不要不急を控えること

どうも、らいおんまんです。
これは先日、らいおんまんではない方の名前で、棚田の井出清掃のボランティアに参加しようと向かっている時に感じたこと。

バイパスを走っていると電光掲示板にこう書いてあった。
「不要不急の外出はお控えください」

コロナウイルスが猛威を振るっている最中なので、自身の感染を防ぐ、感染の拡大を防止するために、ということか・・・。
では、今自分が向かっている棚田の井出清掃ボランティアは、不要なのだろうか。不急なのだろうか。

中山間地では、担い手の高齢化が進んでおり、田畑の環境整備という作る以外の部分には手が回らなくなりつつある。
それでも、作り手としての誇りと食べてくれる人への思いを込めて、一生懸命、生産を続けてくれている。
平野部に比べ、水の確保が難しい中山間地には、長い水路が引かれていることが多い。この水路は、当然ながら水が流れるため、周囲には雑草が生えやすい。雑草は少しでも日に足るために空間の空いている水路の上に伸びようとする。その結果、伸びすぎた部分は水路につかり、流れてくる落ち葉などをひっかけてしまい、小さなダムを作ってしまう。これ以外にも蔦も絡むし、ランナーを伸ばす草たちも盛んに水路に入り込んでくる。
丁寧な草刈りをし、その上で、水路にたまった草などを上げる作業が、定期的に必要な状態だ。

農林水産業は、育てる、取る以外に、環境の整備にかかる負担がとても大きい。田舎で暮らすようになり、知ったことであり、その部分の負担が特に大きくのしかかっていることも分かったことだ。
そして、自分にはそれに対して、決定打を打つことはできないが、できることがある。

果たしてそれをすることが不要不急に当たるのかどうか。
車を運転しながら、これを考えることがすごくストレスに感じた。
自分の行いが善行であるかどうかを問われているような嫌な感触。
そもそもいいことだからやる、というのではなく、自分にできることがあって、それをやりたいと思うからやるという気持ちからボランティアに向かっている。
なぜそんなことまで悩まされなければならないのかと。

ボランティアに行くことの是非についての話ではなく、個人個人の行動の一つ一つを、なぜこんなに考えなければならないのか、ということに疑問を感じた。

例えば、ボランティアは良いけど、飲みに行くのはダメ。
こう言われるとなんとなくそうだなと納得してしまうのではないだろうか。
明確な判断基準がないまま、その事象の持つイメージだけで、良し悪しを判断しているように感じる。
感染拡大防止のための不要不急の外出の・・・制限?・・・なので、対象となる事象の持つ性質は本来関係ないものではないだろうか。
いろいろな大人の事情があって、制限とは言えないし、あくまでも「自粛」なわけだが、「自粛」という表現だからこそ、事象の持つ性質、つまり主観的なものが判断に顔を出してくるのではないかと思ったわけだ。

ただでさえストレスのかかりやすい社会情勢の中で、さらにコロナという我慢を強いらているため、人々が抱えるストレスはとても大きなものになっている。
このストレスとどう付き合っていくのかも、このコロナウイルス感染拡大防止において、とても大切な要素だと思う。
ガチガチに制限のある状態が続くと、必要なこと以外は悪いことのように感じてしまい、楽しむことに後ろめたさを感じるようになる。あるいは、抵抗感が限界を超え、制限自体を壊してしまう人も出てくるだろう。
人が生きるということは、その人生を楽しむということだと、私は考える。
人と接し、様々なことを経験し、自分という人間を成長させていく。そうやって人は、豊かな楽しい人生を送っていく。
そんな中、人と接することも様々なことを経験することも、必要最低限に制限されてしまうと、心の貧しい、楽しくない人生を送ることになる。

車のアクセルやブレーキ、ハンドルには遊びという、入力しても無反応、あるいは微反応な部分が設けられている。
ゲームのコントローラーのスティックなんかもそうだ。
こういう遊びの部分があるから、少しの入力による微妙な操作が可能になる。
これがもし、メリハリのききまくった、オンオフな感じの反応だったら、車なんて危なくて乗れたもんではない、となってしまう。
想像してみてほしい。
ハンドルを1度以上切るだけで曲がる車。アクセルは足をかければ急発進。ブレーキは少し踏み込んだら急ブレーキ。私は運転できる自信がない。
(余談だが、F1などの車は、ハンドルを動かすスペースの都合から、かなり小さな角度でも曲がるようになっている。なので、その運転を身につけるためにはきちんとしたトレーニングが必要になる。※この余談は不要だったかもしれないが、あった方が面白いので、残しておく)

必要か不必要か、火急なのか不急なのか。
世の中はそんなはっきりしたことだけではないし、不要なことだけど、今の自分にとってはやりたいことということもある。
あるいは、不要でもないが、必要でもないということもある。
こうしたことを必要か不要かに振り分けて判断するのはとても難しいことであり、また個々の判断でどちらにでも変わり得る。
人の暮らしには、先のハンドルなどの話のように、遊びの部分が必要不可欠なのだ。

だから、必要か不要か、火急か不急か、ではなく、遊びの部分をどう安全に行うかが大事なのではないか。
飲みに行って日々のストレスを解放することで、仕事などに頑張ることができるなら、飲みに行くのは必要なことだろう。飲むこと自体が感染を広げるわけではなく、「飲んだ席でマスクをせずに大声で話すこと」が感染拡大に繋がっているのだから、その対策をすれば、飲みに行ってもいいと私は思う。
遊園地だって、テーマパークだって、観光地だって同じだ。
もちろんボランティアも。
各々にやりたいこと、行きたい場所、ストレスを発散できる場所があるし、そこに行く、それをすること自体が感染を拡大するものではないのではないか。
大事なのは、きちんと対策をすることであって、そのこと自体をやらないことではない。

なんとなく今のご時世的なものを感じるところではある。
一人でも怪我をした遊具は撤去され、学校では小刀やカッターナイフを使わなくなり、何かあったときの責任は、本人ではなく、イベントや行事の主催者に行く。
その結果が今のコロナ対策なのだろう。

自粛である以上、自分で判断するのが大事ではないか。
各々がきちんと判断して、しっかりと対策をとってやりたいことをやる。
やりたくないことの言い訳に、自粛を使えばいい。

世の中の閉塞感とそれに対する反発や鬱屈した感じが、どうにも嫌になってきたので、少し過激ではあるが、思うところを書いてみた。
どう受け取るかは、個人の判断だ。
そうやって一つ一つをきちんと考えて、よく分からん圧力に飲まれない、大変な状況ではあるが、楽しい時間を過ごしてほしいと切に願う。

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