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美少女ゲームダイアリー

2019年7月26日
 今日から夏休み。予約していた『抜きゲーみたいな島に住んでる貧乳はどうすりゃいいですか?2』を購入するため秋葉原へ。ひどく暑いが、秋葉原が真夏の雪に覆われる幻を視ることで事なきを得る。『ぬきたし2』購入後、購入者抽選会に参加したところ出演声優の直筆サイン色紙を当ててしまう。「おめでとうございます!」とスタッフに祝福されるが、どうしたらいいのか分からなかったため終始あいまいな顔をしていた。釈然としない気持ちのまま『プリ☆チャン』をプレイして帰宅。さっそく『ぬきたし2』に取り掛かりたいところだが、今は『真・恋姫†無双 ~乙女繚乱☆三国志演義~』を進めている最中なので、まずはそちらを優先する。それにしても、ここまで袁術を魅力的に描いた作品というのは他にないのではないか。これまで個人的に一番好きなエロゲヒロインは『君が望む永遠』の大空寺あゆだったが、その次か、あるいは同じくらい袁術を気に入ってしまった。人生ってなにが起こるか分からないんだな。袁術に強い感情を向ける人生。これもまた多様性のひとつ。
 今日は短歌を15首詠んだ。その中から1首。《日傘さす女ゆるゆると横切りて詩型はわれを救い給わず》。歌もエロゲも別にぼくを救ってくれる訳じゃない。それらはただ心地よい空白としてぼくの時間を満たす。それでいいじゃないか。今夜も眠れそうにない。

7月30日
 エロゲにおけるHシーンというのは概して退屈なものだ。なぜならHシーンに突入するや否や、それまでヒロインが形成してきた人格(キャラクター性)は崩壊し、ただ不気味に喘ぐだけの肉塊になってしまうからだ。ツンデレキャラも清楚キャラもお嬢様キャラもみな一様に従順になり、顔のない主人公(プレイヤー)に組み伏せられてしまう。ここには、欲望を達成するためにはそれまで愛してきたキャラのまさに本質を形成するキャラクター性を崩壊させざるを得ないという、オタク一般に課せられた悲喜劇がある。ことはエロゲに限った話ではなく、アニメなどの二次創作においても、好きなキャラの痴態を描くためにはそのキャラのキャラクター性の一部または全部を放棄し、姿かたちは同じだが得体の知れない〝何か〟に変換する作業がどこかで必要になってくる。エロとキャラクター性というのは両立しがたいものなのだ。
『抜きゲーみたいな島に住んでる貧乳はどうすりゃいいですか?2』は、そういった面から考えるに、この「エロとキャラクター性」の両立に成功、というより挑戦した作品である、と言っていいと思う。特にその性質が顕著なのはサブシナリオのひとつである麻沙音ルートにおいてだ。さらに限定するなら、麻沙音ルートにおける口淫シーンにおいてだ。前提として、麻沙音とは主人公の妹であり生意気かつ早口かつレズビアンの根暗オタクとして描写されている。レズビアンであるため主人公と道ならぬ恋をするといったことはなく、あくまでオナニーの補助として主人公との行為に及ぶのである。さて件の口淫シーンでは、主人公に口淫しながら麻沙音が作中の全ヒロインの口調や口癖を声真似するといった場面が出てくる。ここにおいてサウンドノベルの根幹を形成する〝声優〟という制度が、またキャラを成立させている口癖や性格といった構成要素がメタ的に捉え直されている。この声真似に主人公は反応してしまうわけだが、ここで浮上してくるのはキャラをキャラたらしめている本質、つまりキャラクター性とは何なのか、という問いである。声真似に興奮し、結局は果ててしまう主人公というのは、エロとキャラクター性の狭間に翻弄されるオタクの戯画といった感じがしてどこか痛ましいが、Hシーンにおいてここまでその問題を突き詰めていった作品というのは珍しく、妙な感動を覚えてしまった。
 しかし全般的に言って、語尾や口癖によるキャラ付けや、「エロに奔放な孤島」「表の顔は立派だが裏ではだらしない生徒会長」「ルートに入るとデレデレになるヒロイン」といった、ある意味使い古された技法を意図的に踏襲し、それをスタイリッシュに洗練させることで、本作は一周まわって新鮮は作品に仕上がっている。言わばQruppoはエロゲ界の新古典派であり、今後どのような展開を示していくのか目が離せないブランドである。
 などと日記でレビューめいたことを書いても仕様がない。『ぬきたし』については淫語による過剰な言葉遊びやパロディなど、他に語るべき点も多いが、面倒なのでここまでにしておく。
 今日詠んだ短歌。《触れ得ないもののごとくに夏はありわれ寝ころびて蝉しぐれ聴く》。不思議なもので、エロゲをやっていようが何をやっていようが関係なく詩というのは発生する。たぶんこれは生理現象に近いもので、というと顔を顰める人もあるだろうが、結局創作の根っこというのは、そういった自然のリズムの中にあるものなのかもしれない。

