『NEEDY GIRL OVERDOSE』感想

昔のフランス文学なんぞを読んでいると、パリの人というのはよく田舎に出向いていたことが分かる。夏には避暑のために、上流階級の人士たちはこぞって田舎の別荘へと赴き、どうやらそこでひと夏を過ごしていたらしい。しかし田舎へ行くと言っても、彼らはみんな同じような場所に別荘を持っているため、結局はパリ同様の社交を田舎でも行うこととなり、そういった面倒を避けたいのであれば、より辺鄙なところへ出向かなければならなかった。

かく言うぼくも今は田舎に帰り、徒然な日々を送っている。正月はとっくに過ぎているので、特にこれといった理由があってのことではない。強いて言うのであれば雪が見たかったのと、東京の喧騒から逃れたかったからだ。

けれど不思議と、田舎にいても心は落ち着かない。何となく不快である。と思って近くに目を落とすと、いつもそこには一台のスマホが黒々と横たわっている。

スマホやSNSといったものは、かつて田舎の中高生だったぼくにとっては世界を覗き見るための窓だった。特に、引きこもり同然の生活を送っていた頃のぼくにとっては、社会と繋がる唯一の手段がSNSであったといっても過言ではない。

が、ひとたび東京で暮らしはじめ、たまに田舎へ帰郷するとなると、このスマホという物体が、SNSという仕組みが、なんとも疎ましくてたまらない。いつも世間を持ち歩いているようなもので、手の中のスマホから、都市の喧騒が鳴り響いているような気さえする。見なけばいいのだが、あるのに見ないでいられるほどぼくの自制心は強くはない。それで、全く意味もなくぼくの心はすり減ってゆく。


1月21日、にゃるらさんの『NEEDY GIRL OVERDOSE』が発売された。本作は掻い摘んで言えば、承認欲求の強い女の子「あめちゃん」を最強の配信者に育てるために奮闘するADVである。配信のネタ集めに外出したりネットを徘徊したりクスリを飲んだり……といったことが上手くゲームシステムに組み込まれており、あめちゃんの可愛さやエンディングの豊富さも相まって非常に中毒性の高い作品となっている。

けれど特に魅力的だったのが本作の異常なまでの細部への拘りである。細部と言っても色々あるのだが、ぼくは職業柄、あめちゃんの発する言葉の生っぽさに惹きつけられた。なんというか、ここにそのまま引用すると逆に陳腐に映ってしまうくらい、あめちゃんの言葉はありふれている。だがそこにわざとらしさがないのである。少々まどろっこしい言い方になるが、「わざとネタっぽい言い回しを多用する現代のSNSユーザーの言葉遣い」が、極めて洗練された形で、しかも大量に本作では使われている。

この過剰さが、本作のテーマを形作っている。

プレイすればわかるが、本作は様々な過剰にあふれている。あめちゃんの承認欲求の過剰、ニューレトロおよびVaporwaveカルチャーを汲んだ背景や演出における色彩の過剰、ゲーム画面を覆い尽くし、様々な情報を常時更新しつづけるタブの過剰、そして何よりも、ゲーム中に登場する複数のSNSや動画配信サイトでのコメントに見られる、言葉の過剰。

これらの過剰さは暗に、ぼくらが現在属している広範なインターネット環境の在りようを象徴している。そこでは陰謀論が飛び交い、人格を持った個人の言葉は意味のないうわごとへと解体される。一つの言葉が慰めにも攻撃にもなり、不気味な泡沫として次々に生まれては消えてゆく。

あめちゃんは、そんなインターネットの世界を体現するような人物だ。あめちゃんは超絶最かわてんしちゃんとなり、半ば冗談、半ば本気でインターネット・エンジェルを自称する。しかし、現代のインターネットを体現するとはどういうことなのか。それはつまり、人格の不断の分裂と拡散、それに果てのない承認への飢渇に身をゆだねることなのではないのか。

