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lain全話レビュー

Layer:01 WEIRD
『Serial experiments lain』について語ることはぼくの詩的来歴について語ることと等しい。あるいはまったく無関係である。さて第一話。まずは電気を消すことからはじめよう。このアニメは暗い部屋のなかでしか楽しむことができない。暗い部屋をもたないものは、どんな鋭敏な感性をもっていても詩を書くことはできない。目を病むことなど些細な問題である。アニメとは、暗い中に浮かび上がってこそ価値があるというものだ。
 オープニング曲である「DUVET」を聴きながら考える。ぼくが『lain』と出会ったのは灰色の地方都市にある小さなレンタルビデオショップにおいてであった。ぼくは十四歳。ぼくはそのころ人間だった。限りなく人間だった。なにをしていたか? 人間を。勉強をし竹刀を振り、顔に湧いたニキビに気を病んでいた。たしか、友達だっていたはずだ。時は二〇一二年。ぼくは取りあえず『lain』を一枚だけレンタルした。
 そのときと同じ映像をぼくはいま見ている、と言えるのだろうか。八年という歳月は長くもなければ短くもない。あのころは福島で、いまは東京で。ぼくの網膜に映るのはぼくの認識、そして記憶、そして岩倉玲音のまだ幼さを残した容貌。あるいは電線、電柱のたぐい。赤い影、白い光。

  つながりを断たれた一本の電線が
  電柱にやわらかく絡まっている
  地響きが眼球まで上昇して
  攪拌された街の輪郭
  をふるえながら
  影はしずかに横切った

 これは「街の風景」というぼくが最初期に書いた詩の一節であるが、単語の傾向や内容から『lain』に受けた影響が色濃く感じられる。ぼくの昔の詩には電線やら電柱といった単語が頻出するがたぶん全部『lain』の影響だ。しかし影響、とはいったいなんだろう。ぼくは『lain』を見てことばを受け取った。あるいは世界そのものを? 「──どうしてそうしなきゃいけないかは、自分で考えなくてはいけないこと」「こんなところにいたら、いつまでも繋がる事なんて──」
 はじめて『lain』を見たときぼくがなにを感じたかいまのぼくには分からない。ただぼくは続きが見てみたいと思ったに違いないのだ。モニターに映し出されていた世界はぼくの心象に限りなく近かった。ぼくがいずれ抱くであろう心象。いずれ自らのものとして作品化しなければならない幻がそこには確かに存在していた。ゆえにぼくは憑かれた。「──怖くなんか──ないよあたし」「──会いたい友達がいるの」
 ぼくはこの作品についてうまく語ることができない。ぼくはまた何もかもをほったらかしにして自分の影をみつめるはめになるだろう。なんてつまらない、と思うかもしれない。なんて退屈な、と思うかもしれない。
 玲音は坂道の途中で立ち止まる。「──そこは、どこ?」ぼくは立ち止まるというよりむしろ後退しながら現実をすすんでゆく。どこまでゆけど坂道の途中で。上っているのか、それとも下りて? 「──待ってよ」いまなにか消えた気がする。
 消え続けている?