8月3日
 エロゲに文学作品からの引用があるとそれだけで嬉しくなってしまう。今日クリアした『ハロー・レディ!』では、シェイクスピア作品の一節を詠唱することが異能を行使する条件となっていた。引用とは基本的に意味の多層化をもたらし、作品世界をより複雑にする役割を担うものだ。しかしそう考えてみると、現代詩の言葉などは異能を行使する際のセリフとしてもってこいだと思うのだが……。たとえば

わたしの屍体を地に寝かすな
おまえたちの死は
地に休むことができない
わたしの屍体は
立棺のなかにおさめて
直立させよ

  地上にはわれわれの墓がない
  地上にはわれわれの屍体をいれる墓がない 

(田村隆一「立棺」)

 と唱え死者たちの亡霊を召喚するのもよいし、

地球はささえられている 千の手に千の苦痛に 地球はとらえられている 万の手に万の不安に
地球はとざされている 億の手に億の怖れに
地球はただよっている おびただしい欠乏と不毛と荒廃の闘争のうえに

(三好豊一郎「われらの五月の夜の歌」)

 などと低くつぶやき全身に瘴気のエネルギーを集めてもよいだろう。今引用したのは共に『荒地』という詩誌に属していた詩人たちで、彼らは敗戦後の混乱のなかで文明の荒廃をモチーフとした詩作を行った。彼らが当時好んで使用した「われわれ」という言葉も、社会的な事象を背景とした民衆の連帯感が失われた現在からみれば空々しいが、その空々しさ、仰々しさがかえって呪術めいていて興味を誘う。こうした詩が一種の〝気取り〟としてエロゲなどに引用されるようになれば、現代詩に対する見方も少しは違ったものになるのかもしれない。
 今日は寝起きに歌を20首作った。そこからひとつ。《花園に死をつかさどる神ひとり時間はあまりに正しすぎたのだ》。起床時と寝る前とは共に詩ができやすい。多少意識が混濁し、日常的な感覚から遊離している時のほうが言葉は操作しやすいのだ。〝常識〟が詩の発生を拒む。けれど常識の一切を喪失した言葉は醜いうわごとと変わらない。詩人は常識と非常識の狭間で、つねにうつくしいうわごとを望んでいる。

8月8日
『神樹の館』をやっていたら、ふいに若山牧水の「傍らに秋草の花語るらく滅びしものは懐かしきかな」という短歌がセリフのなかで引用されたので驚いてしまった。こういった経験は以前にもあり、『アマツツミ』で和泉式部の「もの思へば沢の蛍もわが身よりあくがれいづるたまかとぞ見る」が引用された際にも、同様に虚を突かれたような気分を味わった。ああ、そういえば短歌って、自分の気持ちや状況を代弁させるためにも使えるんだった、と当たり前といえば当たり前のことに気付かされたからだ。普段短歌を作っていても、そうした可能性に気付くことは少ない。短歌が自分の手を離れ、他者の心情へと溶け合ってゆく。歌は〝だれかの気持ち〟となり、〝だれかの状況〟を語る言葉となる。個別から普遍へ、などとよく言うが、いかにして〝わたし〟の言葉が〝わたしたち〟の言葉となるのか。時間によってか。技術によってか。いずれにせよ、その境界は朧で見極めがたい。しかしツイッターなどを見ていると、世界に〝わたし〟の言葉などなく、ただ膨大な〝わたしたち〟の呻きともうわ言ともつかぬ言葉しかないのではないかとも思えてくる。まあそれならそれでいい。そもそもぼくに出来るのは詩を書くことだけだ。〝わたし〟の言葉でも〝わたしたち〟の言葉でもない、永遠に宙吊りのコトバを。
 それにしても『神樹の館』では久しぶりに充実した体験をすることができた。作中に横溢する衒学的で退廃的な雰囲気は『腐り姫』にも通じるところがあり、また自分が〝物語の根幹を司る超越的な女児〟という存在にとことん惹かれて止まないということも再確認できた。
 寝るまえに北原白秋の歌集をめくっていると、こんな歌に出くわした。

