チケット転売がなくならないわけとその対策案

はじめまして、ふねいちゃんと申します。
一人称はふねいです。


noteの投稿をはじめたいと思います。

まずは、その目的について書きます。

文章を書くという行為が、本当に苦手で、改善したい!

振り返れば、小学校の夏休みの恒例宿題である読書感想文も、母親にゴーストライターとして活躍してもらった記憶があります。
これは余談ですが、同じく恒例宿題の自由研究では、課題を「母親の代わりに毎日料理をつくって、それを写真に撮りレシピをつける」というものに決め、これをゴースト母親として母親にやってもらったことがありました。「ミイラ取りがミイラになる」ならぬ「ミイラになってしまったミイラ取りがミイラを取る」みたいな状況。なにがなんだかですね。
また、文章を書くことはおろか、文章を読むという行為にもずっと一抹の面倒くささを感じています。
文字を追うことに、集中力が続きません。漫画の「DEATH NOTE」は、ふねいが全巻揃えて購入した数少ない漫画の一つですが、文字の多いコマは飛ばしちゃったりしてました。
そんな全身全霊で向き合ってこなかった文章作成・読解能力の貧弱さに対して、今回は逃げず、執筆作業に勤しむことでぶつかっていきます。




さて、前置きはここまでとしまして、今回は「チケットの転売対策案」を発表します。


ふねいは「転売」がきらいです。
なんとなく「大した努力もせずに転売ヤーたちがいる」から許せないと考えていたのですが、
先日許せない正体がわかりました。と同時に、対策案を思いつきました。


どうして「転売」という存在がなくならないのか?


チケットの「転売」とは、「チケット入手した元値よりも高い値段で売り、この時の買い値と売り値の価格の差異が直接の収入になる」というものです。
この仕組みは、商売の基本です。
この行為自体には「悪」は、ないはずです。
例えば、同じ商品を購入する際、店頭販売で購入する販路Aと、ネットショップで購入する販路Bとでは、値段が変わるときがあります。この原因の一つに、AとBでの仲介業者の「数」に違いがあることがあげられます。それぞれの仲介業者が無料で働くというわけはないため、仲介業者が増えれば増えるほど元値よりも高くなることは簡単な理屈ですね。
つまり、消費者からすれば仲介業者を一つ余分に足したものが「転売ヤー」なのです。
消費者からすれば仲介業者の数はもともと意識されにくいもので、こう考えると「転売」がシステマチックで、許せそうです。

それでは、なぜ「転売」という商売がうまくいくのか考えていきましょう。
その理由は、ずばり、チケットの枚数に限りがあるためです。
あるチケットが100枚で売られる場合、100名が過不足なくほしいということは、ほぼありえません。
人気のチケットには、必ず100人より多くの人が買い求めます。
その100人になれずあぶれた人たちが、「転売ヤー」からチケットを受け取りたいと思うのです。
100枚よりもより希少価値のついたチケットは、「転売ヤー」によりオークションにかけられた場合、一番高い価格を払える人にわたります。

ここで、ふねいは気づきました。
「転売ヤー」によりつり上げられた新しい価格ですが、購入した人にとっては、それを払うだけの価値のあるチケットであったということです。
逆に言うと、「転売ヤー」がなくては明るみに出なかった価値でもあります。


話をもとに戻しますが、仲介業者の存在は、われわれ消費者の立場からしてみれば、意識されづらいのです。
そう、「転売ヤー」という仲介業者を介さずにもともとの販売元(仲介業者)(例.チケットぴあ)がその価値を見出していれば「転売」を防ぐことができるのです。

ふねいは、ばか高い手数料といつまで経っても改善されない早い者勝ちシステムのナゾに常々怒りを覚えていました。そのユーザー目線に立たないプラットフォームの傲慢さが、「転売」行為を見て見ぬふりしていたのです。
そもそも一番お金を払いたい人にはチケットはわたるべきです。そして、そのお金は「転売ヤー」でなく、チケットの制作者に還元されるべきです。

ということで、「転売の対策案」ですが、
チケットの一部は、オークション形式で販売し、高く払える人から順にチケットがもらえるシステムをつくるです。


博多通りもんの名にかけて、チケットぴあはゆるさなーーーーーーーーーい。
(ドラマ「M 愛すべき人がいて」最近知りました。追っかけたいと思います。チケットぴあは許しません。)


今回は以上です。
次回は、「木村花さんの問題」について書こうと思います。

※文章向上のため、予告なく加筆・修正する可能性がございます。ご了承ください。


最後までお読みいただき、ありがとうございます。