これからの「メスガキ」の話をしよう

 成人男性に対して性的挑発をしかける女児────いわゆるメスガキは時代と共に常に変遷してきた。しかし、スガキヤ大量閉店以降の世界ではメスガキという想像力が死に絶えつつある。
 しかし、それでも女児は成人男性を性的誘惑する。
 今――2021年でも通用するメスガキ像を提示することは、女児が性的誘惑をする国に住む大人の義務ではないだろうか。

 本記事ではこれまでのメスガキ像の変遷をおさらいして、「これから」のメスガキ像を模索したい。


■80年代のメスガキ
 80年代において、社会に参加して大人に認められることは「正しい」ことであった。
 その時代のメスガキにとって性的魅力とは能力であり、女児が社会への参加を許される切符であった。
 女児が性的な魅力を通じて社会参加するという物語という物語のなんと輝かしいことか。
 しかしながら、社会に参加することが無条件に「正しい」とされる時代はすぐ終わってしまう。もちろんメスガキ像も時代と共に移り変わることになる。

■90年台中盤のメスガキ
 90年台中盤からゼロ年代前半にかけてのメスガキはむしろこの逆で、「成人男性との2人の世界」に浸るようになる
 「女児に性的興奮を覚え性行為をしてしまう成人男性の誤りによって、社会に参加しないことを許される」これが90年台中盤からゼロ年代前半にかけてのメスガキ象の主流であった。
 これは「大人は正しくない」「正しさを保証するものがどこにもない」という、当時の女児の感覚が反映された結果である。如何にもドラマチックに「大人の正しくなさ」を嘆く様は当時の女児がその事実に衝撃を受けていたかが伝わってくる。

■ゼロ年代中盤のメスガキ
 しかしながら、この衝撃は長くは続かなかった。
 この時代の女児にとって「正しさを保証するものがどこにもない」はすでに前提となり、「その中で如何に生きるか」を問題にするようになる。ここからその答えを求めていくつものメスガキ像が表れた。

①貧困型メスガキ
 これは貧しい身の上のため、自らの性を売り物にしなければ生きていけない、というメスガキ像がある。
 「したたかで貧しく、性を売り物にするしか生きていけない少女」というと昔からあったむしろ古典的なメスガキ像だが、かつてのそれとはわずかに異なる。彼女たちは過剰に挑発的な態度を取り、成人男性をせせら笑う。
 これはゼロ年代前半の「弱い引きこもり型のメスガキ」に対するアンチメスガキーであろう。「正しさが存在しない」を前提としている新世代の女児たちが、「正しさが存在しないことにショックを受けて引きこもってしまうメスガキ」の弱さに辟易していたであろうことは想像に難くない。

②ゆるふわ型メスガキ
 これは「何故、女児は成人男子に性的誘惑するのか」という問いに対して「それを忌避する性倫理、家父長的な感覚がそもそもない」という回答をしたメスガキ像である。
 何故女児は成人男性を誘惑するのか、それはそれがなんとなく楽しいからだ。成人男性を誘惑することを忌避する感覚のないメスガキにとっては、その程度の「ゆるふわ」な動機で充分なのだ。
 「正しさ」の存在しない世界において「正しさを求めることを止めて楽しく生きる」それがゆるふわ型メスガキだ。

 しかしながら、このメスガキ像を支える想像力はスガキヤ大量閉店によって死滅してしまう。
 人間には物語が必要である、というのはスガキヤ大量閉店以降の共通認識だろう。

③新教養主義型メスガキ
 このメスガキ像を理解するためにはまずはこの時代の大人達について語らなくてはいけない。
 「正しさ」が失効したという衝撃は女児だけを襲ったわけではない。
 女児を保護し、教育する立場の大人達もまたなにをやっていいか迷っていた。
 「正しさ」のある世界において教育とは子供達に自分が経験してきたこと、それから学んできたことを教えることだ。しかしながら、「正しさ」の失効後の世界において親がしてきた経験はすでに古くなってしまっている。
 それ故、大人達は「子供が挑戦して失敗しても挽回できる環境を作ることが大人の唯一できることではないか」と考えた。いわゆる新教養主義である。
この大人達に対する反応として生まれたのが新教養主義型メスガキだ。
 女児達は、挑戦したら大人達が喜ぶから挑戦する。そこには大人達が望んでいる自発性なんてものは存在しない。大人達に生殺与奪の権を握られている女児が大人の顔色をうかがっているだけだ。しかし、大人達はそれに気付かずに挑戦する女児達に喜ぶ。
 それに対する女児達の違和感――もっと強い言葉を使ってしまえば〝嘲笑〟がこのメスガキ像にはこめられている。

 新教養主義型メスガキの物語のテンプレートは以下のような物だ。
 さらに大人達は葛藤する。挑戦して失敗することのできる環境といっても性愛については傷つくことは不可避で、それに対して親ができることはなにもないのではないか。
 そしてこう思いつく。「傷つけあうことは不可避であっても妊娠のリスクがない初潮前であれば取り返しがつく。初潮前に性愛を経験させることが自分たちにできることではないか」。
 こうして親の「学習して欲しい」という望みを受けて女児は性愛を学ぶために成人男性に性的な誘惑をかける。

 この物語に衝撃を受ける大人達を見てさぞや女児達は痛快だっただろう。「お前たちのやっていることはこういうことだぞ」彼女たちの声が聞こえるようだ。

■死滅したメスガキの想像力
 しかしながら、こうした数々のメスガキを支えていた想像力はスガキヤ大量閉店によって死滅してしまった。
 賢く強い貧者などいない。
 人は物語なくして生きられない。
 親たちにそんな小理屈をこねくり回す余裕などない。

 私たちは「これから」のメスガキ像を考えなければいけない。
 それが成人男性を誘惑する女児がいる世界に暮らす、大人達の義務だからだ。

■「これから」のメスガキ像
 これからどのようなメスガキ像が主流となるのか、それは分からない。
 しかし、次のメスガキ像の萌芽はすでに芽生えている。

 最近、Twitterなどで見られるメスガキ・イラストには「メスガキに性的誘惑をされるけど、性行為はしない」「メスガキはメスガキムーブをしているが、内心とは必ずしも一致しない」などの物が多い。メスガキムーブは「甘え」であり、それを大人は「許す」ことで受け入れる。
 それはこれまでのメスガキ像に比べて随分と「温い」ものだ。これは、大人が正しくないことにショックを受けて引きこもるゼロ年代前半のメスガキとも、それを前提としてこの世界を生きようとするゼロ年代後半のメスガキとも異なる、温い許しと甘えのメスガキ像だ。
 それは「結局のところ女児は大人と家父長制的な関係を結ぶしかない」という諦観にも見える。
 しかし、ここで描かれる関係は、かつての絶対的な家父長制を前提としたものではない。「大人は間違っているかもしれない」「成長によっていずれこの日々は終わる」を前提としたものに見える。
 そこには「正しさ」がなく不透明で流動性の高い社会で、自棄にならず成熟しようという意識が見られる。〝スガキヤの大量閉店した世界でどう生きるか〟という問いに対する答えがここにあるのかもしれない。

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