おぼつかな鞠のありどの手を逸れて音なかりけり霞むこの昼    

(『黒檜』)

 この生前最後の歌集に収められた短歌は、どこか『神樹の館』の内容と響きあうものがあり、目を引いた。この歌が詠まれた当時白秋は眼病を患っており、視力をほとんど失っていた。そうした中ひとり鞠を手にとり地面につくが、当然手元はおぼつかなく、すぐに鞠はどこかへ逸れて転がって行ってしまう。そうして白秋は、すべてが霞むなか、音のない世界に取りのこされる。このとき白秋の孤独は、韻律の力を借りて普遍へと近づいたのである。
かなかなの声まぼろしの如くして幻ならぬわが身を起こす》。ぼくは東京に来てから、まだ一度もひぐらしの声を聞いていない。

8月14日
 あと少しで朝の5時だ。遠くミンミンゼミが鳴きはじめた。最近気づいたのだが、部屋に引きこもって昼夜逆転の生活を送っていると、季節というものはなくなってしまうらしい。夏になったら夏が舞台のエロゲでもやろうかと春先には考えていたのだが、不思議とそんな気も起きない。こうやって現代人は四季を失っていくんだろうとしみじみ思う。
 今日は『キラ☆キラ』を終わらせた。『CARNIVAL』、『SWAN SONG』をプレイした際にも感じたが、瀬戸口廉也は感情の欠落した主人公を描かせたら日本一だと思う。感情がうまく他者へと、そして自分へと接続されない時の、あの覚めたような違和感。言葉は感情がなくとも動く。それは素晴らしいことだ。言葉は自己と他者をつなぎ、共通の場へと導いてくれる。思うに詩というのは、この〝自己と他者をつなぐ〟という言葉の作用に対する疑惑、ないしは絶望によって紡がれてゆく。「ほら、お前らが使っている言葉というのは、こんなにも奇怪で、得体の知れぬものなのだぞ」と。とは言えぼくはそこまで思い詰めて詩を書いている訳ではない。ただただ諦めているのだ。他者に。そして言葉に。
目が慣れるまでは暗黒を愉しんでことばのなかにわたしはいない》。もちろん、あなたも。

8月16日
 読書はとても疲れる。長くとも1、2時間くらいしか集中力は持続しないし、気が散ってすぐに別のことを始めてしまう。しかしエロゲというのは不思議なもので、ぶっ続けで5時間やろうが10時間やろうが一向に平気なのである。その理由のひとつとして、受動と能動のバランス、があるのではないかと思う。つまり読書が自ら文字を追う、ページをめくるといった能動一辺倒の行為であるのに対し、エロゲはボイスやBGMを聞く、立ち絵や一枚絵を視野に収める、といった受動性と、クリックによる文字送りの能動性とがいい塩梅で混じりあい、長時間の作品享受に堪え得るメディアとなっているのではないか。最近ではオートモードを駆使して飯を食っているときにもエロゲをしているので、起きている間はほとんどエロゲに触れているといっていい。しかしそこに後悔や後ろめたさは全くない。エロゲというのは貴重な青春を費やすに足る実質を備えた作品形式のひとつであり、ぼくは詩や歌とおなじようにこれを生きる糧として愛しているからだ。
 ということで飯を食いながら『凍京NECRO』をやっていた。最初は世界観が下倉バイオっぽくなくて驚いたが、原案の人が別にいるらしく納得。TRUEルートでは下倉バイオの本領が発揮されていて安心した。下倉バイオは一貫してADVという形式の可能性や、選択肢という制度、また作中のプレイヤーの位置などについて考えてきた作家である。それをかなり露骨、端的に提示したのが『君と彼女と彼女の恋。』であり、冗漫でありつつコミカルに、また叙情的に提示したのが『スマガ -STAR MINE GIRL-』であるとぼくは思う。『凍京NECRO』ではそうした主題は作品をまとめる〝技法〟としてTRUEルートにわずかに見られるのみであり、今作において下倉バイオはエンタメに徹したと言えるかもしれない。関係ないが作品の舞台となる近未来の凍京(東京)では秋葉原が「超ゲットー」と呼ばれる無法地帯になっていて良かった。あと雪に覆われてまっ白になった東京タワーの廃墟とか。そういうのがね、いいんだよ。
髪先を光はぬらし死者だけがもつやさしさも明日への針路》。『凍京NECRO』は、あの世界観にしては異様なほど明るい結末だった。希望はつながれ、それぞれの形で主人公たちは明日へと進んでいく。まあ、たまにはそんなのもいいか。

