今はやりのサステナビリティについて考える

きっかけはFacebookで紹介されていた以下の記事。
行政関係だけでなく、大手企業と仕事したことのある人なら共感するところも多いだろう。
著者さんの怒りを抑えた言葉選びの中にも気持ちが溢れてるのが感じられる。
まずは読んでみてほしい。ただし、共感できる人にはかなり刺激があるものなので、落ち着いて読める環境で読むことをお勧めする。

どうだろう。
先に書いた通り、仕事を通して関わったことのある人なら、安易に想像できる状況だったのではないだろうか。
かくいう私は、これを読んで気絶しそうなほど共感した。それとともに、なぜ変わらないのか、なぜ一方的に決めるのか、を考えた。

よく言われる「決まっているので」は、それはこちらの都合ではない。
先に紹介したブログの中でも触れられているが、公的機関が動かすお金が税金なので、納税者に対しきちんと説明できることは必須である。
でも、それはこちらの都合ではないのだ。そっちの都合に合わせる必要があるのであれば、そうなるように努力するなり、勝手にそっちで書類を作るなりするのが筋だろう。

ちなみに、こういう時になぜそっちの都合に合わせないといけないのか等と言おうものなら、押し付けていることなんてそっちのけで、合わせないこっちが悪いような言いぶりをされたうえで、従わないならいらない的なことを言われることになる。
彼らの中には「決まっている」ので仕方がないという考えしかない。

確かに、法律やら何やらでがんじがらめになっており、そう簡単に変えることのできないものであることは間違いない。
ただ、こういうことを言われるのは、今に始まったことではないのではないか。
変えることの手間を惜しんだ、あるいは先延ばしにしたのが今なのではないか。

本題から逸れるか逸れないか、ぎりぎりのラインに入ってきたので一度話を戻す。
こうした割と共感性の多い、無駄なエネルギーを消費するやり取りが、割と珍しくない感じで起こっているわけだ。
ここで目を向けたいのが「決まっている」ということ。
決まっているという言葉は現在進行形なので、過去に決まったことが、今にも続いているということになる。
私はその状態に不自然さを感じるのである。

人間は、いやこの世に存在する全てのものは時間の影響を受けている。
時間の流れとともに、変化しながら、その流れの中で存在している。
人間に例えると分かりやすい。
子供のころは体も小さく、考え方も幼い。
小さな服を着て、いろんなことを教えてもらいながら大きくなっていく。
歳をとるにつれ、体も大きくなり、学んだことからいろんなことを考えられるようになる。
変化の中で一人の人としての人格が形成されていくわけだ。
しかもこの人格は固定されることはなく、時間とともに様々な変容を遂げていく。
それが生きるということだと私は考える。

そう考えると、私たちの周りにあるものもすべて変化しているわけで、昔、良かったものが今も良いということにはならないわけだ。
この時間とともに起こる変容や変化を盛り込んでもろもろを作っていくことこそが、今を生きるということではないだろうか。

ただし、人それぞれに変化の速度は違う。
立場や環境、年齢など様々な要因から速度差は生まれる。
だから人それぞれで考え方や価値観が違っている。
決まっているから、というのは一つの因子であって、それが絶対的なものではない。
それぞれの事情をきちんと加味し、共創的に物事をとらえていくことで、融合した新しい変化を能動的に生み出していくことができる。

今、巷ではサステナビリティという言葉が飛び交っている。
持続可能性というものだ。
これからに続いていく未来を考えることはとても大切なことだ。
しかし、この形ならばサスティナブル(持続可能)だ、というのはなんだかしっくりこない。
先にも書いた通り、時間の流れがある以上、変わることは避けられないからだ。
この変化を肯定的にとらえたとき、変わっていくことこそサスティナビリティだと気づくだろう。
そしてそれとともに、先に紹介したブログに書かれているような現象に、大きな違和感を感じるだろう。

行政改革ということで、様々な改革が行われているようだが、やり方を変えること自体が目的になっているようでは、サスティナビリティには届かないのではないか。
その時その時に合わせた、相手の状況に配慮した、変化と変容を盛り込んだうえで、共創することができる状態こそサスティナビリティのある状態ではないだろうか。

政治の仕組みや仕事の仕組みは、これからも続いていくものでないと我々の生活もままならないものになってしまう。
サスティナブルやサスティナビリティが叫ばれる世の中なのだからこそ、その本質について、もっとしっかり考えてほしいと思うのは、欲張りなことなのだろうか。

この疑問を投げかけて、毎度ながらのまとまりのない文章の締めとする。

※ちなみに、この話は文化などにも当てはめることができるのだが、それを書き出すといよいよ終わりが見えなくなるので、それはまた別の機会に。

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