を分かる人には
分かっていたようで、
後からは母は近所の人に、
あの人(祖母)とうまくやれる人は
よっぽどのバカか、
よっぽど賢い人しか務まらないと
言われたと教えてくれた。


ずいぶん経ってから私が、
なぜそんなひどい環境に我慢できたのか?
と母に聞いたことがある。

あの頃自分たちに力が無かったけど
乗り越えられたのは、
自分の母親の存在が
大きかったと言っていた。


母の母は明るく働き者で、兄弟みんなに対して平等な人だったそうだ。
末っ子の母がお手伝いするといつも
ものすごく喜んでくれて、
自分は小さいけれど一人前として
認められてる感じがして子供心に
とても嬉しかったと母は言っていた。

そんな母も娘の私から見て、
いつも明るく働き者の女性だった。



◇◇◇◇◇



兄が生まれ、
祖母は初孫に恵まれたにもかかわらず、
2、3才の男の子が自分の思い通りにならないのが面白くなかったのか、
女の子の私が生まれた途端、
母から取り上げた。


私の幼い頃の記憶は、
いつも祖父母と一緒。子供の頃、
寝る前に哺乳瓶に入れた飲み物を
私のもとに届け、そっと去っていく母の
後ろ姿を今でも覚えている。
その頃は大人の事情もわかるはずもなく、
母は私の事を好きじゃないのかなぁと
ぼんやり思っていたことも覚えている。



母から私が赤ちゃん時代の
こんなエピソードを聞いた。


ある時に、
赤ちゃんの泣き声(私)を耳にした
兄が不思議に思ってあれは何?と
祖母に尋ねた。
兄をなるべく母親のところへ
行かせたくない祖母は、
あれは猫の声だと兄に答えたらしい。
それを聞いた近所の人は、
この兄弟は将来いったいどうなる事か!
とゾッとしたらしい。

こんなこともあったらしい。

祖母はいつも前掛けのポケットに
小銭をジャラジャラさせていた。
父や母の言う事を聞くよりも
お金がある自分の言う事を聞いた方が
得だと兄にいつも言っていたらしい。
そしてもともと生まれつき
好奇心旺盛な性格の兄が気に入らず、
近所の大人しい男の子とばかり比較しては兄を諌めてばかりいたそうだ。


祖母の兄妹分断作戦がはじまる。

必要以上に兄を悪者扱いし、
必要以上に私を猫可愛がりした。


果たしてその行く末はどうなったのか?


物事にはなるべくして
そうなってしまうルーツが必ずある。

現実に起こる問題には
必ずすべてに原因がある。



つづく。



fuu😌

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