8月18日
「夢」という言葉を日本人は昔から愛好してきた。『古今集』をひも解いてみただけでもその用例は夥しい。たとえば『伊勢物語』にも収録され有名な斎宮と業平の贈答歌、

君やこし我やゆきけんおもほえず夢かうつゝかねてかさめてか

    返し                
かきくらす心のやみにまどひにきゆめうつゝとは世人さだめよ

 などはその代表的なものだろう。古来日本人は愛する人との逢瀬を「夢」という言葉で捉え、それをはかなんだ。けれど一体「夢」とはなんだろう。睡眠中の幻覚か、それとも儚いものの喩えか。辞書的な意味としてそれは正しい。だがぼくが最も重要だと思うのは、「夢」がつねに境界を示唆し、それを暗示する言葉だということだ。この世とあの世、現実と虚構、日常と非日常、そういったものの境目に「夢」は位置し、ときに人をいざない、ときに人をまどわす。今日やり終えた『水月』という作品は、そうした「夢」の性質を見事に描出した力作だった。民俗学や日本神話のモチーフを主軸としつつ、並行世界などの要素も取り入れた本作は、2002年発売ながら物語としての魅力をいまなお失っていない。
 ところで本作は夏を舞台としており、要所要所でセミやヒグラシの鳴き声、また風や波の音などがBGMに挿入される。そうした疑似自然の音を聴くともなく聴いていると、たとえ日本から明瞭な四季が失われても、物語の舞台、ノスタルジーの場としてそれは作品にえがかれつづけ、滅び去った季節の音色をえんえんと反復するのだなと益体もなく思えてくる。四季を知らない世代がやがて現れ、アニメやエロゲを通してそれを学習した彼らは、かつて四季があった時代をおもい感傷するのだ。そもそも季節など人がつくりだした幻であるとも知らずに。
救われるひとつの季節きいちごをつぶしてぼくもゆめのまた夢》。だれかが目覚めるとき、世界はわずかに軽くなる。

8月21日
 家の真向かいで建物の解体が行われていてひどくうるさい。重機が稼働するたび部屋は小刻みにふるえ、あらゆる家具がきりきりと軋んでいる。ぼくはそんな不安定な世界から逃れるべくVita版の『AIR』をプレイしていた。携帯機で美少女ゲームに取り組むのはPSP版の『Ever17 -the out of infinity-』をやって以来なので緊張した。
 Vitaをプレイしてまず感じるのは文字送りによる快楽の強さだ。つまりVitaでは○ボタンなり十字キーなりを押して文字を送るわけだが、これはマウスをクリックするよりも「ボタンを押している感」が強く、そこにかなり原始的な――幼児が音の鳴るオモチャのボタンを押すときに感じるような――快楽が発生するのである。ボタンを押すたびにヒロインが喋る、物語が進む、といったADVの原則的な部分に潜む魅力。美少女ゲームが小説とは異なる点のひとつにこういった〝読者(プレイヤー)の身体と作品との関わり〟が挙げられると思う。先ほど述べたようなボタンを押す、クリックするといった動作の他にも、美少女ゲーム、とりわけエロゲの場合には肉体が反応する、ヒロインで自慰をするといった直接的かつ具体的な形で読者の身体が作品と関わっていく場合も多く、これは他のジャンルではあまり見られない現象である。強い身体性を経由した作品体験は単なる知識として読者に堆積していくのではなく、もっと個人的な感情に結びついた〝思い出〟として記憶されていく。これが過去のエロゲについて人々が語る際にえてして陥りがちな感傷的、ノスタルジックな態度に繋がっているのではないか、とも思えてくる。
 閑話休題。『AIR』の話に戻ろう。この作品は以前にアニメ化されたものを視聴しており、物語のあらましについては知ったうえでのプレイだった。しかし原作をやってみて改めて思うのは、麻枝准の書く地の文の詩的密度の高さである。たとえばふと見上げた空の描写や、迫りくる夕闇の描写など、どれも簡潔ながら叙情性豊かに描かれている。そうした傾向の頂点として、時系列は前後するが『ONE 〜輝く季節へ〜』における「永遠の世界」の描写はポエジーの点において際立っていた。これはもうほとんど散文詩の領域であり、「永遠の世界」の解釈をめぐる議論が当時活発に行われたというのも肯ける。なぜかくも「永遠の世界」に人々が惹きつけられたのかと言えば、まずもってそれは言語による詩的実在感、つまりは有無を言わせぬ「永遠の世界」の描写そのものの魅力による所が多かったではないか。
 また話が『AIR』から脱線してしまった。家の前では相変わらず工事が進み、重機の音がけたたましく響いている。《解体の響きはげしき夏休みなべてこころはここにあらずも》。などと一首したため、なにもかも未完のまま今日という日は暮れてゆく。

