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TV番組「南京事件」の考察(2)~魚雷営とは何か?

前回からのつづき

■ 地図ではなく水路図

番組で示されていない「違う時代の地図」と思われる地図をネットで見つけることができました。それは地図ではなく水路図でした。この他にもネットで何枚かの南京の古地図を見つけましたが「中國海軍倉庫」と記された古地図は今のところこれ1枚だけです(もっと探せば他にあるのかもしれませんが)。

清水氏が参照したと考えられる水路図
1937年10月 日本軍によって作成

一見して地図にも見えますが、通常の地図ではなく水深を示す数字がびっしりと書き込まれている水路図です。そして魚雷営がある場所には清水氏が記した通り「中国海軍倉庫」と記載されています。魚雷営の建物の横幅を100メートルと仮定すれば、確かに建物から桟橋までの間は30メートルほどの広さがあってもおかしくはなく「広場」と表現できそうです。しかしこれは水路図なので陸上部分の記載は大幅に手抜きで描かれていることが分かります。建物の形状もいい加減で、周辺の道やクリークや池もほとんど省略されて描かれていません。ランドマークとなる建物を適当に配置しているだけで、形状や距離をこの地図から正確に読み取るには問題があります。

もう一度、清水氏が番組内で使用した航空写真を基にした1万分の1の古地図を度見てみましょう。

1934年 南京付近図 (1:10000)

この古地図には道、クリーク、池、建物、田畑の境界、山の等高線まで細かく書き込まれており、魚雷営については、周辺の建物や、中庭内の植木の有無までしっかり描かれています。こちらの地図から魚雷営の裏側の空間の広さを推定してみます。

地図のスケールから推定すると魚雷営の建物の横幅は約120mになります。しかし建物の裏側は広くはなく「広場」と呼ぶには狭すぎることが分かります。仮にこのスペースに3000人を無理やり押し込んだとしても、番組内で使用した再現CGの様な状況になるとは思えません。

■ 魚雷営とはなにか?

幕府山事件の現場の一つとされる「魚雷営」ですが、この施設の当時の写真が殆ど残されておらず、現在でもその施設の詳細は良く分かっていません。しかし21世紀になってから南京の魚雷営と思われる画像や動画が何点か発見・公開され、少しずつその姿が見え始めました。

「魚雷営」という名前から魚雷の倉庫、武器弾薬庫をイメージする人が多いと思います。確かに旅順にあった魚雷営(日露戦争で焼失)は名前通りの武器倉庫でしたが、南京の魚雷営は倉庫ではなく海軍学校でした。校舎は長江岸に建設された二階(+屋根裏)の西洋風の重厚な建物でした。

南京・魚雷営の画像

さらにネットを探すと他にも魚雷営と見られる画像を見つけることができました。次の画像は1932年(南京戦の5年前)に撮影された南京・揚子江で訓練する中国海軍の動画のワンシーンです。背景に同じ建物が小さく映り込んでいます。左側の山は南京にある老虎山で、位置関係からこの建物が水魚雷営であることは間違いありません。

南京・水魚雷営前で訓練する中国海軍
南京・水魚雷営前で訓練する中国海軍(拡大)

魚雷営は長江に近接して建てられており、岸壁はコンクリートで整備されています。見づらいですが桟橋(碼頭)にはクレーンが設置され重量物の搬入出が出来るようになっていました。

次の画像は魚雷営の桟橋上で撮影されたとされる画像です。建物の前に樹木が植えてあるのが見えます。そのすぐ下が岸壁になっています。樹木から建物までの距離は恐らく10メートルも無く、航空写真から起こされた1万分の1の地図が正確であることが分かります。建物には窓が沢山あり、機関銃を撃つために、わざわざツルハシで壁に穴を開ける必要があるとは思えません。

水魚雷営の桟橋に置かれた魚雷
クレーンのフックが写っています。

■ 南京の魚雷営は海軍学校

番組中で紹介された証言テープでは複数の元日本兵が魚雷営のことを「海軍学校」と言っていました。魚雷営は日本軍の宿営所として使われたので、恐らく証言した元日本兵たちは実際に魚雷営の中に入ったことがあったのでしょう。建物の中には黒板、学習机、機雷の仕組みを学ぶカットモデルなどが置いてあり、日本人なら一目でそこが「海軍学校」だと理解できたでしょう。逆に魚雷営のことを「倉庫」と表現した元日本兵はいません。