Layer:02 GIRLS
 不安、と名指されるものとぼくはかつて親しくしていた。夜。クラブなどというものはぼくの街にはなかったし今の時代にそんなものがまだ残っているのかぼくは知らない。「サイベリア? 別に来たくて来てるんじゃない」ただずいぶん昔ぼくの故郷は有名な花街だったらしい。最近よくそのことについて考える。いまじゃ廃墟と老人ホームしかないあの街に色があふれていたなんて信じられない。「僕は、加速したのを感じた」画面では少年がドラッグをキメて加速している。そう言えば不登校だったころ、市販薬のレスタミンコーワ錠を過剰服用していた時期があった。あの薬はたくさん飲むと透明なミミズが見えるようになったり、全身が甘く痺れて自我が崩れそうになったりする。しかしレスタミンを過剰服用するとすぐに意識が保てなくなり昏倒してしまうので、ぼくは時間をスキップする目的でそれを使用していた。朝服用すると、夜になっているのだ。
 ああ、その頃ぼくは日記を書いていたっけ。日記。自分を現実に繋ぎとめるための、自分が今日存在していたことを証明するためのつたない言葉。ぼくはこの日記を今でも近くに置いている。もう書くことのなくなった日記。そこにはぼくが詩を書く以前の、身を裂くような自意識が記されている。ぼくは詩を書くために、そんな自意識を売り払ったのだ。重い荷物だった。だから詩を書くことでぼくは、少しずつそれを減らしていった。詩作とは、ある種の思考停止である。自分を自分以外の何者かに委ねてしまうこと。それはインスピレーションとか、直感とか、才能とか呼ばれているものとは少し違う。言うなれば自意識の自殺である。自意識を自殺させなければ詩など書けはしない。詩人は詩を書く瞬間、自意識を殺すのだ。ぼくはそれで楽になった。とても楽になった。「コミュニケーションというものは、人と人との関係が成熟するのに合わせて、それなりの高度なシステムが必要なものだよ。判るかい? 玲音」それによって、ぼくの欲望が少しばかりこの世界から遊離してしまったとしても、それは仕方のないことだ。自意識は人を重くする。自意識がなければ、人は浮かんでしまう。だがぼくは飛びたいと願ったのだ。
 一冊の黒い日記帳。その存在を意識するたびぼくは微量の後ろめたさを感じる。何かを得るためには何かを失わなければならない。ああ、たぶんこれが成長なのだ。詩を書くとか書かないとか以前に、これは単なる成長なのだ。いまそれに気づいた。なんて明快なんだろう。成長。成長。成人して、あの頃から五六年が経って、ぼくが変わった。或いは、ただそれだけのこと。
「どこにいたって、人は繋がってるのよ」
 ただそれだけのことが、なぜだかぼくには、無性に悔しい。

Layer:03 PSYCHE
 玲音補導回。警察署から家に帰るとだれもいない。だれもいない家、というのがぼくは好きだ。人の気配のない、特に夜がいい。電気も点けずに、窓から射しこむ月明かりだけが部屋を照らしている。ときおり、車の音くらいなら聞こえてもいい。蛙の声、すずむし、蜩のたぐいも歓迎だ。人の気配さえなければそれでいい。自然の音は沈黙をより深いものにしてくれる。夜。それは人をおびやかし、けれどやさしく抱擁する。ぼくが実家に住んでいたころ、ぼくが最も欲していたのは静けさだった。静かな部屋が欲しい。それだけがぼくの望みだった。家族の物音も、近所の、スナックから漏れ聞こえる歌声も、あるいは遠く、響いてくる祭りの太鼓の音も嫌だった。
 詩を書きはじめてから、その思いは強くなった。詩が来るときーんと意識が張りつめて、見えなかったものが見えるようになる。というか、意識が拡張される、と言ったらいいのだろうか。この世界にはなにひとつ欠けたところがなく、完璧で、自分という存在の過去も未来も現在も、すべてが見通せたように感じられる。詩が来る、とはそんな状態で、けれどもこの状態は、話しかけられたり、些細な物音などで雲散してしまう。だからぼくは、どんどん神経質になっていった。詩がいつ来るかは自分にも分からないからだ。それはシャワーを浴びている時かもしれないし、寝る直前かもしれない、場合によっては、人と話している最中にそれが起こるかもしれない。もし落着けない環境で詩が来てしまったら、それは大きな損失だ、と当時のぼくは考えていたらしい。
 けれど今のぼくに、そんな幸福な詩の訪れなどはない。あらゆる快楽は摩耗してゆく。どんな薬も使いすぎれば効きが悪くなるのは必定だ。詩作とて同じこと。最初あった高揚感は薄れ、ただの日常へと変わる。詩作による快楽は、詩が身体に馴染んでいくに従って消えてゆく。詩人になるということは、詩が楽しめなくなるということだ。詩とはぼくの目であり、耳であり、鼻であり、そして処世術にすぎない。
「あたしはリアル・ワールドにとっていてもいなくてもどうでもいい存在だった。それが判った時、あたしは肉体を無くす事に何の怖さも感じなくなったの」