8月24日
 今日は『装甲悪鬼村正』の聖地こと鎌倉に行ってきた。また同時にぼくにとって鎌倉とは歌人・源実朝の聖地でもあり、特に彼が暗殺された場所である鶴岡八幡宮にはぜひ一度詣でてみたいとかねてから思っていた。
 鎌倉といえば小林秀雄をはじめ、様々な文学者とゆかりの深い土地として知られているが、いまの完全に観光地化されてしまった鎌倉にあっては、かつて文学者たちがなぜああまで鎌倉に惹かれたのか本当のところよく分からなかった。だが旧前田邸別宅、現鎌倉文学館のテラスから湘南の海を眺めていると、そうした文学者たちの気持ちの一端に触れ得たような気がした。
 高徳院の鎌倉大仏、その生臭い胎内に入るなどした後、満を持して鶴岡八幡宮に向かった。とは言え公暁が実朝暗殺の際に隠れていたという大銀杏もいまはなく、観光客の多さも相まって空々しい気分になるばかりだった。聖地巡礼というのは現実に幻滅するために行うものなのかもしれない。単にぼくが不感症なだけかもしれないが。
透明な翅音のごとく風鈴は鳴りやまずここ鎌倉の街》。高徳院の売店で、大量につるされた風鈴の音をききながら食べたソフトクリーム、おいしかったな。たぶんどうでもいい細部ばかりが記憶に残り、ほかは全部忘れていくんだと思う。非物語的な細部の集積。そこに意味はないが、詩ならあるかもしれない。

8月26日
 ニコニコ動画には「みんなのトラウマ」というタグのついた動画群が存在し、そこでは例えばアニメの残虐的、また衝撃的なシーンを集めた動画などがアップされている。
 そうした動画のひとつに『エロゲーズ トラウマシーン集』(https://nico.ms/sm500024)というものがあり、この動画ではタイトル通りいくつかのエロゲにおける悪い意味で記憶に残りそうなシーンが集められている。取り上げられている作品は『車輪の国、向日葵の少女』、『斬魔大聖デモンベイン』、『沙耶の唄』、『君が望む永遠』、『マブラヴ オルタネイティヴ』の5つであり、タイトルを見ただけで該当シーンがわかってしまう人も多いかもしれない。
 なぜこんな昔の動画(2007年投稿)について触れたのかというと、これはぼくがエロゲというものについて具体的に知ったはじめての動画だからだ。こうした動画を通してエロゲというものを学んだ当時のぼくのエロゲ観は当然のごとく歪んでいた。エロゲとはえっちなゲームのことでも恋愛を楽しむゲームのことでもなく、どこかおぞましく猟奇的で、人間性の闇を垣間見せるような作品群のことだった。
 そして今日、『斬魔大聖デモンベイン』をクリアしたことで、ぼくは上述の五作品をすべてやり終えた訳だが、なんというか、自分の過去に打ち克ったような妙にすがすがしい気分である。そうして思うのは、混沌を混沌のまま終わらせる作品というのは存外少ないものだということだ。上述の作品に限らず、物語というのは基本的に混沌から秩序へと向かっていく。病める心は健常な心へ、異常は正常へと回収される。それはエンターテインメントとしてプレイヤーが求めているものに寄り添った場合必然的に齎される帰結であり、異とするに足りない。しかしエロゲにはいわゆる「バッドエンド」というものがあり、そこにおいて混沌は混沌であることを許され、異常は異常のまま受容される。ぼくはこの〝全てが未回収のまま混沌へと至る可能性〟を描けるという点にエロゲのもつひとつの美質をみるのだが、今回プレイした『斬魔大聖デモンベイン』にも魅力的なバッドエンドが用意されていた。そこで主人公は無限の混沌に囚われ、醜怪で不条理な世界を生きることとなる。この作品がクトゥルフ神話を主なモチーフとしているだけあって、その描写は他の作品ではなかなか見られないほどおぞましく、また鮮烈だった。
混沌のただなかにあるやすらぎよ割れた貝のみ散らばる浜で》。ぼくはただ欲しているのかもしれない。どこにも行きつかず、決して癒されぬ物語を。

