賢者は何からでも学ぶ
おはようございます。
今日もほんといい天気で、最高の気分
人を幸せにし、世界を変えるキングです。
さあ、時間を大切に命を使うと最近スイッチが入っています。
とはいうものの、昨日、9月に屋久島行きの予約をしてしまいました。
台風来たらアウトだし、もうそこは諦めるしかない、数万円のそんしつになるけど、まあ仕方ないということで決めちゃいました。
さて、今日はゲームについてから人生は暇つぶしなのか?ということを考えていきたいと思う。
大人にとって、というか、あまりやらない人からするとゲームはただの時間の無駄という考えがある。
自分もそっち側の人間で、どちらかというと、ゲームは時間の無駄だしというかえるものが少ないというか、設計された遊びの中で遊ばされてる感があるのであまり好きでないというか、どちらかというと反対意見を持っている。
でも、昨日のウィークリー落合を見ていて感じたことは、自分の知ってるゲームと今、流行っている、存在しているゲームとは全く違うということ。
昨今SNSがはやり、みんながオンラインでつながれるようになった。
リアルからオンラインへ
オンラインからリアルへ
オンラインからオンラインへ
という多様な流れが作られている。
で、何が昔と違う要素かというと、そこにコミュニケーションが存在しているということ。
つまりゲームはタスクであり、そのタスクの上に会話があり、つながりがあるということ。
ようはゲームはただのタスクではなく、コミュニティになっているということ。
なるほどな。と思った。
それはリアルで人間が何千年、何万年と繰り返してきたことでありにんげんのほんしつなんだよねそれは。
で、ゲームと聞いて想像してるゲームがきっと自分の頭の中と、現実のゲームの差があるんだろうなということを感じた。
で、もっと面白いのが本来、人間はゲームをしたいわけではなくて、コミュニケーション、つまりつながりを持ちたいと思っているわけで、その繋がるための接着剤がゲームというコンテンツなわけだ。
ただ、一緒に6時間いろと言われたらきついかもしれないけど、一緒にゲームを6時間しろだったら可能になる。
つまり、体験ができるので、そこから話題も生まれて繋がりやすくなるということ。
だとしたら、人間は暇を嫌っているのかもしれないということが分かってきた
もっと言うなら「人生は壮大な暇つぶし」どこかで聞いたことがあることばだけど、それは本当なのかもしれない。
全ての人がやっていることはもしかしたら暇つぶしとゲームなのかもしれない。よーく考えると、食べる事、生きる事以外は正直暇つぶしで、極度に暇を嫌うのが人間かもしれない。
昔の人は仕事がたくさんあった。
仕事とは生きるためのものであり、洗濯から食事まで、すべて手作業でやらなければならず、暇と呼べる時間は存在しなかった。
キャンプに行くとわかるけど、食事、一食用意するのに何時間もかかるわけだ。変な話、食べるために生きていると言っても過言ではない。
水を何時間もかけて汲みに行き、朝から晩まで畑を耕し、何時間もかけて海や川に魚を獲りに行きって感じで生きることに時間を費やしてきた。
で、現代はというと。
洗濯もスイッチ一つで洗ってくれるようになり、スイッチ一つでご飯が炊けるようになった。
近くにスーパーができ、新鮮な食料はすぐに手に入るようになり、仕事という形で、それぞれの役割が生まれ、大きな社会ができた。
そして、生まれた時間。
その時間こそが暇。
個人的には暇つぶしという言葉は大嫌いで、暇な時間なんて一秒もないと思っているんだけど、自由になる時間、余暇を暇と呼ぶことにする
で、その暇な時間に何をするのか?となった時に娯楽(ゲーム)になるわけだ。ゲームとは釣りもゲームのうちの一つだし、仕事も恋愛もゲームと言えばゲームだ。きっと勉強もゲームの一種。
で、その暇をどう過ごすかということが人間の課題であって、人間は暇を本質的に嫌っているのだと思う。
寝るのが嫌いな人はあまりいないとおもうけど、 24時間寝ろ、ベッドの上にいろと言われたら苦痛以外の何物でもない。
だからスマホを見るし、本を読んだり、何かしらの娯楽(ゲーム)をしようとする。
ということなんだと思う。
今回の話のまとめ
・人生は暇との闘いである。
・普段から、我々、大人も子どもも、いろんな形のゲームをしている
・いわゆる子どもがするゲームをやりたがるのは暇だから
だからこそ、ゲームが一概に悪いかというとそうでもない気はする、ふぇ、個人的にはゲームよりももっとやりたいことがある。だから、ゲームをする時間をほかの事に回してるという感覚かもしれない。
24時間のをどうやって分配するのか
もっと言うなら人生という限られた時間を何に使うのかということなのかなと思った。
で、僕もゲームをやったことのある人間なので(昔のゲーム、タスク的)学んだことというか、ゲームをやったからこそ得たものもあるし、失ったと思うものもある。
最終的に、プラスになるかマイナスになるかはやってみなければわからない事なんだろうなというの至極まっとうな結論になった。
全ては学ぶ側の問題で、後からよかったと言える理由を見つけれればよかっただし、ゲームをやってよかった点を言えなかったらただの浪費だったということなのかもしれない。
全ては教える側ではなく学ぶ側の問題だということだと思う。
賢者は愚者からも学ぶ
ならぬ
賢者は何からでも学ぶ
何か一つの生地になった感じがする。
さあ、今日も精一杯生きよう
人を幸せにし、世界を変えるキングでした
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?