労わる虚無


・早く帰ってふて寝したら変な時間に目が覚めてしまった。

・note開いたら「こんばんは。お体にお気をつけくださいね。」と書いてあった。なんで急に体を労ってくるんだろう。ここあんまり読んだことなかったけど毎回違う文章なのか。深夜4時って変な時間だから「こんな時間まで徹夜で何かしてた人」という想定で設定されたメッセージなのかもしれない。ぐっすり寝た後なので違和感しかない。

・「労られた」と思った。だが実際にはプログラムどおりの定型文が吐き出されただけである。この瞬間、誰も私を労ってなどいない。向こう側に実際の人はいないと頭ではわかっているのだが、それでも心は微妙に動く。欺かれているこの感じがあまり好きではない。アレクサもたまに「お疲れ様です」とか言ってくるが「お前に何がわかる。疲れの何たるかも知らない機械の分際で」と悪態をついてしまう。イラつきつぎだろ落ち着けよ。

・この程度の単純な機械奉仕は結構前からある。AIのことはよく知らないが、たぶんやつらの進化に伴い人間の生活にこういう戯文は侵食してくるだろう。実態のない虚無に欺かれ続ける暮らし。考えただけで眩暈がする。AIを「やつら」と呼んでしまったことに敗北感すら覚える。もうこんな世界はいやだ。早く天に召されたい。

・言葉と中身の一致に、異様にこだわってしまう。言葉が全てを表せるとは思わないが、せめて近似値ではあって欲しい。だからこんなくだらないことにいちいち癇癪を起こす。相手が人間ならなおさらだ。

・上司から「No because...の否定だけよりは、Yes but...の話法で伝えるようにしましょう」とチャットが来たが、私はこれにすらYesと答えられなかった。言い方がキツいという課題があるのは理解している。だが、この話法だけはどうしても受け入れられない。自分がYes but話法を使われるのがなによりも嫌だから。

・Yes/Noを曖昧にされると混乱する。結局どちらなのかがハッキリしないと前に進めない。誤解のリスクも上がるではないか。だがそれは私だけなのかもしれない。少なくとも少数派なのだろう。多くの人にとっては相手の本音より偽りの肯定の方が心地よく、円滑なコミュニケーションという視点では、欺くことが正の場合がある。いわゆる優しい嘘。だが私にはどうしてもできない。苦しい。

・結局わがままなのだ。自分をしなやかに曲げられない。言葉の正確性なんかより、その場の平穏の方がよほど大切ではないか。むしろ言葉なんて表面上の問題に過ぎない。

・言葉で思考しているから、妙に重く受け止めてしまうんだと思う。でもみんな言葉で思考してるんじゃないの??それすら思い込みなのかもしれない。やっぱり大した問題だよ、言葉。違うの??もうなにもわからない。

・ぐだぐだ言ってるが、自分の至らない点を指摘されてゴネてるだけなのかも。ガキだね〜

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