8月29日
 ゲームの攻略本、というのは現代の予言書のひとつだ。そこにはこの先、ゲームがどのような展開をむかえるのか、どこでだれが死に、だれが仲間になるのか、はたまた世界の黒幕がだれなのかに及ぶまで、すべてが詳らかに記されている。ぼくはかつてこの予言書を愛し、買ってもいないゲームの攻略本を読んでは、その見たこともない世界の秘密を握ったような気になって、ひとりひそかに悦んでいた。
 ところで、攻略本があるようなADVは稀だが、攻略サイトをもたないADVというのは殆どない。そしてぼくは、そうしたサイトを利用することにまったく躊躇のない人間のひとりだ。(ぼくはゲームをゲームとして楽しむ能力に欠いている)。そして今日プレイしたのが、攻略型ADVのひとつの完成形ともいうべき『この世の果てで恋を唄う少女YU-NO』(Vita版)である。この作品のもっとも特徴的な部分といえば、「A.D.M.S(アダムス)」というオートマッピングシステムにあるだろう。これにより、通常不可視のはずのフローチャートが可視化され、それを「宝玉」というアイテムを用いて行き来することで、プレイヤーは物語を進めてゆく。ぼくはもちろん、そんな画期的なシステムとは無関係に〝予言〟が記されたサイトを閲覧し、そこに羅列された外道の知識にしたがって作品を踏破し尽した。主人公はおそらく、自分の行動に疑問をもったことだろう。「なぜ俺は、こうまで的確な選択をし、ためらいもなく道を歩めるのか。俺の全身はみえない糸でつながれ、頭上には俺を操る傀儡子がいるのではないか……」。
 ぼくは指先ひとつで主人公を破滅へ、ときに救いへと導きながら、ぼく自身を操るみえざる神について思った。
傀儡子はかなしからずや自らを操るゆびの白きをしらず》。みえざる神のことを、人は〝コトバ〟と呼んだ。

9月1日
『月に寄りそう乙女の作法』をプレイして面白かったのは、この作品がエロゲにありがちな〝深刻さ〟のことごとくを回避している点にあった。例えば名門、大蔵家にあって妾の子として蔑まれてきた主人公は、だからといって過酷な虐待を受けていたわけではなく、将来大蔵家に仕えるため教育などはしっかりと施されていた。また、アルビノであるがゆえに両親から疎んじられてきたメインヒロイン、桜小路ルナは、使用人の裏切りにあうなどしながらも、陰湿ないじめを受けるといった体験はしていない。極めつけは、花之宮瑞穂が男嫌いの理由で、エロゲの常套としては過去に男の乱暴を受けたりといったトラウマが原因であることが多いが、彼女の男嫌いは、いわゆる〝好きな女子にちょっかいをかけてしまう〟という男子の天邪鬼さに対する無理解に起因しており、あ、それってありなんだ、とぼくは素で驚いてしまった。
 もちろんぼくはこれらの要素を批判的に捉えているわけではない。ヒロインのトラウマを恋愛を通して主人公が解消する、といった図式にはもう飽き飽きしていたからだ。この作品もそうした呪縛から自由であるとはとても言えないが、トラウマが深ければ深いほどそれを解消した際のカタルシスが大きくなる、といった安易なドラマトゥルギーからの脱皮の兆しが、本作の人物造形にはあったと思う。
 そういえば、ユルシュールという「ですわ」口調のツンデレお嬢様キャラのルートに入ると、おもむろに主人公が「普通日本人は『ですわ』なんて言葉使わないんだよ」とユルシュールをたしなめ、それ以降ユルシュールから「ですわ」口調が失われるといった衝撃的な展開をむかえる。ぼくはそれから物語がまったく頭に入ってこず、失われた「ですわ」口調の行方が気になって気になって気が狂い、いま病院にいる。
夏のまに死にゆくこともゆるされず衰えてなお蝉のなくこえ》。ぼくがどこにいようが夏は終わっていくし、夏にまつわる感情も終わっていく。夏を閉じ込めようと数多の詩人たちは夏を書き留めてきたが、いまだその試みが成功したことは一度もない。