Layer:04 RELIGION
 荒涼とした世界だ、そう思う。この世界がいかに豊饒であっても、その印象を拭うことはできない。ぼくらは日々どれだけの物語を消費しているのだろうか。断片か否かには関わらず、つねに何かしらの物語に浸っている。漫画でもアニメでもエロゲでも小説でも、あるいはソシャゲでもツイッターのタイムラインでも構わない。ぼくらはきっと余白を恐れている。寝ている間でさえ、人は夢という物語をみてしまう。そして詩とは物語からの切断であったはずだ。余白こそが真に豊饒であると、書かれなかった物語にこそ価値があると示すための言葉。けれどぼくは──。
 話数を追うごとに玲音はおかしくなってゆく。「いや、おかしくはないんだ」ケーブルに埋め尽くされ、混沌としてゆく玲音の部屋は、ぼくを少しだけ寂しくさせる。物、は、さびしい。物に覆われた部屋、というのは、なぜだかぼくには、内心の空虚さを裏付けるもののように見えてしまう。物の堆積が示すのはただ時間だけ。人はなにも所有することなんてできないのに。
 ぼくはモニターから目を離し自分の部屋を見回してみる。積まれた本にCD、封筒、エロゲのパッケージに薬瓶。干されたままのバスタオルにTシャツ。これが生活かと思うと嫌になる。これらはぼくの所有物というより、所有したくでもできなかった物たち、と言ったほうがしっくりくるような気がする。特に本などは、ほんとうに内容を理解して内面化し得たのであれば手放してもいいはずの物だ。それができないのは不安だからに違いない。まだそれは自分の物ではないと、まだ所有し得てはいないのだと。だからぼくは、自分の部屋というものにうんざりしてしまう。そして自分の欲望にも。
「一つだけ、忠告しておこう」
「え……?」
「ワイヤードはあくまでも情報を伝達し、コミュニケーションをする為の空間。リアル・ワールドと混同してはいけない」
「──」
「忠告の意味、判るかな?」
「──違うよ」
「──え?」
「そんなに境界って、きちんとしてないみたいだよ」
 言葉は所有への諦め。それとも憧れ?

Layer:05 DISTORTION
 自分がなにを怖れるのか、について考えるのは有意義なことだ。生物学的な本能からは離れて、自らの恐怖の所在について追及すること。たとえそれが不可能な試みであったとしても、恐怖への意識を研ぎ澄ませることは己の感受性の基盤を問い直すことにつながる。人は恐怖によってではなく、恐怖の不在によって非人間化されてゆく。恐怖がなければ探さなければならないし、探しても見つからなければ作り出さねばならない。それでも作れないのであれば思い出すまでだ。ぼくらはかつて多くのことに恐怖していた。ただその時のことを思い出しさえすればいい。「もしそれが聞こえているなら、それはあなたに語りかけている。もしそれが見えるなら、それは、あなたの……」
 ぼくの恐怖。思い出せる限りいちばん古い恐怖の記憶。それは眼。バッタの眼に対する恐怖である。
 ぼくは子供時代、たぶん小学二年生ごろまで、頻繁に虫を殺していた。カマキリ、バッタ、コオロギ、トンボ、ジョロウグモ、そんな虫たちをいたぶっては殺していた。小さな虫かごにクモとカマキリを何匹か入れて放置し、生き残った方を殺虫剤で殺したり、ビニール袋に詰めた虫を冷凍庫に入れて凍死させたりした。ぼくにとってそれは何か、とても手触りのある行為だった。他に代えのきかない行為だった。
 けれどある夜、ぼくはひとり布団のなかで奇妙なものを見た。バッタの眼。どこにも焦点の合っていないような、黒い黒い単眼。ぼくはまだ眠ってはいなかったと思う。起きながら、ぼくはバッタの眼を見つめていた。決して見つめられていたのではなかった。かれらは何も見ないし、何も感じない。ただぼくが脳裏で、バッタのうつろな眼を強く感じていたに過ぎない。それはぼくに今まで感じたことのないような恐怖を与えた。良心の呵責、というのとは違う。別にぼくは後ろめたさを覚えたわけじゃなかった。単に眼が、バッタの顔に貼りついた一対の黒点が、怖かったのだ。
 理由なくはじまった虫殺しは、理由なく発生した恐怖によって終わった。その夜以降、ぼくはバッタやコオロギといった直翅類の虫を頭に思い浮かべるのさえ嫌になったし、それは今でも変わらない。なぜぼくが今さらこんなことを書くのかと言えば、この虫殺しとそこからの離脱の体験が、ぼくにとってどこか本質的な、つまり感性の根源を規定するような出来事に思えてならないからだ。人は誰しもそうした出来事をいくつか持っている。固有の手触りを有した感性の根拠を。そしてそこへと至るため、人は何度でも繰り返す。詩人であれば同じイメージを、画家であれば同じモチーフを。
 創作行為とは、基本的に反復である。恐怖もまた──。恐怖。そう、ぼくが今回恐怖について書き始めたのは、『lain』第五話がホラー回だったからだ。岩倉家において唯一まともな存在だった玲音の姉、美香は、この回を最後に理性を失ってしまう。そもそもが特異な『lain』の世界にあって、このシナリオは抜きんでて異様である。渋谷の騒然とした風景をバックに、美香は徐々に追い詰められてゆく。一体なにに追われているのかも分からないまま、時制すら曖昧になってゆく世界で、ついに美香は、もうひとりの己自身を発見してしまう……。こう書くと意味不明だが、実際その通りの話であり、ひたすら自己という存在が崩壊してゆく過程が、〝預言〟という言葉を軸に表現されている。
「ワイヤードのゼウスは、その支配力を、ことによったら既にこのリアル・ワールドにも及ぼしている可能性だってある。そう、〝預言〟という形で」
 預言。しかしそれはからの預言だ。だれもその内容を知らない。だからこそ価値を持つのか。だからこそ預言の実行を迫られた美香は、あんなにも恐怖したのか。
「じゃあこういうのはどうかしら。出来事というのは、必ず預言がまずあるものよ。出来事は、預言があって初めて現実化するの」
 預言。超越者の意志。言葉。それは、飛んでいる? 電線のあたりに。落ちている? 電柱のそばに。

