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『透明だった最後の日々へ』試し読み

1月18日発売の新作小説『透明だった最後の日々へ』(星海社FICTIONS)の試し読みとして、本編冒頭の1章を公開いたします。

あらすじ

「──ぼくらは無傷だろうか?」

震災の記憶に囚われる学生詩人のリョウ、
エキセントリックだが純粋な心を持ったミズハ、
小説家を志す退廃的な美青年ナツト。

それぞれの孤独を抱えた三人の若者は、
やがて訪れる別れの予感を胸に、
生きることの絶望を分かち合うーー

詩人・岩倉文也が満を持して贈る
不穏にして至純の青春小説。

装画:浅野いにお

第一部


  子供のころ、死体ごっこが好きだった。暗い寝室のベッドの上に立って、ぼくは前のめりにゆっくりと倒れ込む。視野がふさがって、甘くしめっぽい匂いが鼻孔を圧迫する。ぼくは息を吸う力を弱め、できるだけ脱力して、自分がいま、まさに、誰かにやっつけられ、息絶えていく様を空想する。ぼくは倒された勇者であり、武将であり、ゲームの主人公だった。ぼくはそのとき、何か遠いあこがれと繫がっている自分自身を満身に感じていた。ぼくは死ぬ、と思った。心地よいしびれが、手足からだんだんと、体の中心に迫ってくる。しびれが頂点に達したとき、ぼくは一段階深い虚脱へと入ってゆく。するともうぼくは、われしらず、安らかな眠りの世界へ、ふっと連れ去られてしまう――。

 そんな記憶を、ミズハの寝顔を見ていて思い出した。

 薄く開かれた口から、白い歯が覗いている。整った顔のミズハは、眠っているとなお人形めいて見えた。人形、と言っても、それは子供がおもちゃにするような可愛らしい物のことではなく、芸術家が手ずから心血を注いで制作し、冷たく凝固した美でむしろ人を寄せ付けない、そんな世俗からは隔絶された孤高の人形の面影が、ミズハにはあった。

 彼女の頰に触れる。全く化粧というものをしない彼女の肌は少し脂っぽく、わずかに光沢を帯びている。肌は冷たかった。形のいい鼻筋を指先でなぞる。それにも飽きると、ぼくは口許から覗いた白い歯に、こつ、こつ、と、小指の爪を当ててみる。

 ベランダの網戸からぬるい風が吹き込んでくる。それに合わせてレースのカーテンがゆるく波打つ。音といえば、マンション近くの幹線道路をはしる車の、虻のようなざらついた響きしか聞こえては来ない。それすらも途切れがちで、ぼくは自分が夢の中にいるのではないかと錯覚した。

 見るともなく、かすかに上下するミズハの胸に目を遣っていると、食器棚が鳴った。ベッドの端に腰かけていたぼくは、さあっと血の気が引いていくのを感じた。地震だった。建て付けの悪い食器棚の引き戸は、どんな微弱な揺れにも敏感に反応し、まず真っ先に音を立てる。そのガラスが擦れ合う甲高く不快な音を聞きながら、身を縮め、ぼくはその場から動くこともできずに固まっていた。ただ、音が聞こえる。ゆったりと、木材が軋むような、誰かが歯を不器用に鳴らすような、音が聞こえる。揺れは長くは続かなかった。十秒もしないうちに、世界は静まった。動悸がする。

「んん……」

 ミズハが寝返りをうった。

 掃き出し窓を開けてベランダに出た。だしっぱなしのサンダルに足を入れると、幾粒かの砂の感触が足裏をくすぐった。夕暮れ、とまではいかないが、日は西に傾きつつあるようだった。五月の風は、光は、さっきの地震なんかにはまるで頓着する様子もなく、ただ、やさしくあたりを満たしている。

 ぼくはそんな光景に、ふと、雪の幻を見た。

 雪は、止めどもなく、一心に地上へと降りそそぐ。ひとひらひとひら大きな塊となって、ああ、これはぼた雪だ。

 ぼた雪がふる中を、ぼくは唯さんを探して歩き回っていた。そこは小学校の校庭で、全校生徒が校舎から避難して集まってきていた。まだ整列は済んでおらず、制服を着ている者、体操服の者、防寒着を羽織っている者いない者、みんな違った服装をしていた。全員上履きのままで、その白い部分が土でよごれていた。