9月4日
 外に出ると、あきらかに夏とは違った匂いを空気から感じるようになった。秋の訪れを詠んだ

秋きぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる

 という藤原敏行の歌はつとに有名だが、衰えた現代人の耳では、もはや繊細な風の音など聞き分けることはできない。ただあたりに立ちこめる夏の屍臭を、わずかに秋の先触れとして嗅ぎつけるばかりだ。
こうしてたまに外出し、季節の生き死にを体験して気持ちよくなった後は、おもむろに部屋に戻りエロゲを再開する。バランスが大事なのだ。詩的な気分に浸ることも肝要だが、それのみでは生きることも詩を書くこともできない。
 今日やったのは『月に寄りそう乙女の作法』の続編にあたる『乙女理論とその周辺 -Ecole de Paris-』だ。今作は前作のバッドエンド後の物語であり、ある種のIFストーリーとなっている。しかし〝バッドエンド後の物語〟という発想はとてもいい。幸福は停滞だが、不幸は変化への意志をもたらす。ある詩人は「不幸はつづけ!」と叫んだが、その意味するところはここにある。とは言えこの作品でいちばんの変化を遂げるのは主人公ではなくその妹、ブラコンでひきこもりの大蔵里想奈だ。彼女は現状を打開するため主人公とともにフランスへ留学する。そこでの苦難を縦糸、大蔵家のお家騒動を横糸としてストーリーは展開していくが、どちらかというと大蔵家の内実を描くことに焦点が当てられており、その部分には興趣を覚えた。
 この作品をクリアしてぼんやりしていると、ひさしぶりに詩が書けそうになったので、書いた。海の詩だった。以前鎌倉でみた海がここになって出てきたらしい。
 だれのためでもない、自分のための詩を多く書きたい。それだけが本当の意味での充足をぼくに与えてくれる。
青空にうかぶ月よりなお薄くつかみがたきかな詩のはじまりは》。詩の1行目、というのは詩人にとって永遠の謎である。それがどこから来るのか、いつ来るのかは詩人本人にも全くわからない。そのいつ来るかも知れぬ1行のために詩人の生活はあり、暇な時間はエロゲなどをやって案外気楽に生きている。

9月7日
 昔のエロゲ雑誌でも売ってないかと思い中野ブロードウェイに行く。まんだらけなどをまわってみたが収穫なし。代わりに『未来にキスを』の公式ファンブックとアリスソフトのイラスト集、それに『真・エロゲー トラウまにあくす』という謎の本を購入。非常に怪しい本だが、インタビューなども充実している。
 中野駅で帰りの電車を待っていると、偶然にゃるらさん一向と出くわす。これからブロードウェイに向かうというので、ぼくも同行する。
 ぼくは週1くらいの頻度でブロードウェイに行くが、2階の「古書うつつ」「まんだらけDEEP」、4階の「まんだらけ海馬」など、基本的に寄る場所は決まっている。けれどにゃるらさん達はあらゆる店舗を丹念に見てまわるので、オタクカルチャー全般に疎いぼくはその広汎な知識に毎回驚かされる。実際、マニアとして特定のジャンルに特化するのではなく、広い意味でのオタクコンテンツに習熟するためには、幼少年期からのたゆまぬ継続が必要であり、そこには努力とか後付けではどうにもならぬ時間の堆積がある。彼らとブロードウェイを巡っていると、そんな古層の一部をかいま見るような気がしてたのしい。
 一通りブロードウェイを見てまわり、四季の森公園を目指して歩いていると、公園前で「中野オクトーバーフェスト」なるイベントが行われていた。よく分からないが、人々が集まって酒を飲んでいた。一緒にいた豊井さんが「こういう人たちと関わること一生ないんだろうな」と言った。
 彼らと中野駅で別れひとり帰宅。『月に寄りそう乙女の作法2』の残りと今日買ってきた『月に寄りそう乙女の作法2.2 A×L+SA』をプレイ。『つり乙2』に関していえば、大蔵ルミネルートが印象深かった。技術とセンスの問題。詩で喩えるなら、いくらレトリックが巧みでも、そこにある種の〝感動〟が定着できていなければ、作品としては二流のものにならざるを得ない、ということ。
『つり乙2.2』は桜小路アトレルート目当てで購入した。アトレルートは『つり乙2』のバッドエンドから派生。実妹ルートである。実妹を押し倒しているところを発見され、それまで好意的だったキャラのことごとくから軽蔑される主人公。よくぞここまで主人公を痛めつけられるものだとライターに感心してしまう。
『つり乙2』エストルートの結末近く、主人公はこう独白する。