Layer:06 KIDS
 無為な日々を送っている、と思うことがある。今のように原稿を書いていたとしても、それはぼくの無為にはなにも付け足してはくれない、と感じる。それはずっと前から、ぼくに付き纏っている感覚だ。
 第六話。『lain』もそろそろ折り返しという所。ここまで書いてみて分かったが、『lain』について考えるということと、ぼくについて考えるということとの間には、やはり境界がない。ぼくは、いつもそうなのであるが、作品というものをあまり見ていない。ぼくはいつも作品と、ぼくとの間にある距離を見つめている。端的に言えば、なにもない空間を見つめている。たぶんそれが実感としてはいちばん正しい。関係性、と言ってもいいかもしれない。ぼくと世界、ぼくと作品、ぼくと他者、その関係性。ぼくでも対象でもない、その間にあるもの。間にあって見えないもの。それがぼくの興味の対象だ。どちらでもなさ、が、詩の機会となる。詩のつけ入る隙を生む。
「あなたがワイヤードで何をしたいのか、どういう存在になろうとしているのかは知りませんが、あなたは、強いですよ。とてつもなく、強い。もしこのワイヤードに神がいるのだとしたら、あなたは祝福された子どもです」
「あたしは──あたし。別に何になりたいとか──」
 前言を翻すようだが、ぼくは本当はなににも興味がないんじゃないかと思うことがある。ただ水が低きに流れるように、詩やアニメや小説やエロゲや──を選択しているに過ぎないのではないかと。その選択の偏りこそがお前の興味だと言われればそれまでなのだが、どうもしっくりこない。時間。生きている限りそれを埋めていかねばならないため、常になにかしらの作品を消費してはいるし、自ら求めてもいる。むしろ、なにかを消費していないと、居心地が悪くて仕方がないくらいだ。が、全てぼくにとってはどうでもいいことのように感じる。たぶん、だれしもそうなのだと思う。そもそも作品とは、いつも、欠如の具現化だ。だがそれは、作品外の世界が、充実していることを意味しない。この世界には、欠如以外のものが存在しない。たとえ存在していたとしても、ぼくらには認識することができない。欠如である人間が、欠如である作品を求めている。これでは、満足しようがないではないか。されど、欠如以外見当たらないのであれば、それはそれ。
 不満足も、無為も、退屈も、どれも、人を殺すほどの毒ではない。少量の毒は、人を酔わせ、人を官能させる。
 そう自らに嘘をつくこと。それで今日も生きてゆける。

