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やはり、そういうことなのかな、という話。

最近、割に昔に書いた記事に「スキ!」をしてくださる方が、いらっしゃる。それで、ついでに自分で読み返してみたりする。

すると、書いた時点では、「次、書きますね」と宣言しておきながら、その後すっかり忘れている、ということが結構あることを発見したのだった。

忘れていることもあるし、覚えていてもそう言う気分になれず、わきに追いやっていることもある。

去年の秋に、国立音楽大学で、山下一史の指揮でモーツァルトのオペラを観た。記事にしたのは、オペラのことではなくて、会場へ行く道中の小旅行の話。それを書いているときは、確かにオペラのことも書こうと思っていたのだ。長くなりそうだったから、次回に回したのだ、うん。

ところが、すっかり怠け癖がついている私。まぁまぁ、そう焦らんでも、誰も待ってないわいと、自分に言い訳をしてるうちに、書く気をなくしてしまったわけですわ。たぶん、いずれ火がついて、熱く語る時があるとは思うのだけれど。

話の流れとしては、オペラのことになっても良さそうなのだけれど、ちょいとそうならないのですね。

昨年の秋、オペラを観に行く少し前、私は、いろんなストレスが重なって、眼がパンパンに腫れあがる、という事態になった。眼は病院での治療で、あっけなく治ったけれど、私は、その時、「なんでも一人で抱え込んでも、良いことなど何もない」という教訓を得た。それで、苦手な愚痴をこぼすことも、少しずつnoteやFacebookで、実践している。

加えて、その後或る知人の投稿に大きなショックを受けて、落ち込むという事件も発生した。それらは、「たとえ否定されることがあっても、私はメッセンジャーです」という記事にもした。この時も、タイトル通りの教訓を得たのだけれど、その後、ハタと、気づいた。

「メッセンジャーというのは、人が”正しく悲しむ”お手伝いをするのが本当の仕事ではないのか」

私を落ち込ませる投稿をした知人は、その後、次第に落ち着いてきたようで、折々天国に帰った猫さんを偲ぶ言葉をFacebookで、綴っている。私は、彼にその後何の働きかけもしてないし、彼が落ち着いてきたのは、彼の近くにいる友人たちの力だろう。或いは、彼の嘆きぶりにあきれていた魂さんが、彼に何かをしたのかもしれない(ただし、彼はそういう類のことを否定する側に立っているので、それとはわからないだろうけれど)。

この国では、まだ、人以外の大切な命を失って嘆くことを、恥だとかみっともないとか考える風潮がある。場合によっては大切な人を亡くした人にすら、冷たい言葉を吐く人もいる。

私が長い間、愚痴をこぼせないでいたのも、この風潮の影響が大きい。共感してくれる人は必ずいるはずなのだけれど、冷たい無理解な言葉を吐かれたときのショックのダメージを癒やすことが遅かった私は、なかなか考え方を変えられなかった。

つらい時に悲しみの底に沈んでしまう。生きる気力を亡くす。自分の殻に閉じこもる。感情のコントロールができずに、涙が止まらなくなる。

これらは、みんな当然のことです。自分を守るための逃避でもあります。

疲れたら休む。つらかったら泣く。誰かに話を聴いてもらう。

これらを自分に許すだけで、悲しみが心身を毒してしまう危険は、格段に減ります。

noteを拝見している限りでは、こういう考え方はかなり浸透してきてるなぁ、と、感じています。ただ、ペットロスが深刻になる場合、それは、大切な存在を喪った悲しみの深さの背景に、また別の根の深い問題が潜んでいることも多いです。悲しみに執着する・執着せざるを得ない理由があることがほとんどです。

”正しく悲しむ”。大切な存在を亡くしたことを、嘆き悲しむのは当然のことです。ただ、それは、執着することとは別のことなのです。

これは、今うまく表現しきれないので、いずれ、またテーマにしようと思います。

さて・・・・・。実は、今日、愛鳥が1羽、急逝しました。突然すぎて、涙も出ないのですが、じわじわと来るんでしょうね。正しく悲しむことにしたいと思います。

タイトルと内容がかみ合っていませんが、ご容赦くださいまし。

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