見出し画像

ミモザの日に考える、私たちに必要なこと

テレビやネットでは日々「女性蔑視」に関するニュースが取り沙汰されている。つい最近も、元東京五輪・パラリンピック組織委員会会長の失言が世間を騒がせていた。

アホらしいと思った。立場やシーンをわきまえず、科学的根拠のない個人の妄想を口にするなど、あまりに想像力が欠如している。過熱的な報道に対しても嫌気が差した。ただただ、アホらしいと思った。


男女平等が叫ばれて久しいが、私にはいつまでたっても、どこか他人事のように思える。

なぜなら、私は28年間女性として生きてきて、不平等に扱われていると感じたことが1度もない。もちろん、子どもがおらず、仕事やプライベートで大きな制約を受けていない点で、諸先輩方とは立っているステージは違う。でも、それにしても、世間がどうして「性」に対してこんなにセンシティブなのか不思議で仕方ないのだ。

中高ともに地元の公立校に通い、男女関係なく等しく教育を受けてきた。大学進学にあたっても性別が妨げになった認識は一切ない。6年間勤めている会社は女性割合わずか2割程度、フロアを見渡せば男性ばかりで、マイノリティを痛感することはあるが、女性を理由に不利を被った記憶はない。むしろ、オジサンたちの冴えないアイディアをこき下ろすことができるのは若手の女性だったりして重宝される場面も多い。飲み会で乾杯を頼まれたり、役員の近くに席を配置されたりしたことはあるが、そういうのは性別だけではなく個人のキャラクターにも因るのだろうと思う。

毎月の生理や生理痛も、煩わしいとは思いつつも、生物学的に仕方がないものと割り切れる。文句の矛先は、社会ではなく神ヤハウェだ。


「女性だから」頑張っているのを称える、「女性だから」軽視されていると感じる。女性だから、女性だから、と権利だけを振りかざし、大声をあげることが嫌だった。だって、男も女もみんな同じように頑張っている。同じように理不尽な思いをすることもある。そもそも、「人類みんな平等」という概念の上に生きていれば、あらゆる感情を性別に押し付けることもないのでないか。


**

昨日3月8日が、身の回りの女性に感謝を込めてミモザの花を贈る「国際女性デー」であることを、つい先日初めて知った。女性にフォーカスした日が存在すること、それが歴史的な背景に由来していることが分かった時、女性問題に対する長年の違和感を払拭するためにも、調べずにはいられなかった。


1904年3月8日は、アメリカ・ニューヨークで女性が参政権を要求してデモを行った日である。1904年。遠い昔のようで、100年ちょっと前のことだ。100年ちょっと前まで、デモという手段をとらなければ、女性が政治に参加することは許されなかったことを意味する。日本に至っては、婦人参政権が実現したのは第二次世界大戦後、1945年のこと。日本のながいながーーーい歴史の中で、女性が国家の意思決定に関わったのはわずか76年ということになる。信じられない。これまでの戦争だって、全て男性主導で行われたのだ。憤慨である。

平塚雷鳥をご存知だろうか。社会の教科書で見た記憶があるだろう。日本で女性の解放と権利平等を訴えた人物の代表だ。かっこいい。名前だけでも十分かっこいいのに、もう肩書が、かっこよすぎる。彼女は、日本で初めて女性による女性のための文芸誌を発行し、日本で初めて事実婚(夫婦別姓)を選択し、日本で初めて女性が出産・育児するための権利保護を叫ぶなどした。今私たちが当たり前に享受している恩恵は全て、彼女の第一歩があったからこそ存在する

もう少し身近なところで考えてみる。1世代、2世代遡ると同じ女性でも生き方は大きく違う。祖母は中学卒業後、家庭科専門の高校に進学した。裁縫も料理もとても得意だが、数学や化学の知識はほとんどない。母は結婚と同時に「ありがたく、寿退社させていただきます」と会社に告げて専業主婦になった。彼女は今、手に職が欲しいと口癖のように言っている。しかし、2人とも、「当時はそれがあたりまえよ」と笑うのだ。今考えると「ありえない」ことたちが、当時は全て「あたりまえ」だった。生理は仕方ないと前述したが、いざという時に生理休暇のオプションがあるのも、過去誰かが戦ってくれたからに他ならない。


**

女性を取り巻く環境は、大きなダイナミズムの中で、少しずつ、少しずつ変わってきたのだ。それはもう、今も私の意識の働かないところで、誰かが大きな声をあげていて、私はそれにあやかりながら、さも当然のように生きている。権利を振りかざしているのは自分だったのかもしれない。

今の「あたりまえ」が次の世代にとって「ありえない」になるべきことは、実は多く存在するはずだ。よくよく記憶を辿ってみれば、私が平等と感じてきた局面でも、不平等に関する報道はあった。大学進学に関しては、複数の私大医学部が、入試にあたって女子受験生を一律減点していた。性暴力やセクシャルハラスメント等、女性ゆえにターゲットとなる辛い事件も多い。

「女性」という大きなカテゴリーで括られてしまうあまり、確かに存在する数多の問題を自分事化できないでいた。あるいは、ジェンダーギャップ問題を中立的に見ていたようで、「しょうがない」「そういうもの」と順応していただけかもしれない。


変革はいつも、現状への疑念から生まれる。

私はまず、今の「あたりまえ」を疑うことから始めたい。

祖母や母を含め、時代を変えてきた全ての女性に感謝を込めて。

後世にとって少しでも良い社会になるよう願いを込めて。

来年は、大切なみんなと自分にミモザを贈ろう。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?