Layer:07 SOCIETY
 屋上。玲音は鉄柵の前にしゃがみ込んで、住宅地を見下ろしている。
「──リアル・ワールドなんて──、ちっともリアルじゃない……」
 街を覆う電線。それも上から見ると、太陽の光が反射して輝いて見える。
 電線が風に揺れる。そのたびに光は、きらきらと身じろぎを繰り返す──。
 そうそう、これだよこれ。電線って言うのは、黒いばっかりじゃないんだ、晴れた日に電線を見下ろすと、ねじれた部分に光がたまっているのが分かる。雨上がりの時なんかはそこに水滴が混じっていて、信じられないくらい綺麗なんだ。
 電線。というのはいつ見ても、ぼくの感性を刺激する、実家のぼくの部屋からは、幾本かの電線が見渡せた。よく晴れた日なんかには、その電線を飽きるまで見つめていたっけ。電線はいつも、かすかに揺れている。震えている、と言った方が正しいかもしれない。震えているもの、揺れているもの、ぼくはそれらに敏感だ。ぼくは三年間、ずっと部屋の中から外を、絶えず動揺する生者の世界を見つめてきた。部屋の中にいると、実に、なにも動かない。一切は垂直にたれ下がる。自分が、生きているのか死んでいるのか分からない。と、陳腐なことばを言ってみたくなるほど、一切は静止したままだ。
 ぼくは電線の他に、一本のケヤキの木。も見つめていた。ケヤキは季節ごとに色を変え、冬になると葉を散らし骸骨になった。けれど、そんな状態の枯れ木ですら、よおく見れば動いている。枝の一本一本が、風にあおられて震えている。無音。そうすべて窓から見た世界は、無音。ぼくにはそれが好きだった。枝も葉も電線も、また道行く人たちも、みな無音のままに揺れうごく。奇妙な現実。一枚の窓を隔てて、奇妙な現実。が、そこにはあった。
「──俺は知ってるんだ。ワイヤードとリアル・ワールドはリニアに繋がってるんだって」
 インターネットは、そんなぼくと世界を接続し、ぼくに稀薄ながらも意味を与えた。そして詩は、ぼくと世界との間にある距離を測定し、結局はぼくも、移動しつづける仮初めに過ぎないことを教えてくれた。人は、静止しながら動いているし、止まっているつもりでも、震えている。

Layer:08 RUMORS
 よく言われる『lain』の分かりにくさ、というのは、作中で使用される用語やストーリーの難解さに原因があるのではなく、玲音の抱いている心象が、じかに映像として表現される点にあるのではないか。例えばいま見ている第八話において、「のぞき屋」であると噂された玲音は、教室から体育用具室まで駆け出しそこでひとり泣きべそをかく。座り込んでNAVIを握りしめる玲音。すると突然、玲音を中心として用具室が爆発炎上し、燃え盛る火のなか玲音はうつろな顔をこちらへと向ける──。これは現実で起こった出来事というより、玲音の心象の風景と見ていいだろう。それがなんの説明もなく映像として表現されることによって、ある種の困惑が生まれる。同様の表現は第一話から繰り返し用いられており、それに馴染むことができなかった場合この作品を〝分からない〟と判断してしまってもおかしくはないと言える。
 だがもちろんぼくはこういった表現主義的ともいえる手法が好きで好きでたまらない者のひとりであり、そうした観点から見るとこの第八話は実に印象深く、何度見ても秀でていると感じる。先ほど挙げた爆発炎上の場面もそうだし、ありすたちの記憶を消去した玲音が、まっしろな世界にひとり取り残される場面にしてもそうだ。もはやワイヤードにも、リアル・ワールドにも確固とした起点は存在しない。玲音がリアル・ワールドにおいて記憶の消去という超越的な権能を振るったことにより、それらの境界は完全に崩壊してしまった。玲音は浮遊する。もともと稀薄で、現実感の乏しかった世界は、ますますその意味を失ってゆく。 
「あたしは、あたしだよね……? あたし以外のあたしなんて、いないよね……?」
 暗い自室で、泣きながらNAVIのモニターを撫でさする玲音。その姿の痛切さは忘れ難い。モニターに触れる、という行為の、うつくしい不毛さ。ひんやりとした手触りの、のちに残る指紋も、自分のものと思えない虚しさ。すべてを引っくるめて、玲音は泣いているのだ。