僕も伯父様も学院長も、天才になりきれずに苦しむ、才能ある凡人だからね。

 このセリフは、『つり乙』シリーズに共通するテーマを暗示している。『つり乙』とはつまり、サリエリ達が主人公の物語なのだ。天才にはなりきれず、けれど天才を見抜く眼をもった彼らは、その才能に焦がれ、どうしようもなく惹かれてゆく。《透きとおる翅ふるわせていずこへと向かう天使になれぬぼくらは》。その様はときに可笑しく、ときに哀しい。

9月8日
 台風が来るらしい。台風が来ると聞くたび、ぼくは村木道彦の

東南方洋上はるか台風あり全き破壊を持つごとくわれ

(『現代歌人文庫 村木道彦歌集』)

 という短歌を思い出す。迫りくる台風と二重写しになった、若きゆえの全能感。
 台風が来るまでの束の間、以前にゃるらさんからいただいた『planetarian ~ちいさなほしのゆめ~』をプレイすることにした。
 この作品で描かれるのは恋愛ではない。ロボットであるほしのゆめみは、〝人間〟という種に対する親愛を抱きはしても、主人公という個人を愛したりはしない。その微妙な違いがおもしろい。ゆめみが最期に望むのも人間との共生であり、主人公個人への愛ではない。いわゆる純愛といったテーマからは少し逸れた場所で展開される人とロボットとの交感は、意外と新鮮で心地よかった。
星座盤まわすあなたのゆびさきにかなしみ宿りふいに夜となる》。いま外は気味が悪いくらいに晴れている。予報によると、深夜には台風が直撃するらしい。災厄はいつもこんな風に訪れる。うつくしい青空と共に。

9月12日
 夏休み最終日。『るいは智を呼ぶ』及び『るいは智を呼ぶファンディスク -明日のむこうに視える風-』をプレイ。夏休みの最後を飾るにふさわしい作品だった。
「僕らはみんな呪われている」。作中でくり返されるこの言葉は作品の世界観を端的に示している。悪意、偽善、不実、裏切り、ディスコミュニケーション。そうした世界のあらゆる理不尽、不合理の象徴としての呪い。主人公たちはそうした〝呪い〟に対し、群れをつくることで対抗する。こう言ってしまえばありきたりな、よくあるストーリー。しかしこの作品を非凡なものとしているのは、特にファンディスクの末尾における、主人公と恵の、ほとんど信仰告白ともいえる一連の対話だ。そこで彼らはこの呪われた世界を肯定する。「不実な世界でも、揺るぎない一瞬の美しさが、かつて確かにあったという事実」のために、明日を生きることを誓約する。ぼくはこういった、痛みを痛みとして受け入れて、それを引きずったまま生きていくといった考え方がすきだ。というか、そのように生きていくしかないのである。

鎖につながれたら、鎖のまま歩く。十字架に張りつけられたら、十字架のまま歩く。牢屋にいれられても、牢屋を破らず、牢屋のまま歩く。笑ってはいけない。私たち、これより他に生きるみちがなくなっている。            

(「一日の労苦」)

 太宰治がこう書いてからもう半世紀以上が経過したが、状況はなにも変わっていない。ぼくらは秩序を望むのではなく、混沌として呪われた世界を、丸ごと背負って生きるほかない。運が良ければ、そうした世界にあっても、なにか美しいものと巡り合えるかもしれない。もし悪ければ、世界は死ぬまで不毛の荒野だ。
 美少女ゲームというものも、この世界にあってはひとつの不毛にすぎない。しかし時としてそれは、「一瞬の美しさ」としてぼくらの胸をとらえる。その美しさはきっと、どこにも行きつくことはないだろう。作品が終わればやがて、ぼくらはヒロインの名も、物語のあらすじも忘れてしまう。そうしてすべてを忘れ去ったあとに、なお〝思い出〟として残るわずかな光があれば、ぼくらは生きてゆける。馬鹿みたいにそう信じる。嘘でもいいから、言葉にして書き記す。そうやって騙しだまし、ぼくらは老いてゆく。かつてぼくらが大人になったときと、同じように。

思い出になるまで風を光らせてさよなら永久とわ に非在の少女

※本記事は、第二十九回文学フリマ東京(2019/11/24)において頒布した同人誌『インターネット2』に執筆したエッセイを転載したものです。

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