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「アンという名の少女」をみて

毎週日曜日の午後11時に「アンという名の少女」が放送されている。

原案はモンゴメリーの「赤毛のアン」

最初は「赤毛のアン」のつもりで見ていたが、「あれ?」と思うところが多くなり、抵抗感があった。今は楽しんでいる。

しかし、思っていた以上に内容は重い。

パート2以降は重い。

いじめ、LGBT、黒人への差別、ネイティブアメリカンに対する偏見などなど

しかし、アンは、偏見を持たず、多様性を受け入れるアンの感性のすばらしさに感服する。アンはグリーンゲイブルスという居場所にたどり着くまで、孤児院や引き取られた家での辛い生活のなかでも希望を捨てないために、また、生き抜くために小説という空想の世界で自分を守った賜物なのかなと思う。(アンは、空想していたことで逃避していたと自分を責めることもあったが、ゲイである友人に「その時間があったからこそ、君は僕を受け入れてくれた」というシーンが印象的である)

それにしても、アンに対しての町の人たちは、いまだに冷たい。

世間の風がつらく冷たかろうが、マシューとマリアは、アンを守るためにだんだん強くなっていく。アンが来るまでは、必要以上に外の人たちと関わりをもたず、目立たずにいた二人が、愛する人を得たことで、今までの自分の枠を乗り越えて強くなっていく姿はたのもしい。そして、人はいくつになっても変われることを教えてくれている。

昨日の放映を観て、私は初めて「アカディン」と言葉を知った。

そして、なぜ、カスパード家に手伝いに来ている少年がフランス語を話していたのか、なぜ、アンと同じ年ごろなのに学校に行っていないのか?その疑問がようやく解けた。

プリンス・エドワード島もまた複雑な歴史がある島ということを知った。

次回は来年に入ってから、展開が楽しみである。


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