Layer:09 PROTOCOL
 ぼくは庭に立っている。まわりにはいちめんの白。膝丈までの白。近くには母親が立っている。その気配をぼくは感じている。つめたい、とは思わなかった。どんな言葉も、出てはこなかった。ああ、白い。その激しい白さだけが焼き付いている。
 これはぼくの記憶。これ以上遡ることのできない、いちばん最初の記憶。その日までぼくは、ゆき、という言葉を知らなかったのではないか。そんな気がする。
 記憶。ぼくをぼく足らしめるもの。たぶん詩人にとっては、なによりも大切な創作の糧。
 記憶。それは古ければ古いほど、純粋なイメージに近づいてゆく。映像。というのとは違う。ことばによる記録、というのとも違う。えいえん。もしくはそれに近いのかもしれない。純粋である。ということは、意味を持たない、ということ。
 誰しもがもっていて、この世界でもっとも詩に近い場所。それが最初の記憶。いちばんふるい思い出。詩を書く本質的な動機、というものがもしあれば、それは、最初へ帰りたい、という願望以外にはありえない。まだ言葉もなかった場所。すべてが無意味で、すべてが純粋で、すべてが永遠だった場所。そこに少しでも接近するために、詩人は言葉を尽くすのだ。
 思い出。それは詩の最小単位である。
 自らの内にある最古の記憶。それに勝る詩を、詩人はたぶん一生かかっても書くことができない。

  昭和十年十二月十日に
  ぼくは不完全な死体として生まれ
  何十年かかゝって
  完全な死体となるのである
  そのときが来たら
  ぼくは思いあたるだろう
  青森市浦町字橋本の
  小さな陽あたりのいゝ家の庭で
  外に向って育ちすぎた桜の木が
  内部から成長をはじめるときが来たことを

  子供の頃、ぼくは
  汽車の口真似が上手かった
  ぼくは
  世界の涯てが
  自分自身のなかにしかないことを
  知っていたのだ

 記憶について考えるとき、ぼくはいつもこの詩を思い出す。これは寺山修司の遺稿「懐かしのわが家」の全文である。寺山修司ほど、おのれの記憶にこだわり続けた詩人も少ない。また寺山修司ほど、おのれの記憶に手を加えた詩人もないだろう。そんな詩人が最後に到達した場所こそが「懐かしのわが家」であり、「世界の涯て」は「自分自身のなかにしかない」という認識だった。これはある意味では暗澹とした結論である。自らの記憶と格闘し、それを虚構化という手段をもって乗り越えようとした寺山修司。しかし彼も、最後には「懐かしのわが家」へと目を向け、そこを詩の墓標と定めた。
 記憶とはほんとうに記録なんだろうか? 記録とは記述可能かつ客観性をもったものを言うが、記憶はその逆。つまり記述不可能かつ、客観性をもたない。記憶とは身体感覚に近いもののように思える。それはどちらかというと、体験である。記憶を思い出すたび、ぼくたちはなにかを現前させ、そのなかにすっぽりと収まってしまう。「そんな事は関係がない。存在自体が記憶されていれば、それは既に記録なのだから」
 記憶。ぼくが詩人であり続ける限り、ぼくはこれに執着する。
『lain』第九話が放送されたのは一九九八年八月三一日。
 ぼくの、生まれた日だ。