 大きな地震があったのだ。卒業を間近に控えたぼくたちは英語の授業を受けていて、机は全部教室の後ろの方へ片づけられていた。体育座りをして先生の話に耳を傾けていると、ひとりの男子が「地震だあ」と言って立ち上がった。すぐに、それが噓ではないことが分かった。なんだか揺れている。教室の後ろへみんなは急ぐと、椅子を載せたままの机の下になんとか隠れた。その時には揺れは激しくなっており、これが尋常の事態ではないことに皆が気づいていた。ほとんどの女子はすでに啜り泣いていて、「女子泣くな!」男子が叫んだ。「しょうがないじゃん」と何故だかぼくは口に出し、校舎が倒れなければ死なない、校舎が倒れなければ死なない、とそればかりを考えていた。天井板が何枚も剝がれ落ちてきて塵埃が舞った。棚の上のブラウン管テレビが落下して砕け散った。教卓が前に倒れ、隠れていた先生が剝き出しになった。「地球さんごめんなさああい!」クラスのお調子者が大声を上げた。

 壊れるべきものが全て壊れつくしたあと、青色のウインドブレーカーを着た体育教師が廊下を颯爽と駆けながら「コウテイヒナーン! コウテイヒナーン!」と繰り返していた。ぼくは机の下から這い出すと、着の身着のままで教室を飛び出した。

 そのとき、ぼくは友達のことも、唯さんのことも、自分自身のことをも、最早考えなかった。ぼくは振り返ることなく廊下を走り、階段を一段飛ばしで駆け下りた。

 校庭にはすでに一二年生が避難して整列しているようだった。どこへ行けばいいのかも分からずに辺りをうろついていると、冷たいものが頰に当たった。雪だった。三月の雪は、ぼくの住む山麓の街では決して時季外れではないが、厚ぼったいぼた雪が、こんな風に音もなくだだっ広い校庭に降り注ぐのを見るのは、なんだか初めてのような気がした。

 だんだんと六年生も集まってきた。

 ひとりの男子がぼくの肩を叩いて「これじゃあ今日は遊べそうにないね」と言った。

 それで、放課後かれと遊ぶ約束をしていたことを思い出した。

「おおっ」ふいにどよめきが上がった。大地が揺れていた。不思議な感覚だった。遠く校舎の窓ガラスが鳴っている。何か、大きな怪物が苦しんでいるような音だった。

 手すりから手を差しだし、たなごころを上に向けるが、もちろん雪など降ってはいない。ここは東京で、いまは穏やかな初夏である。ぼくは半ば放心しながら、浮かぶ鱗雲や空の色彩を見詰めていた。こぢんまりした四階建てのマンションではあるが、その四階の角にあるぼくの部屋からの眺めはなかなかのものだった。南向きの部屋で、殊に南西側には高い建物がなく、景色が開けていた。広々とした空は、いつ見てもぼくの心を軽くする。

 すでに動悸は治まっていたが、右手の甲に発疹が浮かんでいた。無意識に搔き毟っていたらしく、白い爪痕が幾筋かついている。僅かに血が滲んでいた。

 部屋から物音がした。トイレを流す音が聞こえ、後ろから足音が近づいてくる。

「なにやってんの?」

 振り向くと、ミズハが窓枠を左手で押さえながらぼくを見ていた。肩まで伸びた髪は乱れ、瞳は寝起きで潤んでいる。ぼくは視線を戻し、向かいに建つ廃墟のえんじ色の屋根を見下ろしながら「なにも」と答えた。

 ミズハは素足のままベランダに出ると、ぼくの横に並んで手すりに凭れた。

「さっき地震あったんだけど、気づいた?」

 ぼくは聞かずでもいいことを問いかける。

「いや、寝てて分かんなかった。リョウは起きてたの?」

「ああ――うん。まあ」

 それきり言葉は途切れ、ぼくは視線をぼんやりと宙にさまよわす。

 ミズハは、切れ長の二重瞼を眠たげに瞬きながら、遠くに建つマンションの給水塔を見上げていた。その横顔に目を注いでいると、ぼくはふいと、彼女をはじめて目にしたとき、少年と見誤ったことを思い出した。

「ねえ、ちゅーしていい?」

 体をぼくの右肩に摺り寄せながらミズハは言った。そちらを向くと、口許にどこか意地の悪い微笑を漂わせた彼女の顔が間近にあった。鼻の下の産毛が、西日を浴びてうすく金色に輝いていた。