魚雷営は19世紀末期の清朝の北洋艦隊時代に建てられた施設で、その歴史は半世紀近くもあります。魚雷営と呼ばれる建物は南京以外にも幾つか確認されており、それらは海軍基地内にある兵器倉庫でした。ですから魚雷営が倉庫であることは間違いではありません。しかし南京の魚雷営は、後に改築されて海軍学校になり、学校の名称はそのまま水魚雷営とされました。

中国海軍水兵の卒業写真(1935年)
(サイト名を白抜きしてあります)

一番初めに紹介した水路図は南京戦の前に日本軍が作成したものです。その時点では日本軍は南京の魚雷営は他の地域にある魚雷営と同様に倉庫であると予測し、水路図に「中国海軍倉庫」と記載したのだと思われます。

■ 魚雷営の立地

番組で紹介された魚雷営の再現CGは12月なのに揚子江の水位が高過ぎるという間違いがあります。揚子江の夏と冬の水位差は10mもありますから、もしこれが本当に12月16日であるとしたら、夏の増水期には水魚雷営の建物は完全に水没してしまうことになります。

水没する魚雷営倉庫のイメージ図

番組としては真冬の揚子江の水は冷たく、連行された捕虜達はもはや川へ飛び込んで逃げることすら出来ない、という意図があったのだと思います。確かに12月の揚子江の水温は5度前後と低く、飛び込んで30分もすれば低体温症で死んでしまうでしょう。ですが魚雷営のある場所はほかと比べて土地が高くなっており冬場の渇水期には水が引いてほとんど川底が見えていたと予測されます。

12月の魚雷営のイメージ図

先に紹介した水路図で揚子江の水深を確認できます。まず魚雷営ではなく、少し離れた下関港から見ていきます。というのは南京戦直後の12月末に撮影された下関港の写真があり、当時の揚子江の水位が確認できるからです。下関港の浅瀬部分(下地図茶色部分)は完全に川底が見えてしまっているのが確認できます。一番長い桟橋(太古碼頭)が約100mなので水深30フィート(10m)ラインは岸壁から約50mくらいのところにあります。

12月末頃のの撮影された下関港の岸壁の様子。
緑の点線は水深約30フィート(約10m)

次に魚雷営付近の水深を確認すると、下関港よりもさらに土地が高くなっていることが分かります。水深30フィートラインが桟橋から数百メートル先にあり、同じ時期にこの一帯が広大に干上がっているであろうことが予測できます。上の下関港の写真は12月末頃に撮影されたもので「魚雷営の虐殺」は12月15日頃ですから2週間の違いがあり、水位は2メートルほど高かったと考えられますが、それでも魚雷営の岸壁の付近の水位は0~1m以下だったと見られます。

緑の点線は水深約30フィート(約10m)
渇水期には緑線の近くまで水が引くと予想されます。

この海軍学校では1年の半分くらいしか船舶を使用した訓練はできなかったと思われます。海軍施設は下関港にもあるので渇水期間中はそちらを利用していたのでしょう。

岸壁の高さは10m近くあると思われますが、命懸けで飛び降りれば逃げられるチャンスはあった筈です。機関銃は上下の可動範囲は狭いので下へ逃げられたらもう追うことは出来ません。南京陥落後は発電所が停止していたので電灯も付いていませんでした。逃げ出すことのできる最後のチャンスになったでしょう。

■ まとめ

○魚雷営の裏側は狭く3000人を一度に処刑するには無理がある。
○魚雷営の校舎には窓が沢山あり、壁に穴を開ける必要はなかった。
○魚雷営の岸壁付近は干上がって殆ど水が無かった。

徹底した取材を信条とする清水氏ですが番組制作の時点で魚雷営の画像まで辿り着けていなかったようです。本人も情報不足については理解していたようで書籍中で再現CGはあくまで「取材に基づく想像である」と前置きされていて、きちんと逃げ道も作っています。