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命について

今日、鳥山明先生の逝去のニュースを聞いた。

気がついたら、自分と近い世代の人たちの訃報をきく歳になってしまった。自分も歳を重ねてきたということだ。そして、自分にもその時がやがて来ることもかなり確かな感覚として持つようになってきた。これも人の定めだとは思う。

長生きは人にとって良いことなのだろうか、悪いことなのだろうか。私にはよくわからない。瀬戸内寂聴先生はあまり長生きをするもんじゃないという趣旨のことを言っていた。私が生きている間にその域に達することが出来るのだろうか。難しいとは思うが、せめて今より少しでも瀬戸内寂聴先生の悟りに近いところまで近づきたいとは思う。

人生50年という言葉があるが、それはあながち間違いでは無いと思う。50を過ぎた頃から、身体のあちこちの部品が耐用年数を越えた感覚がある。これからは、そういったところをメンテナンスしながら命を長らえていくんだろう。ただ、そういう形で命を長らえることが良いことなのか悪いことなのか。それは私にはわからない。ただ、自分はできる範囲で頑張って生きていく。それだけだ。

自分が若かったとき、こんな感覚は全くなかった。寿命などはるか先にある物だし、それよりも重要だと思う課題が山のようにある。だから、事故死は気にするが、基本的に問題なく長生きできるんだと思っていた。

でも、実はそうでもない。

人間は、いとも簡単に死んでしまう。事故に遭うこともあれば、病で急にこの世を去ることもある。確率的には長生きになったとはいえ、個々の命については相変わらず危険と隣り合わせのままだ。私も明日死ぬかもしれないし、100まで生きるかもしれない。平均余命という考え方があるのはその通りだが、個々の事象は確率とは切り離して考えないといけない。確率が低くても起きることは起きるのだ。

鳥山明先生が亡くなったのは、そんな個々の事象の一つだ。人は多くの場合は長生きするんだけど、全ての人が長生きするわけでもない。自分がいつ旅立つかは、誰にもわからない。ただ、起きた事態を前に呆然とすることが自分に出来る精一杯のことだ。

生きることは大事だ。そして、同じぐらい死ぬことにも意識を向けないといけない。生きることだけに意識を向けていると、当然旅立つ人たちを笑って送ることなんか、出来るわけがない。

自分の死を現実の問題として認識するようになる。多分、多くの人はこれを無意識に避けていると思う。それはそうだ。そんな事、考えたくもない。でも、考えないといけない。それは、今日を生きていることを意味あることにするために必要な事だ。無為に生きて無為にこの世から旅立つなんて、辛すぎる。

だからこそ、漫然と日常を送るのではなく、日々、大事に生きていくべきなんだろうと思う。明日いなくなることを意識しながら。

私は鳥山明先生の歳まで生きることが出来るのだろうか。瀬戸内寂聴先生の年まで生きることが出来るのだろうか。それとも、そう遠くない未来にこの世を去るのだろうか。

わからない。

でも、せっかく生きているんだから、自分に出来る精一杯の人生を全うできればと思う。

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