 ぼくはわずかな抵抗を感じたが、「ん」とだけ言って、後はなるように任せた。

 ミズハを駅まで送ると、ぼくは駅の北口にある広場のベンチに腰かけて、そこを行き交う人々の姿を目の端に留めながら、夕暮れの底にある空気に身を浸していた。今この瞬間、雪が降ればいいと思った。近くで老人が何かを叫んでいるが、よく聞き取れない。地面に目を落とすと、血のついたティッシュやペットボトル、くの字に曲がった煙草の吸殻などが、街を構成するひとつの要素として、じっと身をひそめるように転がっていた。

 地面から目を上げる。夕映えに波打つ街の景色が、折りたたまれて体に入ってくる。

 詩が書けそうな気がした。けれど、詩を書くことでこの充実した気持ちが虚脱へと変わるだろうことを思うと、それも躊躇われた。詩を書けば感情は言葉となり、言葉の元となった感情は心から消えてしまう。たとえ詩が失敗に終わったとしても、感情はもう戻らない。今はそれが詐術めいて感じられた。

 空を賑わせていた夕光の最後の輝きが失せてしまうと、ぼくは立ち上がり商店街の方へ歩き出した。横断歩道を渡り、通りの名が記されたアーチの下をくぐろうとしたとき、スマホが鳴った。取りだして見ると、ミズハからメッセージが届いている。帰りの電車で詩を書いたので見てほしいという内容だった。メモ帳アプリに書いた詩をそのままスクショした画像が送られてきていたので、ざっと目を走らせてみたが、相変わらず出来はあまり良くなかった。

 ミズハとはSNSを通じて知り合った。ぼくは元々そこで詩のようなものを書いて投稿していて、彼女はぼくのフォロワーの一人だった。最初、なんてことのない内容のダイレクトメッセージが飛んできて、いくつかやり取りを繰り返しているうちに、通話してみようということになった。その頃ぼくはまだ東北の田舎に住んでいて、ひきこもり同然の生活をしていたから、そんな誘いも新鮮に思えたものだった。

 やがて進学を機に上京し、間を置かずミズハと直接会うことになった。

 駅の改札前に突っ立っていると、ぼくの名を叫びながらいきなり腰に抱き着いてくる人があった。それがミズハだった。ミズハは全身薄いベージュ色のゆったりした服を着ていて、両性どちらともとれる格好だった。

「どうして分かったの?」駅の構外に出てから聞くと、

「なんとなく、雰囲気で」そう言うミズハは、目だけは笑わずに、媚とも期待ともつかぬ複雑な微笑を口許に浮かべていた。だがそれは不快ではなく、むしろぼくには爽やかな感じをすら起こさせた。四月初旬の匂い立つような光の加減が、ぼくにそう思わせたのかもしれない。日差しの下でミズハを見ると、ますます性別が分からなくなった。

「ボクって男と女、どっちに見える?」

 適当に入った喫茶店で、ミズハは例の微笑を浮かべながらぼくに問いかけた。目はぼくの顔にじっと据えられているようだったが、ぼくには会話の際人と目を合わせる習慣がなかったので、肩の辺りに目を逸らしながら、

「男だと思ってたけど」

「そう見える?」

「うん、まあ。違うの?」

 その時、隣のテーブルにいた二人の若い女性客が笑い声を上げた。ミズハは急にそちらを向くと、露骨に舌打ちをし、相手に聞こえる声量で「うるさいなあ」と吐き捨てるように言った。女性たちは一瞬戸惑ったような視線をこちらに向けたが、何かを囁き合い、そそくさと席を立ち会計を済ませて店を出て行った。

 その姿を黙ったまま見送ると、ミズハは何事もなかったかのように会話を再開した。

「ボク、体は女なんだよね。でも、女として扱われるのは嫌なんだ。だからって心が男とかそういうんじゃなくて、どっちでもない感じ」

 ミズハは声が低く、たぶん意図して無性的に振る舞っていたので、通話している際にはずっと男だと勝手に思い込んでいた。実際に会ってみても、髪は長く肩まで伸ばされていたが、中性的な顔立ちをしていることもあって、打ち明けられるまでは男だと思っていた。というより、強いてそう思い込もうとしていたようだ。何故かは分からないが、そうあって欲しいとぼくは思っていた。

 だから、ミズハの告白にはちょっと虚を衝かれた感じがあった。しかし、それならそれで大した不都合もなかったので、ぼくは曖昧に頷いておいた。

 続く言葉はなく、ぼくはストローを咥えコーラを少し飲んだ。炭酸はもう抜けていて、ただ甘たるい感じだけが舌先に残った。目を上げてミズハを見ると、披露した手品が不評だった人のように、どこか期待外れな顔をしていた。だが視線に気がつくと、ふいと表情をやわらげ、ぼくのことについて質問をはじめた。

