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二宮尊徳像を探せ。(第3回 最終回)

好評二宮尊徳シリーズもいよいよ最終回。
今回探検した学校は、、、
小学校が、新方小、桜井小、大袋小、荻島小、大沢北小、大袋北小、大袋東小、平方小、弥栄小、千間小、桜井南小の11校。
中学校が、北中、北陽中、平方中、大袋中、千間台中、新栄中の6校。あわせて17校です。

新方小
取材時、浄化槽防火水槽の工事中でしたがその工事帯内に尊徳像を発見。立入禁止のフェンス越しのご対面となりました。

近寄っての調査が困難なため後日出直すことに。
3週間後に再調査。工事帯の柵はそのままで近寄ることはできませんが周囲が片づけられていました。

築像は、昭和十三年八月。寄贈者は鶴見の浅子武、川崎市の浅子小十郎、その親族の浅子貞喜となっています。
至誠報徳の台座に乗ったスタンダードなお姿でした。

大袋小
校庭に向かって校舎ほぼ中央を背に建っていました。この位置は蒲生小と同じ場所ですね。

昭和十三年五月二十七日の建像。大袋村の産業組合、農會、村有志、職員児童一同とあります。大袋村挙げての寄贈だったようです。

荻島小
校舎入口横にひっそりと佇んでいました。

台座がないせいかちょっと控えめ。それでもドングリがお供え!?されていましたので今でも児童たちに親しまれているのでしょう。
パッと見、新しいように見えますがもしかしたら古いものが近年になって修復されたのかもしれません。

なお、桜井小、大沢北小、大袋北小、大袋東小、平方小、弥栄小、千間小、桜井南小、北中、北陽中、平方中、大袋中、千間台中、新栄中では確認できませんでした。
今回の調査の結果、以下の8つの小学校において二宮尊徳像を確認することができました。
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学校名(建像年月日)
増林小(昭和七年五月吉日)
蒲生小(昭和一三年五月二七日)
大袋小(昭和十三年五月二十七日)
大相模小(昭和十三年七月十一日)
新方小(昭和十三年八月)
荻島小(不明)
大沢小(不明)
川柳小(不明)
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越谷における学校の歴史をひも解いてみると、越ヶ谷小、新方小、大袋小、荻島小、出羽小、蒲生小、大相模小、増林小の8校が明治6年に開校しています。続く明治10年に大沢小、明治19年に桜井小が開校。この10校時代が長い間続きました。その後の新設は、昭和42年の川柳小の開校まで待たねばなりませんでした。また、当然ですが、中学校の開校は戦後になってからとなります。つまり、尊徳像の残る学校の大部分は100年以上の歴史を持つ学校であったといえます。

本調査をすすめていく中で、もうひとつ興味深い史料をみつけることができました。

『越谷市史 2 通史・下』"第二編 大正・昭和戦前期の越谷"の金属回収運動の項(P690-P693)によると「金属の回収は二宮尊徳像などの銅像をはじめ街路灯、橋梁、火の見櫓にまで及んだ」との記述があります。金属回収運動の根拠となった「資源特別回収に関する通達」は昭和16年に政府からだされています。

今回確認できた尊徳像はいずれもコンクリート製の石像(一部、表面を塗料や樹脂コーティングしたものもあり)であり銅像(ブロンズ像)は確認できませんでした。もしかしたら、明治初期に開校した学校のうちで今回の調査で現存が確認できなかった越ヶ谷小と出羽小の尊徳像が銅製の像であったため、戦争のために供出されたのかもしれませんね。

【おまけ】
蒲生駅前通りと県道足立越谷線の交差点の角にあるホンダカーズの東側角に比較的新しい二宮尊徳像が立っています。

これは、(株)本田クリオ埼玉の社長によって建てられたものことですが、この地にはかつて蒲生小学校があった場所でもあり、なにか所縁を感じさせるものがあります。

おしまい。

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