Layer:10 LOVE
 愛について考えたことがぼくにも一度くらいはある。それは確か中学二年の夏休みのことだったと思う。庵田定夏の書いたラノベである『ココロコネクト』を読んでいた最中、ぼくは唐突に「そうか! ぼくは人を愛するために生まれてきたんだ!」と悟ったのだ。一体どういう思考の経過を経てそう直感したのかぼくはもう覚えていないのだが、そのときの衝撃だけはいまでもしかと記憶している。ぼくが明確に愛というものを思考の俎上に乗せ、実感を持ってひとつの結論に至ったのはそのときが最初で最後である。が、もちろんそんな考えは長続きしなかった。ぼくはそのあと読書感想文を書くためにカミュの『異邦人』を読み、「なるほど、人生って無意味なんだな」と素直に納得し(それまで人生が無意味だなんて考えたことは一度もなかった)、以降は「不条理」「無意味」「虚無」といった言葉に惹きつけられ文学書を濫読するようになってしまったからだ。
 たぶんここらへんに分岐点があったのだと思う。ここで『異邦人』などといったこてこての文学書など読まずに、『ココロコネクト』で感想文を書いていれば……。そうすれば愛について考え、愛のために生きる善良なオタクになっていたかもしれないのだ。
 実際笑いごとではないのである。この〝中学時代にどの本で読書感想文を書くのか〟という、一見すると些細な選択肢こそが、その後のぼくの人生を左右する最重要の分岐点だったのだ。だがそんなことも知らずに、ぼくは考えうる限りもっとも最悪な選択をしつづけた。中一で『人間失格』、中二で『異邦人』、中三で『地下室の手記』。これではバッドエンドに連れて行って下さいと言わんばかりではないか! 
 偶然性。というものを強く実感する。そしてその偶然でしかなかったものが、いつのまにか必然みたいな顔をしてぼくのなかに居座っていることに違和感を覚える。
 もしこの世界に偶然でないものがあったとしたら、それはきっと、呪いよりも恐ろしいなにかだ。──感受性の必然。ふいにそんな言葉が頭をよぎる。「時代は感受性に運命をもたらす」。そう書いた詩人はいったい誰であったろう。
 己自身が枝であり幹であること。可能性は枝をのばし際限なく広がってゆくが、幹である己は一歩たりともそこを動くことはない。動くことはないのだ。
「──君にはもう肉体なんて要らないんだよ、玲音……」
 肉体がなくなれば運命もなくなる。けれど、運命が消え可能性そのものになったとき人は、真に身動きのとれなくなった自身を虚空のうちに発見するほかないだろう。

Layer:11 INFORNOGRAPHY
 Aパートは総集編、のようなもの。高速で、錯乱した、イメージが連続する。玲音。が、みている記憶。記録? 音楽が吹っ飛んでゆく、主に、血。ずいぶん早いけどぼくどこにも行けないんだ。声。ああ、声だ。渋谷っていう街にあるくらい暗い路地に降ってきた女の子の肉体。けど──今日は晴れてもいるし曇ってもいる。風が吹く。ぼくがいる暗い部屋はノックするドアを持たない。だからたぶん外に出れば、ひどく高い場所からの落下。に相当する衝撃を受けるはずだ。バン、バン、と、銃声。そして父が笑う。こんなにも電線の下で、正気を保つことは難しい。黒い、影たちが闊歩する闊歩する。玲音。こっちに来ればいいのに。どんなものだって眼球に映ればぼくの所有だ。ぼくの内部だ。坂の途中で、轢殺された銃口がこめかみに当たっているよ。青い、青い空。ときとして赤く、ぼくの指先はことばを紡ぐけれど、ありすの顔がなによりも記録にけぶる。焼け付くように生きたかった気がする。わずか二十数分の命だったとしても、自分が世界から弾き飛ばされる瞬間の快楽は壮大だろうな。もう、音楽だって余命いくばくもない。ネットワークに接続。そして、そして、ぼくは、のっぺらぼうになったのだよ、玲音。Aパート終了。Bパートへ。「なに? まだリアル・ワールドにいたいの? ズルいなあ。君が僕をこっちに呼んだんだぜ」そうだぼくはきみに呼ばれてここまで来た暗い部屋から、暗い部屋を通って。ずいぶん時間がかかったよ。七年? 八年? ぼくは何もしないことで世界を反転させようと思ったんだ。電柱をひとつひとつ数えて、その下にぼく自身を埋めていった。なにせ坂道の多い街だったからね、大変だったよ。でもね「もうすぐここはここじゃなくなる。君がそうしようとしているんだ。だから、ここにはもういない方がいい」風だってどんどん強くなってる。空だってもう青すぎて死人みたいだ。ぼくには分かるんだぜ、ぼくがこれからどう生きてどう死ぬかってことが。ぼくは生まれた時から生きることを終えているんだ。ぼくは半分の正気で半分の狂気をあがなう。窓という窓から首を突き出して、善人どもにこう言ってやるのさ。「肉体なんて、無意味なんだ。判ってるんだろ?」