 血液型であるとか、利き手であるとか、生年月日、好きな食べ物に嫌いな食べ物、果ては住所まで、ぼくの個人的な情報はなんでも知りたがった。そして答えるたびに、ミズハはスマホにその回答を記録していくのだった。質問に答えながら、ぼくは中ほどまでコーラの残ったグラスを見つめていた。コーラのある部分だけ、わずかに結露している。指先でそれを拭うと、頭の中に涼が走った。ミズハが何か言ったが、うまく聞き取れない。ぼくは喉の奥で唸り、ストローでコーラをかき混ぜた。すると、小さくなった氷が浮き沈みして、ぼくはその繊細な動きにふと言い知れぬ魅力を感じた。そして同時に、いまここの情景が、数刻後には永久に失われてしまうことを思った。

 喫茶店を出たあと、行く当てもなかったので、ミズハの住んでいるという街まで電車で向かった。そこはひどく汚らしい所で、駅を出てすぐの場所に、露骨な文言が壁に記された風俗店が密集していた。まだ昼間だというのに、客引きと思しき男が妙な目つきで店の前をうろついている。

「この街めっちゃ治安悪くてさ、家にいると、なんか外から外人の怒鳴り声とか聞こえてきたりするんだよね」自慢でもするみたいにミズハは笑う。

 少し歩くとカラオケ店があり、そこに入ることになった。

 ドリンクバーで適当な飲み物を確保し、ぼくとミズハは狭苦しい個室のソファーに腰を下ろした。先程からミズハは、自分がいかにぼくのことを昔から知っていたか、いかに熱心にSNSを追いつづけてきたかについて喋りつづけていたが、ふいに口を閉ざし、ぼくの隣までにじり寄ってきたかと思うと、

「ねえ、手でしてあげよっか」

 ぼくの顔を覗き込みながら、仔細らしく言うのだった。

「え、嫌だけど」

「なんで? いいでしょ? ぽわたんさんは最後までやらせてくれたよ、このカラオケで。大丈夫、べつに見つかったりしないし、見られたって誰もなんも言ってこないんだから」

 ぽわたんという人物に心当たりはなかったし、見つかる見つからないの問題ではなかった。ぼくはこのときはじめて、ミズハがちょっと常軌を逸しているのではないかと思った。

「いや、いいよ、ほんとに。ぼくそういうの好きじゃないし」

「えー残念。ボクね、ちんこに触ると安心すんの。別にそれだけで、大した意味はないんだけどさ。なんでなんだろ。――あ、」

 ミズハの顔が迫り、視野が暗くなった。

 と、唇になにか触れるものがある。

「ならキスでいっか。あれ、もしかして初めてだった? ま、気にしないでよ。挨拶みたいなもんだから」

 ミズハを見送った帰り道、ぼくは両手にスーパーのレジ袋をぶら下げて歩いていた。掌に捻れた取っ手が食い込んで、一足ごとに鈍く痛んだ。重さのほとんどは十本近く買い込んだミネラルウォーターが原因だった。ミズハは極端な偏食で、食べられるものは限られていたし、飲み物といえば水くらいしか飲まない。それで、ミズハは放っておくと水道水を飲もうとするのだが、水道水は自分で飲むのも、人に飲ませるのも気が進まなかったので、結局、家にはミズハ専用のミネラルウォーターを常備しておくことになった。ミズハはそのことにいたく喜んでいたが、喜んでいるミズハを見ると、何故だかぼくは居たたまれない気持ちになるのだった。

 見上げると星ひとつない夜空が広がっている。うっすらと霧がかったように、夜空の底は白かった。この空が、ぼくの生まれた街まで続いていると信じるのは難しい。しかし、空はたしかに続いていて、建ち並ぶ廃屋や木々の繁みを隈なく包んでいるはずだった。

 先ほどミズハが送ってきた詩を頭のなかで反芻する。そのたびに、実際のミズハの面影がちらついて、詩のほうは醜くくすんでしまう。書かなけりゃいいのに。ぼくはそう思う。思いながら、自分の傲慢さに嫌気が差す。

 じっと目を凝らして、今見ている夜の風景に、雪が降るところを幻想する。だが、昼間のようにはうまくいかなかった。


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