だから本作が辿り得る結末のほとんどは、暗澹としたものだ。少なくとも、あめちゃんがインターネットとうまく折り合いをつけるといった、穏やかな結末は用意されていない。1か0か。インターネットをやめるか、インターネットと共に破滅まで突っ走るか。そのどちらかである。

このことには、ぼくらが日々どっぷり浸かっているインターネットののっぴきならなさというか、ある程度インターネットを軸に活動せざるを得ない人間がどこかで行きつくあろう隘路を予感させるものがあって、ぼくにはちょっと恐ろしかった。

しかしインターネット・エンジェルとは言い得て妙である。インターネットは、人を人ではない何かに変えてしまう。人の姿を保ったままインターネットで活動するとは、なんと困難なことだろう。いや、そもそも人間が本来的に持っている精神や人格の不安定さが、インターネットによって炙り出されているだけなのかもしれない。

いずれにせよ、本作をプレイし終えたぼくに残ったのは、にゃるらさんはなんてものを作ってしまったんだろうという感嘆と、出口のないインターネットの泥沼をありありと見せつけられたことに対する戸惑いだった。この戸惑いを助長したひとつの要因は、本作がここ2、30年ほどの間にネット上に現れては消えていった様々なコンテンツに対するパロディー的な言及に溢れていたことにある。パロディーというより、オマージュと言った方が適切かもしれない。この、過去のネット文化やコンテンツに対する強烈なオマージュ精神を抜きにして、本作を語ることはできない。

しかし、である。そのオマージュ精神こそが奥行を作り出し、本作を他の追随を許さない時代の精華にまで仕立て上げたのであるが、と同時に、作品世界に一種の息苦しさをもたらしてしまったことも否めない。元ネタが分かる、分からないの話ではなく、無数のオマージュは全てがインターネットに取り巻かれていることへの自覚を促すからだ。

結局のところ、ぼくが見てみたいのはその外側の景色であり、いかにインターネットと共存しつつ、そこで日々繰り広げられている地獄から身を逸らすかということなのである。

残念ながら、本作でその可能性は描かれていない。と言うより、作品の構造上描くことができないのだから、これはぼくのないものねだりだ。

むしろ、そうした可能性を描き得ない、否、描くことが困難であるという事実を突き詰めて提示していること自体に、本作の真価は、また息苦しさの究極の原因はある。

これはゲームなのだから、とはぼくは思わない。優れた作品には、いつもぼくらを困惑させ、少なからずぼくらの存在を脅かす要素が含まれている。それは、現実世界の目を背けたくなるような負の側面をも、陰に陽に、作品は物語ってしまうからだ。

本作は暗示的にではあるが、その何かに触れてしまっている。極彩色のビジュアルとは裏腹に、本作はすべてが不毛と化す荒野へとつながっている。

だからこそぼくは本作に強い魅力を、そして抵抗を感じるのだ。


ぼくは今日、家の近所でも普段は足を踏み入れることのない場所へ散歩に出かけた。そこは里山のような場所であり、見渡す限り果樹園が広がっている。しかし今は冬、葉を落とした果樹はただ寒々と虚空に枝を突き出しているばかりだ。何もない。時たま、山の彼方から猟銃の音が聞こえてくる。その響きは尾を引いて、だが彗星のように瞬く間に消えてしまう。

枯れた山が見える。灰色の頭に、わずかに雪を積もらせた老人が見える。木の枝はそよとも動かない。雲さえも動かない。

荒涼とした景色を切り裂くように、電線は細く長く空に架かっている。電線の上を、鳶のつがいが音もなく旋回している。凍り付いた池の面から白鷺が飛び立つ。

ぼくの肉体はいつも半分だ。ぼくはインターネットを恋い慕いながら、また激しく憎んでもいる。何もない田舎を嫌いながら、もうそこなしでは生きていられない。


それで、ぼくはどこへ行こうか?



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