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心をうごかせ 心が止まれば 心をとられてしまう

巨大なシステムや組織を相手にしたときに、わたしはあきらめてしまうところがある。機械を相手にしているような気持ちになり、生産工場で弾かれた不良品のような気持ちにさせられる。惨めな気持ちを味わうことが多く、かといって、それをひっくり返すような行為は命取りであるため、スッと退却するしかなくなる。
お役所の対応、銀行の対応、病院の対応、あるいは大企業が提供するサービスなどなど、誰もがいち市民、いち消費者として似たような惨めさを感じたことがあるかもしれない。
長いあいだ生きていれば、現代社会に生きる者の宿命として、そんな場面が何度もあるのだろうと思う。わたしの場合、とくに最近そうなっている。
詳細は省くが、いまがそうだ。組織の代表として、自らの存亡を賭けて、巨大なシステムや組織を相手にどうしたものかと思っている。
そんなとき、やはりわたしの退却グセが発動してしまう。「まずは様子見しよう」「いったん離れよう」――はたしてそれは正解なのか、とても正解とは思えない。だって何もしてないからだ。かっこよく言いかえているだけの強がりにすぎない。

ずっと、どうしたらいいのかがよく分からなかった。どこかでおぼろげに気付いてはいたけど確信がなかった。だけどつい先日、尊敬する先人に諭され、はっきりと分かった。

今までも薄々と感じていたことだ。巨大なシステムだろうが、組織だろうが、わたしの目の前にいる個人は人間である。人間である限りはそこに機械にはないブレがある。わずかなすき間があり、そこから希望が覗いている。いつでも。常に。人間である限り。なぜなら人間ははみ出すことが本質だから。

社会が不安定なとき、時代の不確実性が増しているとき、それでも巨大なシステムは揺るがないように見えるが、じつはそうではない。ゆらゆらと震えている。発生源は分からない。だけど静かな動揺が感じられる。もちろん、そうしたふるえを目の前の人物も分かち持っている。むしろ、その人物が軋みを上げている連結部分だったりする(しわ寄せを食っているとも言いかえられる)。
人間がそこにいる。昔からかわらない。これからも人間がそこにいるだけなのだ。

どうにも動かない巨大なシステム。逆らえば弾かれる。一歩まちがえれば排除される。殺される。その本質は変わらない。だから屈するしかない。しかし、そうしたシステムを担っているのは一人ひとりの人間であることに変わりはない。時代と社会が揺れ動いているとき、わたしたちが危機にあえいでいるとき、じつは巨大なシステムに組み込まれた目の前の人物もあえいでいる。いやむしろわたしたちよりも苦しんでいるともいえる。
惨めさの次元にとどまることは、ある意味では余裕のあるときに限られるのだろう。とどまることが許されないとき、このままでは滅亡が待っているとき、そんなときこそ、わたしたちはシステムではなく人間に注目するべきなのだ。
人間としての信頼を少しずつでも積み上げていくこと。具体的には泥臭く、無視されても、しつこく、言葉をかけていくこと。感謝を伝え、服従の態度を伝え、懐に入れても痛くないと感じてもらうこと。「敵じゃない、友だ」と思ってもらうこと。少なくとも悪いやつじゃないと思ってもらうこと。どこまでもしつこく、下から、丁寧に。
なにもできないときだからこそ、すべてがうまくいかないときだからこそ、システムに期待できないからこそ、わたしたちは目の前の人間に期待する。

心をとめるな。心をうごかしていけ。

薄々感じていたことだったが、はっきり分かってしまった。わたしのやるべきことも、ふるまうべき態度も明確に見えた。

アドバイスをもらったあと、今後読むべき本として「不動智神妙録」をオススメされた。沢庵和尚が伝えたとされる禅と剣の書。対人間となれば「武道」を学ぶこと。なるほどと思った。帰りに寄った本屋にはなかった。とりあえずWikipediaを読んだが、これまでの読書の傾向ではぜったいに出会えない本だったので興奮した。思いも寄らない言葉に引き込まれた。スーっと身体に入ってくる感覚があっておそろしかった。これも「理解」というよりはオススメしてくれた人への「信頼」がなせる技なのだろう。これからじぶんなりに咀嚼していきたい。

日曜の電車内でつり革にゆられながら、Wikipediaを読み続け「紫衣事件」とか「墨跡」のリンクを踏み続けた。なじみがない言葉たちだった。続いて「大徳寺」「京都五山」「応仁の乱」と次々にページを開いて読み流した。

帰ったら猛烈に眠くなり、目覚めたらワールドカップが終わっていた。


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