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江戸の町を訪ねて

昔、銀座から東京駅を目指して歩くつもりが道をそれたら、小伝馬町付近を歩いていることに気づいた。吉田松陰ゆかりの地ではないかと感動してしまい、そのまま次はなにがあるかとワクワクしながら歩く。途中、地下鉄の駅があったので、ま、疲れたら地下鉄に乗って帰ればよいと思っていた。しかし、途中から地下鉄らしきものが見当たらない。かといってバスに乗る気にはなれず歩く。頼りは道路標識のみである。浅草、上野と続き、右折もしくは左折すれば浅草寺や上野公園に出られたはずだ。がしかし、もう少し歩きたい。てくてくと歩いていると、足には豆ができた。信号で立ち止まると足の疲れがどっと。それでも足を半分引きずりながら、歩くと「三ノ輪」という表示。ここまで来たらとことん歩こうと思い、三ノ輪橋まで歩いた。

その後は、お茶をして三鷹にある鍼に治療を受けるために帰った。

都電の三ノ輪駅に、区の施設で小松原刑場の展示をしていることを知り、翌週、再訪した。

再訪する前に、調べているうちに、三ノ輪橋の近くにあるJR南千住駅のそばには、首切り地蔵や小塚原刑場跡である。そこは吉田松陰の最期の地である。ますます興味がわいた。また、近くには、上野寛永寺の黒門があるということである。

これはこれは再訪しなくてはと思った。

小松原刑場跡の展示では、山田右衛門が使用した刀が展示されていた。日本刀より太く大きかった。重量もあるだろう。代々続く山田右衛門という人たちは、この刀で一体何人の人を斬ったのだろう。

その後、元寛永寺の黒門を見に円通寺へ行く。上野戦争で戦死した彰義隊の戦死者を弔っており、当時激戦地となった上野寛永寺の黒門を移築したとのこと。そこには当時の銃痕が残っているということなので、ぜひ見たいとおもったが、よくわからなかった。

そういえば、円通寺の入り口には、初代の征夷大将軍である坂上田村麻呂が開創したとの看板があった。蝦夷を征服するために総指揮官として任命された坂上田村麻呂。真実はわからないが、東征に行き、敵方の阿弖流為、母礼に出会うことになる。その後、阿弖流為たちをとらえ京へ帰るのだが、田村麻呂は、朝廷に対して彼らの命ごいをしている。残念ながら彼の願いは受けられず、阿弖流為たちは処刑される。首まで埋められ、衰弱し死ぬまで放置されるという刑だったと何かで見たような気がする。

話を戻す。

その後、吉原が近いということなので、吉原経由で帰ろうと思った。見返り柳を通過して新吉原に行くとびっくり……さっさと通り過ぎたことを覚えている。

あれから数十年たっている。

外国人観光客向けに、また東京オリンピック。パラリンピックのための整備でだいぶ変わっているだろうなと思う。

ここまで読んでくださりありがとうございました。





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