Layer:12 LANDSCAPE
 小説──ぼくがいまのぼくになった原因ともいえる文学の一形式。それと正面切って向き合うことを怖れたからぼくは、詩なんぞを書いているのではないかとさえ思えてくる。
 ぼくはここ三、四年まともに小説を読んでいない。詩を書きはじめたから、というのもあるが、なにかぼくにとって小説とは、かつて親しかったがいまは疎遠ないとこ、みたいな存在なのである。
 小説──それは物語と言うより、もっと垂直的なものとしてぼくには見えていた。ぼくはそこに並べられた言葉のうち、印象的なフレーズに付箋を貼り、採集した。それは蝶を針で留めるのと同じだった。ぼくという自我の根幹は、そうしたフレーズのパッチワークで出来ている、と言っても過言ではないと思う。ぼくは切実に、世界認識の指針となる言葉を求めていた。だからかつてのぼくにとって読書とは、精神的な慰安でもなければ暇潰しでもなく、食事に近いものだった。それがなければ自己を維持することもできない……。
 なにかぼくはいまひどく重苦しい。小説──というか自己について語ることはいつも重苦しい。この重苦しさこそが生きるということなのかもしれないが。こうした生存そのものの、自我そのものの重さから逃れたい一心で、ぼくは──詩を書いてきた。これはもう何度も述べたことだ。
 肉体をなくし、言葉になること。言葉以外のなにものでもないなにかに、自分を変身させること。詩を書くものにとって、それ以上の理想はないだろう。だが──そのような理想を持つものは、結局は自らの肉体に復讐されるほかはない。そして自らが望んだ当の言葉にさえ、最後には裏切られてしまう。
「──なあんだ、そうだったんだ。世界なんてこんなに簡単なものだったの。あたし全然知らなかった。あたしにとって世界は、ただ怖くって、ただ広くって……、でも判っちゃったら、なんだかとっても、楽……」
 ぼくはきっと、全てに裏切られることを望んでいるのだ。

Layer:13 EGO
 ぼくがレビューらしいことを一切書かないので、或いは憤慨された方もおられるかもしれない。いい加減自分語りはよせ、と。作品をだしに自分を語るな、と。
 しかしぼくにとって作品を見るとは、記憶を作ること、と同義なのである。それは数あるほかの記憶と同列に語られ得るし、語らねばならない。
 それに『lain』の場合、ぼくの最もやわらかい部分につきささっている作品だけに、相対化して捉えるなどなおさら不可能であった。

 「きおくにないことはなかったこと
  きおくなんてただのきろく
  きろくなんてかきかえてしまえばいい」

 寺山修司であれば「記憶なんてただの言葉だ」とでも言ったであろうか。この『lain』という作品の根幹をなすドグマに、結局ぼくは最後までなじむことができなかった。いや、今回改めて見直して、ぼくの感覚と相反している部分を発見した、と言ったほうが正確だろう。ぼくは『lain』の演出、また映像表現には全面的な影響を受けているが、その思想面、シナリオ面ではさして影響を受けなかった。
 よく思うのだが、たぶんぼくは、所謂インターネット的な人間の在り方とは真逆に位置する存在だ。ぼくはインターネットというものに、変な言い方だが、あまり納得していない。ぼくは結局、インターネットから取り落とされていく肉体や記憶。そういったものに執着があるのだ。
 玲音。そういえばぼくは、玲音の夢を二度ほど見たことがある。一度目は薄汚いトイレの中で、二度目は切り立つ崖の縁で、玲音はいつも、ぼくに何かを問いかけてくるのだった。しかしぼくには、問いの内容を理解することも、それに答えることもできなかった。
 玲音。ぼくはもうきみを夢見ることはないだろう。

 「人はみんな繋がってる。人の意識が本当にあるところで……。
  あたしは、そこにいるの。
  だから──、あたしはどこにだっているの……。
  だから──、
  いっしょにいるんだよ……ずっと……」

 玲音。ここにあるすべてのテキストを、遍在するきみのEGOに捧ぐ。

※本記事は、同人誌『インターネット2 VOL.2 アンダーグラウンドへの憧憬』(2020年10月1日発行)に執筆したエッセイを転載したものです。

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